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女ハードボイルド探偵 上条翼シリーズ

夜明けの晩に

作者: 福本真矢

女ハードボイルド探偵上条翼シリーズ第3弾の短編。ドイツに住む日系カナダ人エリナ・カシハラは、フランクフルトで知り合った日本人観光客ツバサに、日本の古い素封家である生家で起こった話を語る。それは『かごめかごめの唄』に沿って行われた連続殺人事件だった。

 1


 マイン川は、星と街の灯を映している。そんな夜景の楽しめる屋外ビアホール「シュヴァルツェ・カッツェ」で、二人の東洋人女性が、小さな丸テーブルを挟み向かいあって談笑していた。

 テーブルの上には、ビールのジョッキとジャーマンポテト、そしてアイスバイン。その上を、英語が行き来している。

 英語で話すところを見ると、この2人の女性は同国人ではないと思われるが、先程から彼女らの会話に「ジャパン」という単語が頻出しているところを見れば、日本のことを話題にしているのは明らかであった。

 もっとも東洋人同士が英語で会話を交わす光景など、難民や観光客の多いこのフランクフルトでは特に目を引くものでもない。むしろ、2人とも美人であるということであることのほうが人目を引いた。ふたりは先ほども、どこの国の人間か分からない男の二人組を追い払ったばかりだ。

 ひとりは、ジーンズの上にミッキーマウスのシャツといったラフなスタイル。だが、全体の雰囲気はそれほど子供っぽくなく落ち着いている。丸顔で、茶に染めた髪。笑顔にだけ東洋人独特の子供っぽさがある。

 もうひとりの女性は、背が高く、黒ずくめのいでたち。もう少しで鋭いという印象を与えそうなとがった顎、とがった鼻の先、とがった切れ長の目元と目尻を、なんとか角をとって少しはやわらかくしたという感じの顔。こちらも見た目の年齢のわりに落ち着いた雰囲気をかもしている。

 ミッキーマウスの女性が、アメリカ発音の英語で言った。

「お友達になれたのに、今夜でお別れなんて残念だわ」

 黒服の女性がこう返した。

「観光旅行ですから。いろいろと案内してくださってありがとう。いい思い出になったわ。 ミス・カシハラ」

「エリナでいいって言ったじゃない。日本人はなかなかファースト・ネームで呼んでくれないのね」

 エリナ・カシハラなるミッキーマウスの女性は笑いながら続けた。

「もっとも私も、実父母も養父母も日本人なんだけど。それなのに、日本語は少しもしゃべれないなんて、申し訳ないわ」

「ご両親は、元は日本国籍?」

「いえ、両親は2世だから、最初からカナダ国籍」

「じゃあ、あなたもカナダ国籍なの?」

「ええ、でも、もう少しでドイツ国籍がとれるの」

「なぜ、カナダからこちらに? カナダもいいところでしょう」

「私、小さいときから古い街に、ヨーロッパにあこがれていたから」

「日本にいらしたことは?」

「1年間だけいたわよ。生まれてからの1年間だけ」

「お生まれは日本だったんですか」

 黒服の女は驚いたような顔をした。

「ツバサ、あなたは日本人だから分かるでしょ。私、生まれてすぐ日本語で言う『サトゴ』に出されたの。それで日系カナダ人の養子となった。だからここに来るまでは、ずっとカナダで暮らしていた。養父母は、日本には遠い親類しかいなかった。だから家ですら、日本語も、日本の話も聞いたことないの」

「ドイツにいらしたのはいつ?」

「20歳の時、その養父母がなくなってね。遺産は、十分すぎるほど残しておいてくれたから、生活には困らなかったけれど、そのまま両親のいた家で暮らすのが寂しくなって、それで心機一転、バンクーバーのカレッジを中退して、憧れのヨーロッパに移住することにしたの。そして小説でも書きながら暮らそうと思ったわけ。でもこれがうまくいかなくてね」

