第七話 最後の枷鎖 - 創造
「入ってこい。」
重いドアがゆっくりと開いた。
「お呼びでしょうか?」
ミーアはイーサンのオフィスに足を踏み入れた。
「イーサン大佐」 と彼の名を呼び、椅子に座っている彼を見つめる。
「どこへ向かっているのですか?」
ミーアはイーサンの後をついて廊下を進む。通り過ぎる兵士たちが一斉に敬礼するが、イーサンはそれを無視したまま歩き続ける。
「昨夜はよく眠れたか、ミーア大尉?」 彼はふと尋ねる。
「はい……おかげさまで」
(まったく眠れてない)
イーサンはセキュリティロックを解除し、研究室へと彼女を招き入れた。
「ここは……」
ミーアが見渡す限り、記憶にない場所だった。
「これは覚えがあるだろう?」
イーサンがケースの中を指さす。そこには何かが蠢いている。
「見た目は普通の肉塊のようですが……」
ミーアが覗き込むと、突然その塊がガラスに激突した。彼女は微動だにせず、冷静に観察を続ける。
「動くのですね」
(軍が発見した新種の生物か?)
「しかし、どこか見覚えが……」
以前研究したような気がする。
他の標本に目を移した瞬間、ミーアの表情が変わる。
「まさか、これは……!」
記憶が蘇る。恐怖が顔を覆った。
「ノエルが以前作り出した……」
あの時、ノエルが自分自身を模して生み出そうとした──
「『人間』……!」
「なぜ動いているんですか? あの時は動かなかったはずです!」
ミーアがケース内の物体を恐怖の眼差しで見つめ、ゆっくりとイーサンへ視線を移す。
「ノエルが基地を暴走させた日だ」
あの日、ノエルが屍を蘇らせる能力を持っていることが判明した。
「彼が作り出したものは、全て命を得たように動き出した」
研究室の職員が説明する。
「それは……ルーカスを復活させた時、他のものにも生命を与えたということですか?」
ミーアの問いに、研究者は首を横に振る。
「これらの動き出した時期は、ノエルの首に『首飾り』が現れた時と一致しています」
彼が屍を蘇らせる能力を失った直後のことだった。
「どうして……?」
(私の推測は間違っていたのか……)
ノエルは生命を操る力を失ったはずなのに、同時に過去に作ったものに命を吹き込んだ。
(矛盾だらけ……)
「軍上層部の当初の推測では」
イーサンが静かに口を開く。
「『生命』に関わる能力だが、首飾りの効果で『人間』には使えなくなったと考えている」
世界各国の専門家が集まり、導き出した結論だった。
「彼は生命を創造する力を失ったどころか、むしろ『獲得』した可能性すらある」
「とにかく、今は戦争解決を優先する」
研究室を出る際、イーサンが最終命令を伝える。
ノエルに戦争勝利のための兵器製造を協力させつつ、その存在を世間に知られないようにすること。
「はあ……」
ミーアは分厚い資料を抱え、ノエルの部屋へ急ぐ。
(以前のように兵器を作らせる……)
(だが、今のノエルが従うかどうか……)
彼はここでの全てを楽しめていないようだった。
(昨日、あんなことを言ってしまった……)
しかし軍も、ノエルがミーアだけに依存しないよう、他の者へ関心を向けさせようとしている。
重厚なドアが開く。
「おはようございます、ミーア大尉!」
リオラが床から飛び起き、敬礼する。
「ご苦労さま、リオラ中尉。休憩を取ってはどうですか?」
「結構です。昨夜もここで寝ましたから」
ノエルに添い寝しているうちに、自分も眠ってしまったのだ。
床に座るノエルは無言で、虚空を見つめていた。
「目覚めてからずっとこんな状態です。ですが身体検査では異常ありません」
「ノエル?」
ミーアがしゃがみ込み、彼の頭を撫でる。
ノエルは一瞬ミーアを見上げたが、すぐにまた俯く。
(足首のアンクレットが現れたのも、まだ原因がわからない……)
(ノエルのこの状態と関係があるのか……)
「食事を運んできました」
ダミアンが食事のカートを押して入ってくる。
「ありがとう」
「ノエル、一緒に食べよう」
ミーアが優しく声をかける。
「昨日約束したでしょう? 私もここで食べるって」
しかし、返事はなかった。
壁際に立つリオラとダミアンの表情が険しい。
(ノエルが食事を取らない……)
ミーアは複雑な思いでスプーンを置く。
(以前なら気にしなかったが、今のノエルの体は……)
栄養を摂取する必要があるはずだ。
(朝から一言も話さないとも聞いた……)
私が来てからも無言のまま。
もしノエルが軍に協力しなくなったら、上層部は何をするだろう──強制か? 脅しか?