 エリナは手を広げた。

「小説はどんなものをお書きになるの? ミステリーとか?」

 エリナは、ここではげしくかぶりを振った。

「ミステリーはダメ。クリスティーとかも嫌い。童謡殺人ってあるでしょう。あれが大嫌いなの」

「なぜ?」

「日本に『かごめかごめ』ってあるでしょう。あれが嫌いなのよ。あれに嫌な思い出があるの」

「ほとんど日本とは縁がないというお話だったけど?」

「それが、ひとつだけあるの。直接、私自身の身の上に起こったことじゃないんだけど、でも、ひとつ運命の糸が織り間違えられていたら、私が姉の運命になってたかもしれなかった」

「どういうこと?」

「殺されたの。姉は」

 場が沈黙した。もっとも周囲は、どのテーブルも騒々しかった。エリナは横向き加減にうつむいたまま、今までとは打って変わった暗い調子で続けた。

「いいえ、姉だけじゃないわ。異母の弟も殺された。日本の私の生家はそれで断絶したの。でも、それで良かったと思うわ。私の生家は日本の古いしきたりの良くないところばかりを集めたような家だったらしいから。滅んで良かったのよ」

「それと『かごめかごめ』と何の関係が?」

 ツバサがそう訊くと、エリナが顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。

「実はね、『かごめかごめの唄』どおりに、人殺しが行われたのよ。クリスティーの『そして誰もいなくなった』で、童謡『10人の小さなインディアン』に沿って連続殺人が起こったようにね」

 また沈黙。

 やがてツバサがやさしい声でこう言った。

「エリナ。良かったら、その話、聞かせていただけないかしら」

「聞いてくれる? 実は、私もこの話、誰かに一度したかったの。一時期は、小説の題材にしようかと思ったこともあったんだけど、不快でとても書けなかった」

 エリナ・カシハラは横向き加減に脚を組みなおして、語り出した。


 2


 私の生家は、日本のG県、その山深い村にある旧家だった。

 家の名前は、貴志名(きしな)といったわ。その家は、陸の孤島のように、男尊女卑、家長、長男絶対主義などの古いしきたりの残る村の庄屋だった。私が生まれてすぐにサトゴに出されたのも、私が女の子の双子だったからで、その地方には、双子が最初に生まれた家は栄えないという言い伝えがあったらしく、双子が生まれた時は、弟、あるいは妹とした方をサトゴに出すという習慣だったの。そういうわけで妹の私が、遠い縁故のあるカナダの日系2世カシハラ家の夫婦に引き取られた。けれどこれは幸運だったわ。貴志名家に残った私の姉の千鶴子(チヅコ)こそ不幸だった。ああ、可哀そうな千鶴子!

 姉の悲惨な人生は、まず、その国に、その家に、女として生まれたことに始まった。男の子を欲しがっていた実父、貴志名明輔(アキスケ)は、千鶴子に何の愛も注がなかったの。

 実父の明輔という男は、長く子供ができなかった。お妾さんも数人いたという話なんだけど、そのお妾さん達にも子供ができなかった。そこに本妻に突然、子供ができたものだから、明輔は当初私たち姉妹を、自分の子供ではないのではないかと疑っていたくらいだったらしいわ。

 そして、その半年後に、お妾さんのひとりが男の子を産んだ。明輔はこれに狂喜した。 明輔は、万亀男(マキオ)と名づけたその男の子を溺愛した。そして、万亀男が生まれての2年後、こともあろうに、妾だった万亀男の母親も家に上がらせたの。本妻と千鶴子のいる家によ。それで、家の中にどういう変化が起こったかは言うまでもないわね。本妻と妾の立場が入れ替わった。

 明輔は私たちの母を離縁して、万亀男の母を本妻にしようと考え出したらしい。もちろん私の母はそれに抵抗した。もちろん妾への嫉妬や女の意地もあったかもしれないけど、何より母は、千鶴子を守るために。

 ところが、ことは千鶴子にとって悪い方向にばかり進んだ。母は千鶴子が11歳のときに、貴志名家の崖に面した危険な展望台のテラスから落ちて死んだの。ああ、可愛そうなお母さん!

 最初は自殺かとも言われたのだけれど、娘を必死に守らなければいけない環境に身をおいている母親が自ら死んだりするわけがないわ。たぶん、事故に見せかけた殺人だったのよ。ええ、私はそう信じているわ。

 万亀男の母親が、貴志名の本妻の座におさまったのはその半年後だった。そのときから万亀男も名実ともに貴志名の長男となったのだけれど、この万亀男というのが子供のときから、父親そっくりの男権社会の権化みたいな性格だったらしい。

 万亀男は何かにつけ、千鶴子をいじめるようになった。彼女は、けなげにも、万亀男の、万亀男の母の、明輔の、そして日本のゆがんだ社会のいじめに幼い身で耐えた。

 けど可哀想な千鶴子にさらに大きな試練が待ち受けていた。

 それは千鶴子が12歳の時だった。ある日、千鶴子は熱病を患ったのだけれど、誰もろくに看病してくれる者がなく、生死の境をさまよった。そして、なんとか命はとりとめたものの、千鶴子は永遠に光を失ってしまったの。

 その後、千鶴子の味方になってくれたのは、ただ一人、彼女の面倒を見る付き添いの松尾奈美という女性だけだった。そしてこの松尾奈美という人こそが、この旧態然とした貴志名家を滅亡に追いやってくれた人なの。

 それは、千鶴子が19歳になった時のことだった。父の明輔が病死したのがはじまりだった。これで、万亀男がいわゆる『家長』というものになったのだけど、その万亀男が、父明輔が死んだ1ヶ月後に、先ほど言った貴志名家の、あの展望台から落ちて死んだの。真夜中のことだった。

 実は、それは、松尾奈美のやったことなの。彼女が万亀男を突き落としたの。

 いきさつはこう。

 ある夜、万亀男は、酒に酔って、例の展望台に松尾奈美を呼び出した。何の用事かと思えば、未成年でいながら、貴志名の家督を継いでいっぱしの大人になったつもりの万亀男は、松尾奈美に自分の愛人にならないかと迫ったのよ。松尾奈美は、当時28歳。相当な美人だったらしいから。

 当然、松尾奈美は拒んだわ。のみならず、万亀男の行為、性格、そして何より千鶴子への虐待をなじり始めた。それが万亀男を逆上させた。千鶴子が、そんなことまでおまえにしゃべっていたのか、あいつもう許せない、ということで、万亀男は、そのまま千鶴子の部屋に走っていこうとしたの。松尾奈美は、それを止めようとした。そして、もみ合ったはずみに、万亀男を展望台から突き落としてしまったの。

 万亀男の死は事故として扱われた。なぜなら、松尾奈美は、千鶴子のもとを離れるのが心配だったので、自分の罪を黙秘し続けることにしたから。そしてこれからの千鶴子をサポートしていくのが自分の仕事であると、ヘレン・ケラーにとってのサリヴァン先生のように使命に燃えていたから。

 しかし、実は万亀男が落ちたときには目撃者がいた。いえ、『目撃』とは言えないわね。なぜならその人は、「見た」のではなく、「聞いた」のだから。目の不自由な千鶴子自身が、耳で、万亀男の最期の場面を聞いていたの。あの展望台の事故があったとき、千鶴子も近くにまで、不自由な目で来ていたのよ。おそらく千鶴子は、松尾奈美が万亀男に呼び出されたことを知り、何か起こると思ったのだと思うわ。