「食事は下げてください。二人も一旦部屋を出て。ノエルと二人きりになりたい」
「了解しました」
二人がカートを押して出て行き、部屋にはミーアとノエルだけが残された。
「どうしたの、ノエル?」
ミーアはノエルを抱きしめる。
「昨日の私の言葉で傷ついたなら、謝る」
彼の頭を撫でながら、
「あなたはまだ子供よ。そんなことを考える必要はない」
死は人生の終わりであり、まだずっと先の話だ。
子供が直面するべきことではない。
「私も、今こうしてノエルと過ごせる時間が好きよ」
それでもノエルは反応しない。
彼はまるで魂を失った人形のようで、動かず、話さず、体温さえも徐々に冷めていくように感じた。
ミーアは書類を手に取る。
「ノエル、何か作りたい?」
ノエルの瞳にかすかな光が戻る。
(昨日の会話で、ノエルに「兵器以外なら何でも作っていい」と聞いた時……)
ノエルは「兵器はいや」と言った。
(ノエルは「兵器」の概念を理解している……?)
軍が教えたのか、それともリリーが話したのか。
ミーアは資料を取り出す。
「医療物資、軍用衣類、建設資材、輸送機器、通信機器、そして偵察機器……」
リストを確認しながら、ミーアはノエルに紙を差し出す。
「ノエルはどれから作りたい?」
ノエルはゆっくりと手を上げ、医療物資の写真を指さした。
「そう」
ミーアは彼の頭を撫でる。
「必要なものを運ばせます」
(基地にいた頃、上層部はノエルに特定の物資を作らせていなかった)
(ノエルは初めて見るものは、実物を見なければ創造できないらしい……今になって知ったことだ)
部屋には医療用品や機器が次々と運び込まれる。ミーアはそれらをチェックしながら、
「新型の検査機器まで……」
(自分の診療所にも置けたら……いや、無理か)
最新鋭の医療機器に思わず感嘆の息を漏らす。
ノエルは並べられた部品の一つ一つを触りながら確認している。
「機械に触れるだけで複製できないの?」 ミーアが尋ねると、
「全ての部品を理解する必要があるようです」 と研究者が説明する。
「危険な成分を含むものは?」
「触ろうとしません。一瞥するだけです」
(写真や映像ではダメで、実物を見なければならない)
「ほとんどの材料は既に知っています。今日は未見の材料を持ってきただけです」
研究者の言葉が終わらないうちに、ノエルは同じ機器を部屋に出現させた。
ミーアが作られた機器を操作してみるが、
「反応がない?」
「プログラム部分が再現できないからです。見えないものは創造できない」
「後で手動でプログラムを組み込みます。そうすれば使用可能になります」
「ノエルにプログラミングを教えればいいのでは?」
「上層部が許可していません」
(全ての創造物にアクセスできるようになることを恐れている。AIのように)
(この制限がなければ、人類の技術は飛躍的に進歩しただろうに)
だが国家はコントロールを失うことを何より恐れる。ノエルにそのような自由は与えられない。
「最新技術の複製を許可したのは珍しいです」
(とはいえ物理的な部分だけだが)
「以前は静的なものしか作らせませんでした」
(銃器、装甲車の外装、軍用品など)
「作業時は誰も近づけず、コミュニケーションも禁止でした」
(イーサン大佐と、ノエルの身体検査を担当していたルーカスだけが接近を許されていた)
「今こうして近くで観察できるのは貴重な機会です」
「話しかけてもいいでしょうか?」
「でも、彼が話すのを聞いたことがありません」
研究者たちがささやき合う中、ミーアは資料を見つめる。
(イーサン大佐は来ていない……)
(つまり、これは本来彼の仕事だったのか)
(アシスタントはいるが、一人で二人分の業務をこなさなければ……)