 万亀男の死亡事故のあった数日後、千鶴子は松尾奈美に、その展望台でこう問いただした。

「奈美さん、万亀男を突き落としたのはあなた?」

 松尾奈美は最初、否定していたけど、千鶴子に食い下がられて、ことの経緯を白状した。もちろん、殺意はなく、事故だったということをあくまで強調したらしいけど。

 ところが、事故であったことを千鶴子が認めようとしなかった。千鶴子は、

「私のためにあなたは万亀男を計画的に殺したんじゃない? それはダメ!」

 松尾奈美は、警察に自首してと詰め寄る千鶴子に対し、こう返事をした。

「あれは事故だったのです。これで千鶴子様は自由になれたのだから、そんなことは考えないで。これからあなたは自由に生きるの。そしてそのために私が手をお貸しいたします。だから私は自首はしません。いや、させないで!」

 それを聞くと、千鶴子は「だったら私が警察に知らせる!」と言って、そこを去ろうとしたの。松尾奈美はそれを止めようと、千鶴子の腕をつかんだ。ああ、そのとき、起こったことは、何ということなの! またしても、そこから人が落ちた。今度は、千鶴子が落ちてしまったのよ。

 こうして、貴志名家の跡取りはいなくなってしまった。けれど、この話はこれで終わりじゃない。問題は、たとえ過失とはいえ、2人の人間を死に至らしめてしまったのに、このことを秘匿していた松尾奈美のその後。

 彼女は、知らん振りをして世間を渡りおおせようとしたわ。彼女は、警察の事情聴取に対し、千鶴子が世をはかなんで死にたいと洩らしていた、という嘘の証言をした。

 警察は、万亀男の事故に続いて、同じ場所で千鶴子も自殺したと断定し、新聞にもそのように載った。

 けれど、そののち、松尾奈美は良心にさいなまされ、恐ろしい夢を見るようになり、むしろ捕まりたいと思うようになった。そこで、松尾奈美は、自分が犯人であるということを、それとなく警察に知らしめるための手紙を、所轄の担当刑事に匿名で送ったの。

 そのときよ『かごめかごめ』が使われたのは。

 松尾奈美はその手紙に、ただ短く、こう記したの。

『貴志名家展望台での姉弟連続死の真相は「かごめかごめ」の中にある。「かごめかごめ」に秘められた謎を解けば、この事件の真相が分る』

 と。

 あなたも日本人なら、分かるでしょう。千鶴子と万亀男。それぞれ、鶴と亀を意味しているらしいわね。だから「鶴と亀がすべった」という歌詞を持つ『かごめかごめ』は、まさに今回の事件そのもの。突き飛ばした者が「後ろの正面」にいるということを『かごめかごめ』の唄を引用することによって、松尾奈美は、警察に暗示したの」


 3


 エリナは、そこで口をつぐんだ。

 小さな貨物船が夜空を映した川面に大きなV字の波を起こしながら、マイン川をさかのぼっていった。押し寄せる波の岸を打つ音が聞こえる。

「それで? 警察にはそのメタファーの意味が分かったのですか?」 

 ツバサが訊いた。

「分からなかったらしい。そして、警察が真相を見破れなかったことに絶望した松尾奈美もまた、あの展望台から飛び降り自殺した」

 エリナは脚をくみかえて続けた。

「どうして私がこんなに詳しくこの日本の事件のいきさつを知っているか、あなた不思議に思ったでしょ。実は、その松尾奈美という女性が自殺する前に、長い遺書を残してね。その遺書を、先ほどの声明文を送った所轄の刑事に追って送っていて、そしてその刑事から貴志名の弁護士に、そしてさらにその弁護士から、カナダにいる私に送られてきたの。千鶴子は、自分が死ぬことがあったら、カナダにいる妹。つまり私に遺産をすべて送ると言い残していたらしいから。松尾奈美の遺書の中には、千鶴子の語ったつらい話もたくさん書かれていたわ」

 エリナは泡の消えてしまったジョッキを一度口元に運んでから続けた。今度は、少し興奮していた。

「でも、私は遺産なんかいらないって返事してやったわ。そんなお金、受け取っただけで、こっちの人生まで呪われてしまう気がしたから。私はお金よりも家柄よりも、自由が好きなの。第一、お金なら、養父母の残してくれた遺産で十分間に合っていたもの」

 エリナは、ビールの残り少なくなったジョッキをテーブルにたたきつけるようにして置いた。

「ちょっと酔ったかしら。これで分かったでしょう。私がなぜ、日本を嫌うか。なぜ『かごめかごめ』という童謡を気味悪がるか」

 そのとき、エリナは、目の前の日本人女性が、やや上目遣いで自分を見ていることに気がついた。

「あ、ごめんなさい。あなたの国のこと嫌いなんて言ってしまって」

「いえ、それより、その話、ちょっとおかしいなと思って」

「どこが?」

「その『かごめかごめの唄』の事件への関わり方です」

「どこがおかしいって言うの?」

「その松尾奈美さんという人が『かごめかごめ』に秘められた謎を解けば、この事件の真相も分かるという手紙を警察に出したことがです」

「なぜ、おかしいの? 私も『かごめかごめの唄』は知ってるわ。それと辻褄が合っているじゃない」

「いえ、『かごめかごめの唄』の歌詞は、まだ誰も正確に説明できてません。それに鶴と亀をすべらせたのが、うしろの正面にいた誰かであったとしても、それで、それが松尾奈美という女性を指すということになるのも唐突な気がします。そもそも、捕まりたかったら自首すればいいだけの話じゃありません?」

「人間の、ましてや犯罪者の心理なんて、そんな理屈どおりのものじゃないでしょ」

「確かに人間はときおり、不可解な行動をとります。でも、この『かごめかごめの唄』の声明文は『私を捕まえて』というより、それ自体が()()()()()()のように感じられます。つまり、その声明文は、本当に『かごめかごめ』の真実を見つけたら犯人が分かる、というものだったんじゃないでしょうか」

「私、あなたの言いたいこと、全然分からないわ」

「早い話が犯人は松尾奈美さんじゃないということです。彼女も真犯人に殺されたんじゃないかしら?」

 エリナはジョッキに伸ばしかけた手を止めて、目を見張った。

「あなたは、私のところに送られた松尾奈美の遺書が偽物だというの?」

「ワープロなら、誰が書いたか分かりません」

「じゃあ、あなたは『かごめかごめ』の真実を知っているというの? さっきの話だと、『かごめかごめ』の真実を解明した人はいないってことだったけど?」

「ええ、でも、いくつか説ならあるんですよ。ひとつの解釈は『籠の中の鳥』を胎児と見立てた説です。つまり赤ちゃんを流産させようと、誰かがうしろから妊婦さんを突き飛ばしたという解釈です。すなわち、『鶴と亀がすべった』というのは産まれてくる赤ちゃんという目出度いはずのものが死んだというわけですね。昔の日本の『家』の跡継ぎ争いでは、そういう恐ろしいことも行われたのだということで」

「なるほどね。確かに貴志名家の話に似てるわね。でも、その解釈だと……」

「鶴と亀をすべらせて亡き者にしたとき、もっとも利益を得る人物が、真犯人ということになりますね」

 エリナはそれを聞くと、大声で笑い出した。

「ちょっと待ってよ。私は、鶴と亀が死んで、何の利益も受けてないわよ。私は遺産相続を拒否したのよ。ワンコインだって受け取ってないわ。貴志名家の遺産は、目の不自由な人たちのための福祉団体に全額寄付されたの。それが千鶴子の2番目の願いだったから。私はそれでいいんだと思ったわ。そもそも私はずっとカナダにいた。どうやってそれだけの人を次々に殺せるのよ。どうやら胎児説も違うようね」

 それを聞くと、ツバサも椅子の背もたれに身を投げた。

「けど、この『かごめかごめ』の真実というのは、『かごめかごめの唄』の歌詞の内容じゃなくて、『かごめかごめ』という遊びそのものの真実性についてのことを言っているとしたらどうでしょう」