(早く誰かに引き継いで、診療所に戻りたいが……)
ミーアは複雑な表情で手を止める。
(引っ越しも必要になるだろう)
軍が自宅まで見つけた以上、あの町に戻るのは難しい。
「ミーア大尉、イーサン大佐がお呼びです」
兵士が報告に来る。
「了解しました。あの三人を呼んでください」
リオラ中尉、ダミアン少尉、クリス軍曹がミーアの前に並ぶ。
「何かご命令でしょうか?」 リオラが問う。
(ノエルが何かを作っている……)
クリスの好奇の視線がノエルに向く。
「これからはあなたたち三人でノエルの世話を交替で行います」
・睡眠時間帯はリオラ中尉
・定期検査はダミアン少尉
・クリス軍曹は……ノエルと遊ぶこと
「問題があれば報告を。以上」
「承知しました」
「ノエルと深い感情を築かないように」 ミーアは付け加える。
三人は困惑した表情を見せる。
「これは上層部の命令です」
違反者は即時計画から外される。
「私はこれで失礼します」
ミーアはその場を離れた。
ノックの音。
「入ってこい」 オフィス内から声がする。
「何のご用でしょうか? イーサン大佐」
ミーアが入室すると、以前より物が減って広くなったように感じる。
「あの足輪の原因はわかったか?」
イーサンは椅子の背もたれに隠れながら問う。
「いいえ、まだ不明です」
「そうか」
表情は見えない。
「私は明日、この計画から外される」
平静な声で告げられる。
「それは……早いですね」
(だが軍では珍しいことではない)
(しかもこの世に知られることのない計画だ)
「ここにいても階級は上がらない。前線に指揮官が必要なようだ」
計画離脱後は最前線に配属される。
イーサンは首から壊れたペンダントを取り出す。半分が溶けたような形状だ。
「希望すれば、今ならお前も計画から外せる」
ペンダントをしまうと、椅子ごとミーアの方へ向き直る。
「そもそもお前を呼び戻したのは私だ」
彼女さえ戻れば、ノエルも必ずついてくると計算していた。
「他の部署に移るもよし、退役するもよし」
(ただし元の町に住むことはできない)
「上層部は承諾したのですか?」
「昨日の騒動で、お前が基地にいる限り、ノエルは制御不能になると判断した」
彼女がいない方が良い――上層部の結論だ。
「今回は、きちんと別れを告げておけ」
ミーアはオフィスを出ると、壁にもたれて深く考え込んだ。
神はクリスマスの日に現れ、人類に贈り物を授けた。人々はそれを『ノエル』と名付けた。
人間の外見を持ち、感情も示す。だが、これが偽装か、真実か――誰にもわからない。
人々はノエルを恐れ、同時にその力を渇望した。
だから彼らはノエルを制御し、この国のためだけに働かせようとする。
戦争は続く。この国が終結の鍵を握っている。ノエルは他国が恐れる力をこの国にもたらした。
ノエル降臨後、この国は表立って参戦せず、背後で無限の兵器を供給し続けた。
今、長き戦争は終幕を迎えようとしている。
ある研究者の過失で、ノエルは一度逃亡した。
だが今、それは軍の手に戻り、制限の枷をはめられている。
この国が正式に参戦してから二年。
そろそろ決着をつける時だ。
ノエルの力により、軍はこの戦争を終わらせるだろう。
十年後——
世界大戦が正式に終結してから七年。この国は世界有数の強国へと成長していた。
ある天才の登場が報じられて以来、国の科学技術は驚異的な発展を遂げた。
「ノエル」
研究室の廊下で、研究者が白髪の少年を呼び止める。
「大佐がお呼びです」
少年が振り向くと、雪のように白い髪と睫毛、天使のような顔立ちだった。
「そんな呼び方は失礼よ」
女性研究員が歩み寄る。
「『博士』をつけなさい」
「すみません、ノエル博士」
部下の不手際を詫びる彼女に、少年はにっこり笑う。