「どういうこと?」

 エリナの顔から笑いが消えた。

「『かごめかごめ』というのは、子供たちの遊びの中で唄われる唄なんです。日本ではこの遊びをしたことのない子供はいないほどポピュラーなもので、私もよくやりました」

 ツバサは『かごめかごめ』の遊び方を説明し、最後にこう言った。

「うしろの正面が誰か当てられない限り、その子は『籠の中』から出られないのです」

 エリナはしばらく、目の前の日本人女性をじっと見ていた。西洋らしくない生ぬるい夜風が吹いてきて二人の髪を宙に舞い上がらせた。

 やがて、エリナが、皮肉っぽい笑みを浮かべながら訊いた。

「で? その超能力ごっこじみた遊びが何だと?」

 エリナはジョッキを口に持っていった。

「カラよ」

 ツバサに言われて、エリナは、はっとしたようにジョッキを見た。そして、怒ったような表情で近くを通りかかったボーイを捕まえると、追加を頼んだ。

「そもそも、その遊び、どうやって、うしろが誰だか当てるのよ?」

 新しいビールを運んできたボーイに「ダンケ」と言ってから、エリナが続きを促すとツバサは答えた。

「実は、大して難しいことでもないんですよ。どうすればいいかというとね。両手で目を覆っているふりをして、誰がどういう順番で輪になっているか、回っている子供たちの足元をじっと観察しておくんです」

 周囲にいた他の客たちが一斉に振り向いた。

 エリナの手から滑り落ちた新しいジョッキは、床の磁器タイルの上でビールをはじけさせて、粉々になっていた。

「これが、真犯人の言う『かごめかごめ』の真実というやつなんですよ」

 ボーイがそそくさと割れたジョッキを掃き集めているのに目もむけず、ツバサは続けた。

「『かごめかごめの唄』にはおそらく、もともと明確な意味なんてないんです。よしんばあったとしても、それ自体に大した意味はありません。意味があるのは唄ではなくて、『かごめかごめ』という遊戯にこそあるんです。この遊戯の中で真ん中に座らされた子は、わけの分からない理不尽な孤独の窮地に置かれている。でも、それは人生で誰にでも訪れることです。そのとき、人はそのような不可解な窮地から自分一人の力で脱出しなくてはならない。ルール違反をやってもね。『かごめかごめ』という遊びは、子供たちが、生きていくための苦いしたたかさを身につけるために行われるのです。その目的のために使われる唄は、せいぜい人生の不可解さと恐怖を示せば足りるわけです」

 ツバサは、一度、間をおくと苦笑した。

「みんな大人になったら、ルール違反していたことなんて都合よく忘れちゃうんですね。もちろん私も忘れてたわ。最近、久しぶりに子供たちの『かごめかごめ』の輪の中に入れてもらうときまでは」

 もう、エリナは相槌も皮肉も言おうとしなかった。体を横に向け、足を組み、じっと対岸の街の明かりをゆらゆらと映すマイン川の暗い流れを見やっている。

 ツバサが言葉を継いだ。

「以上が真犯人のいう『かごめかごめ』の真実なら、この事件の真相はこうなります。『家』というものから脱出するために、この状況を見えていないふりをしながら、実は見ていたという人間がいたと。つまり貴志名千鶴子さんは、幼いときに熱病にかかってから日本を脱出するまでの8年間、ずっと目が不自由なふりをしていたんです」

 ツバサは続けた。

「さっき、あなた自身が語ったように、千鶴子さんの悲しい少女時代は事実だった。千鶴子さんはいつか貴志名万亀男を殺したい、貴志名の家を脱したいと考えた。それを、ずっと目が不自由なふりを続けることによって果たしたのです。目が不自由なら人を突き飛ばして殺すなんてできないから嫌疑をかけられることもない。そして、千鶴子さんは、妹のエリナさんとメールのやりとりをしており、民主的な精神を持つ養父母や国のもとで、のびのびと青春を満喫しているエリナさんをも羨んでいた。

 万亀男さんを殺した千鶴子さんは、そののち、エリナさんをこっそり日本に呼んで、今度はエリナさんを展望台から突き落とした。そしてその瞬間から自分はエリナさんになりすまし、そのあと、すべてを何も知らない松尾奈美さんのせいに仕立てるために、これも殺した。