「大丈夫! 今すぐ行きます!」
弾む声が喜びを伝える。
「ノエル」
別の声が彼を呼んだ。実験室で、緑の長髪を揺らす男性が手を挙げている。
「今日は君の誕生日だ。彼女も誘うのを忘れるな」
「うん、わかってる!」
首飾りと腕輪が光りながら、少年は駆け出していく。
「実験室で装飾品は禁止では……?」
新人研究者が呟くと、
「あれはノエル博士よ。問題ないわ」
女性研究員が答える。
緑髪の男性が加わる。
「それに、外せないんだ」
「あ、久しぶりですね、ルーカス博士」
「ええ、ご無沙汰していた」
ふわりと舞う緑の髪。中性的な風貌の男性は、実験室でひときわ目立っていた。
「『教授』で呼びなさい!」
女性研究員が彼の頭を小突く。
「痛っ……ルーカス教授……」
「もう軍じゃないんだから、そんなに暴力振るわなくてもいいだろう、リオラ……」
「ここはれっきとした軍事施設よ、ダミアン大佐」
鋭い視線を向ける彼女。
「それに私は『リオラ博士』です! 訂正しなさい!」
「いや、階級で言えば俺の方が上だぞ?」
ダミアンは正色で言う。
「大佐と大尉では格が違う」
「ここは実験室。あなたは私を博士と呼ぶ義務がある」
「まあ……確かにそうだが……」
(このモヤモヤは何だ?)
ルーカスが和ませるように笑う。
「僕はどう呼んでも構わないよ」
リオラが分厚い資料を差し出す。
「これを準備して」
「何だこれは!?」
「ノエルが要求した材料リストよ。今日中に仕上げなさい」
「無理だって!」
ページをめくるダミアンに、ルーカスが説明する。
「明日から新型薬剤の製造を始めるらしい」
「前に一日で八種類も作ろうとして、実験室が大惨事になったわ」
リオラは苦い記憶を噛みしめる。
「最近やっと自制できるようになったのよ」
「女性が昇進できるのは大尉までですからね」
資料整理を始めるダミアンを見やりながら、リオラが言う。
「だから軍を辞めて博士号を取ったの?」
「五年もかかったわ」
「今の軍で一般人が大佐までなるのが精一杯だろう」
ルーカスが頷く。
「小国同士の紛争がまた始まったとか?」
「前に介入した時は甚大な被害が出たわ」
(勝ったとはいえ)
もう他国の戦争には関わるまい。
「俺は軍を出た後の生き方を探してる」
ダミアンは国立軍事研究所を選んだ。
「診療所を開けばいいじゃない」
「ここは国内で最も忙しい施設だぞ?」
「それが……報奨金が最高なんです!」
半年ごとの成果発表ごとにボーナスが支給される制度だ。
「つまり私たちは半年ごとに新発明を強いられるのよ」
休む暇などない。
「それにノエル博士は思いつきで研究を始めるから……」
あらゆる分野に手を出す天才。
「『博士』づけで呼べって言ったばかりじゃないか」
ダミアンが指摘すると、
「私とノエルは三年も一緒よ。プライベートでは呼び捨てでいいの」
新人扱いするリオラに、
「俺だって七年前に面倒見てたぞ!?」
「時が経つのは早いな……」
一方、ノエルがオフィスの扉を開ける。
「来たか、ノエル」
白髪が目立つ女性将校が顔を上げた。
「ミーアの髪、私と似てきた~」
太陽のような笑顔。
「年ですよ」
穏やかに見つめるミーア。あの日から十年が過ぎていた。
「それと、『ミーア大佐』と呼びなさい」
「でも……慣れない……」
「もう、二人とも同じことを……」
「今日は僕の誕生日です!」
ノエルが弾む声で言う。
「今夜パーティー! ミーアも来ると約束してました」
「覚えていますよ」
「最近ミーア、物忘れがひどいです」
「老年医学の研究を始めるべきか……」
「年には勝てません」
ミーアが立ち上がり、ノエルに近づく。
「でも、ノエルのことは覚えています」
昔と同じように頭を撫でる。
「それじゃ、パーティーに行きましょう!」
今日の仕事は終わりだ。
「呼んだ用件を忘れたのか……」
「あ……」
思考が停止するノエル。
「相変わらず、考えすぎると記憶が飛ぶな」
ミーアが苦笑する。
「パーティーの話ですか!?」
(欲しい情報を最優先で思い出す癖も変わらない)
「違います」
ミーアが書類を手に取る。
「政府主催のシンポジウム開催の件です」
海外の学者も招く大規模な研究会だ。
「あなたの出席を――」
「嫌です!」
即座に拒絶するノエル。
「どうして?」
(答えはわかっている)とミーアの声は優しい。
「みんな……僕を……信じて……くれない」
途切れがちな言葉は、あの頃のまま。
「シンポジウムは真実を議論する場です」
机の書類を手に取りながら、
「何が正しいかを確認するために」
「変です」
ノエルの瞳が強く輝く。
「『現実』は議論する必要がないはず」
ミーアが静かに見つめる。
「とにかく、出席は決定です」
判子を押す音が響く。
「どうしてーーー!?」
慌てるノエルに、
「研究室もたまには休む必要があります」
「僕は休まなくていい!」
(エネルギー有り余っている)
「他のスタッフのためです」
ミーアが微笑む。
「ルーカス教授も数日休みを希望していました」
(ノエルを放っておくと、また何をしでかすかわからない)
「ねえ、ノエル」
ミーアが静かに問いかける。窓から差し込む夕陽が、十年で背丈を伸ばした彼のシルエットを浮かび上がらせる。
「今のノエルは、幸せですか?」
「もちろんです!」
弾けるような声。かつての少年は、低く響く大人の声を持っていた。
「そう……」
ミーアの目がノエルの右足に止まる。最後の枷――五つの銀の飾りが、彼を普通の人間と同じ存在にしていた。
(この頭脳があれば、世界を変えられたのに)
(神のごとき存在が、自らを縛りつけた)
「人間は不思議な体験を、よく『夢』に例えますね」
ノエルが窓辺に手を置く。
「僕はその夢の中で、知恵を基に何でも創造します」
「目覚めた後、現実で再現可能な方法を実験する」
「遠回りですが……」
「僕にとって、夢の中の方が『本当の僕』です」
何にも縛られず、自由な姿。
「これは世界の枷。人間への枷」
ノエルが両手を広げ、くるりと回る。飾りがきらめく。
「僕はこの枷を付けたまま、夢のような世界で踊りたい」
「永遠じゃない!」
「自ら選んだ信念です!」
「この世界には無限の可能性がある!」
「そう……」
ミーアの囁きに、後悔がにじむ。
(あの時、私たちが恐れなければ)
(枷など必要なかったのかも)
「そろそろ出発しましょう!」
ノエルがまだ回転を続ける。
「私が支度するから、先に出てて」
「それと、回るのやめなさい……」
「リリーに教わったダンスです!」
「コツは手足を目いっぱい広げて、ぐるぐる回ること!」
歌らしきものを口ずさむノエル。
「無限に伸びる手足の先には――」
「可能性が広がっている!」
「踊れ、回れ、創造せよ!」
「でもリリーは背を伸ばすためだと言ってました」
「僕が彼女より背が高いのが気に入らないらしい」
「統計的には普通だと思うのですが……」
「遺伝子操作で成人後の身長を……あ、ルーカス教授が禁断領域だって」
「人間って自分で限界を作るのが好きですね」
「解決策があれば、誰も気にしないのに」
「早く出てっちゃいなさい!」
ミーアに押し出され、廊下でしゃがみ込むノエル。
「『身長調整』研究メモ……」
ノートに書き込む指先。
「ノエル」
緑の髪が視界に揺れる。ルーカスが腰を折る。
「何をしている?」
「新しい研究のアイデアです!」
ノートをぱっと奪われる。
「身長調整……?」
ルーカスの眉間に皺が寄る。
「人類の悩みを解決する画期的な――」
ビリッ!