 エリナ・カシハラさんが養父母をなくされたのはまさにラッキーで、千鶴子さんはエリナ・カシハラさんになりすますことができた。いいえ、カシハラ夫妻が事故で他界されたがゆえに、千鶴子さんはエリナさんと入れ替わる計画を立てたのかもしれない。そしてエリナさんと入れ替わった千鶴子さんは最後の仕上げとして、エリナさんの知り合いの多いカナダを離れ、別の地、ドイツで暮らし始めた」

 かなりの間のあったのち、川面を見つめていた女性は、夢を見るように言った。

「証拠は?」そして星空をあおいだ。「私がチヅコ・キシナだという証拠」

「私がどうして、この事件のこと、これほど詳しいか、疑問に思われない?」

 翼は、突然、日本語でそう訊いた。

 ミッキーマウスの女は、夜空から向かいの日本人女性にゆっくり目を転じた。

 翼はさらに日本語で続けた。

「上条直人をご存知でしょう。あなたが、あの挑戦的な『かごめかごめ』の声明文や、松尾奈美さんの遺書を送りつけた刑事よ。彼の日記に事件のことが書いてあったのよ。兄は、ずっとこの事件に裏があると思っていたらしいわ。それであなたの声明文を信じて『かごめかごめの唄』を研究していたの。仕事とは別にね。兄さん。この事件をどうしても解決したかったみたい。でもそれは果たせないまま死んでしまった」

『死』という日本語のところで、それまでぽかんとしていたミッキーマウスの女は、顔に驚きをあらわして、相手の顔を見た。

「見えないふりはお上手でも、聞こえないふりはそうでもないようね」翼は無表情に相手を見つめたまま言った。

「あなたも刑事なの?」

 ミッキーマウスの女は、ゆっくりと視線をそらし、あきらめたようなため息をつくと、流暢な日本語でそう訊いた。

「いいえ、私はただの町の探偵屋。だからあなたを法的にどうしようというつもりもないわ。そんなことはどうでもいい」

「お兄さんは、上条さんはどうしてなくなったの?」

「殉職ってやつ。2年前に」

「そう」

 飛行機のジェット音が夜空に遠く響いた。

 貴志名千鶴子は言った。

「私、あなたのお兄さんが、上条さんが好きだったわ。でも、こっちは目が不自由のはずだからね。でも何かせめて関係を持ちたくて、あんな挑戦的な声明文も出したのかもしれない。もしかして、あなたのお兄さんにそれを見破ってほしかったのかも。あなたをなんとなく気に入って、そして、この事件のことを話す気になったのも、あなたに上条さんの面影を見たからかもしれない」

 2人の日本人女性は黙した。

 やがて、翼はいくらかのユーロ紙幣をテーブルに置くと、風に飛ばされないように、ジョッキをその上に乗せ、腕時計を見ると立ち上がり、英語で言った。

「日本は今頃、夜明けどきね。そろそろ空港に行くわ。グッバイ、ミス・エリナ・カシハラ」

「ひとつだけ信じて。上条さん」

 ミッキーマウスの女は座ったまま日本語で呼びかけた。翼は立ち止まった。

「私が貴志名の遺産を受け取らなかったのは、疑いの目をそらすためじゃなくて、本当にそんなもの欲しくなかったことだけは。私が欲しかったのはお金じゃなくて、自由だったことだけは」

「信じるわ」

 上条翼は相手に目を向けないまま、そう答えると、尻尾を立てた黒猫のようなしなやかな歩き方で、出口へと向かって行き、そして姿を消した。

 ミッキーマウスの女は椅子に座ったまま、ずっとその黒い瞳に、美しい西洋の街の夜景を映していた。


                     夜明けの晩に 終


上条翼シリーズの第3弾です。『とわの恋人』も短編でしたが、あっちは3分割でアップしました。今回は短編として一括でアップしております。

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