ページが引き裂かれる。
「これはダメ」
ルーカスがポケットに紙片をしまう。
「休暇中に変なものを作らないか心配だ」
「ミーアにもらったノートなのに……」
「新しいのを買いましょう」
頭を撫でる手。
「人間の資源は有限です」
ノエルの一言がルーカスを凍らせる。
創造力を失った後、ミーアが教えた教訓だった。
「五冊目です……」
ボロボロのノートが取り出される。
「まだ書きかけでした」
(彼の頭脳は危険すぎる)
(考えさせないのが最善だ)
「紙のリサイクル技術があれば……」
ルーカスの言葉に、ノエルの瞳が輝く。
「ガラスは再利用可能ですから……」
話題を巧みにそらされ、気づけば車の中。
「ここは?」
「レストランへ向かう車です」
運転席のイーサンが静かに答える。
「片手運転大丈夫?」
ルーカスが戦傷の跡を見つめる。
「問題ない」
「君の身体は……」
イーサンの声が沈む。
「本当に大丈夫か?」
死んだはずの男をまじまじと見る。
「大丈夫」
ルーカスが額の傷跡に触れる。
「この傷がなかったら、ノエルに作られたクローンかと思ったかも」
「遺体を二年も保存したのは驚きだ」
「家族代行としての保管だ」
イーサンの冷たい返事。
「年齢差が三歳になりましたね」
ルーカスが自分の手のひらを見つめる。
死んだ時の体のままだ。
「二度と消えないか?」
窓越しに問うイーサン。
(あの伝染病の時……)
ルーカスは戦争終結後の混乱を思い出す。
ノエルの作った特効薬を、ミーアが各国に無断供与したこと。
女性ながら大佐にまで上り詰めた彼女の強さ。
「あの女性は本当に凄い」
イーサンがハンドルを握りしめる。
(ルーカスを蘇らせたのも彼女だ)
電話で告げられた衝撃的な言葉。
『ノエルにルーカス博士を生き返らせます』
「接触した者しか創造できない」
「『嫌いなものは作れない』――失礼な意味ではありません」
ミーアの言葉に、電話の向こうでイーサンが静かに笑った。
「矛盾だらけの説明だな、ミーア大佐」
「矛盾などありません」
「ノエルは確かに人を復活できなくなった。だが、封印によって動き出した創造物を見たはず」
冷たい指摘が飛ぶ。
「生命を変える力を失い、代わりに生命そのものを理解した」
「私の在任中、多くの情報を隠していたようだ」
「今になって理解しただけです」
ミーアの声に微かな震え。
「そもそも、ノエルは人間を創造できません」
「実験室にある唯一の完成品は、ノエルそっくりの人体です」
「だが、あれだけは動かない」
ノエルの言葉が蘇る。
『ノエルと同じものを作りたい。でもノエルは物じゃない、人間だ。人間は……』
『ノエルは一人。もし作ったら、それは創造じゃない。だってノエルはもうここにいるから』
「あなたが『創造物』と呼んだ時も」
ミーアが続ける。
『正しいかもしれない。でもあなたは嫌い』と」
(完全に嫌われたようですね)
長い沈黙の後、イーサンが問う。
「ルーカスを生き返らせることは可能か?」
「質問が違います、イーサン少将」
ミーアの声が鋭くなる。
「『あなたが望むか』です」
「ノエルは今、屍の位置を感知できない」
第二の枷――生物学的制限。
「人の意志を決定できない」
第三の枷――自由意思。
「あなたが拒否すれば、手段はありません」
「屍を動かすことなど、もはや我々の領域外です」
「上層部の監視が厳しいですからね」
ミーアが冷凍コンテナの到着を見守る。
「伝染病の遺体じゃないですよね……?」
クリスが青ざめて後退する。
ノエルが興味津々で近づく。
「基地から出られない以上、仕方ありません」
ミーアがノエルの肩を押さえる。
「リオラ大尉、関係者のみ残して」
冷凍庫のガラス越しに、ノエルが屍を見下ろす。
「できる?」
ミーアの問いに、ノエルの右手のブレスレットが赤く光る。
「前は断られた」
「ノエル、自由意志とは何か覚えてる?」
「他人の意思を……尊重する」
「違うわ」
ミーアがノエルの顎を上げる。
「誰もが選ぶ権利があるということ」
「今、ノエルは何がしたい?」
「彼を起こす!」
瞳が輝くノエル。冷凍庫が開く音。
(ごめんねルーカス。屍に選択権はない)
ミーアの目が冷徹に光る。
(拒否したら……生き返るまで繰り返す!)
(今はノエルを制御できる人材が……)
ノエルの手が屍に触れる。
(魂の意思とか気になるけど……)
事故死だったことを思い出す。
(当時は第三の枷がなかった)
ルーカスが自らの命でノエルに教えた――
第一の枷「生命」の重み。
「魂は創造できない。創造物じゃないから」
ノエルの説明が蘇る。
「動き出すものには生命だけ」
「睡眠中も魂は体から離れることがある。植物状態も同じ」
「元の体と魂は見えない糸で繋がっている」
「体が活動状態になれば、自動的に魂と再接続する」
「この世に想う人がいれば、魂の一部は残る」
血色が戻る屍。
(うまくいきますように)
「ノエ……ル……?」
瞼が震え、声が漏れる。
「起きた!」
ノエルがミーアに飛びつく。
「これは……」
ルーカスが冷凍庫の縁に座り、縫い目だらけの頭を押さえる。
「二度も蘇らせるなんて……」
「イエス・キリストですら二度は復活しなかったというのに」
「人手不足で申し訳ありません」
ミーアが平然と衣服を渡す。
「人手が足りないからって屍を活用ですか?」
ルーカスが立ち上がり、ノエルを見やる。
ノエルはミーアの背後に隠れ、じっと観察している。
「安心してください。ノエルはもう復活能力がありません」
「どういう意味だ?」
「ノエルがあなたの体を再創造し、蘇生させた」
「は?」
ルーカスの顔が引きつる。
「クローン……?」
「違う! 元の体を……使える状態に戻しただけ」
ノエルが風のような声で囁く。
「完全に生きている状態です」
ミーアが書類の束を取り出す。
「今回死ぬなら、自殺してくださいね」
笑みの中に鋼の意志。
「その前に――」
分厚いファイルが差し出される。
「仕事を片付けましょう」
「あれからもう八年か」
ルーカスの視線が車窓の流れる景色に吸い込まれる。ドアが開き、ミーアが車内に入ってきた。
「お待たせ」
ドアを閉める音と共に、ノエルがミーアに飛びつく。
「ミーア!この車嫌だ!あの人がいる!」
イーサン将軍を見るなり、子供のようにミーアの懐に潜り込む。
「将軍と久しぶりなのに、相変わらずね」
ミーアが苦笑しながらノエルの頭を撫でる。
「ノエルは相変わらずあなたが苦手のようだ」
ルーカスが呆れたように首を振る。
「出発する」
イーサンは無言でエンジンをかけ、冷たい視線を道路に向けた。
「さっきは何の話を?」
後部座席に腰を下ろしたミーアが尋ねる。
「私が復活した時の話だよ」
ルーカスが振り向きながら答える。
「確かに大混乱だったわね」
ミーアの目に当時の緊迫感がよみがえる。伝染病の爆発的流行と戦争終結が重なった、あの混沌の日々。
「あなたを伝染病対策の責任者にすればよかった」
「いやいや、私は死亡宣告から1年経っていたんだぞ?」
ルーカスが慌てて否定する。
「戦時中は誤報も多かったし」
「葬儀も挙げていなかった」
ミーアの淡々とした指摘に、
「やっぱり目立ちたくないな」
ルーカスは乾いた笑いを漏らす。
「それに、上層部の許可も得ずに蘇生させるなんて……」
未だに信じられないという表情。
「軍で長くやっていると、まず行動するものよ」
ミーアの声には戦場の教訓が滲む。
「緊急時は特に。生きている人間に文句は言えません」
「あなたのやり方は本当に恐ろしいよ、ミーア大佐」
ルーカスの言葉に、
「ノエルもあなたが戻ってきて喜んでいたわ」
ミーアはノエルの頭を優しくなでる。
「うん!」
ノエルが笑顔で同意する。
「でもノート破られた(ミーアがくれたのに)」
膨れた頬でボロボロのノートを見せる。
「新しいのを買いましょう」
ミーアの優しい声に、
「うん!」
「私は医術は知っていても、伝染病の専門家じゃない」
ルーカスは当時の混乱を思い出す。ワクチン発表の顔役として担ぎ出された苦い記憶。
「正式発表は専門家に任せるべきだった」
ミーアは楽しげに回想する。
「面倒な仕事全部押し付けられて……」
認可前の特効薬を緊急投与した副作用の対応、ワクチン流通の調整——
「目が回るほど忙しかった」
「ノエルが創造能力を失ったのもその後だな」
イーサンの冷たい指摘。
「ええ、伝染病が落ち着いた頃ね」
ルーカスが頷く。
「便利な能力なのに、なぜ封印した」
イーサンの問いに、
「僕は……」
ノエルが小さく口を開く。
「みんなと同じになりたかったから!」
目を輝かせて宣言する。
"自分の手で創りたい!"
「私は反対した」
イーサンがルーカスを一瞥する。
「ノエルが創ったものが全て消える可能性があった」
ミーアの表情が険しくなる。兵器、ワクチン、そして——
「消えないって言ったのに」
ノエルが不満そうに唇を尖らせる。
「一度創られたものは存在するんだよ」
「ノエル」
ミーアが真剣な眼差しを向ける。
「あなたはいつでも枷を解ける」
優しい囁き。
「自分に課したものも、他人から与えられたものも」
ノエルの瞳に迷いと光が揺れる。
「あなたは自由なのよ」
「ノエル!」
リリーが飛びついてくる。
「リリー!」
ノエルも笑顔で応える。
「ずっと研究ばかりでひどいんだから」
リリーが頬を膨らませる。
「あなたまだ15歳——いや、今日で16歳か」
「とにかく、この日を待ってたの!」
リリーの目が決意に燃える。
「結婚しましょう、ノエル」
「うん」
ノエルが素直に頷く。
「式はいつがいい?」
リリーが楽しそうに計画を立てる。
「研究がしたい」
ノエルの真っ直ぐな答えに、
「式はしないの?」
リリーが首を傾げる。
「時間がかかるって聞いた……登記だけじゃだめ?」
「でも式がしたい!ウェディングドレスも着たい!」
リリーの勢いに、
「リリーには……勝てない」
ノエルが小さく肩をすくめる。昔から彼女には逆らえなかった。
「ノエルもリリーの強引さには敵わないな」
ミーアたちが微笑ましそうに見守る。
「まずは肉を頼もう」
イーサンが淡々とメニューを開く。
「こんな高級レストラン初めて……」
クリスが高級食器に震える。
「ウェイター!」
ダミアンが慣れた手つきで呼び出す。
「パーティーって聞いてたから家でやるのかと」
リオラがメニューを検討する。
「ノエルは研究で忙しくて準備する暇なんてないからね」
ルーカスが説明する。レストランを貸し切ったのだ。
「研究室にテイクアウトを頼んでた頃よりましだ」
リオラの言葉に、
「そんな質素だったのか……予算は無制限と聞いていたが」
ダミアンが呆れ気味に呟く。
「両親も呼んできたよ」
リリーが嬉しそうに報告する。
「結婚の相談ですから~」
照れくさそうに頬を染める。
「でも研究データによると、結婚の意義は——」
ノエルが言いかけると、
「研究の話はやめて!」
リリーが遮る。
「研究とは結婚できないんだから!」
「確かにそうだけど……」
ノエルは思考に沈む。
「とにかく、注文しましょう」
ミーアが場を仕切る。
「はーい!」
リリーがノエルの手を引っ張る。
[終]