放課後
高校生の成瀬和仁は放課後になると、教室の席についたまましばし時を過ごすうち、ふわふわと浮かれながら立ち上がって机の間を縫って行き、掃除当番が今し方拭いたばかりの窓ガラスへそっと額を当てかけた折から、耳元に届くつつましくも断固とした声。
「あの……鍵をしめたいんだけど、成瀬くん、まだ帰らない?」
言われて成瀬はにわかにぽっとなりながら、振り向きざまにちらと日直の女子生徒を見遣ると早くも半ば目をそらしつつ、
「あぁ、ごめん。今帰るよ、悪い」
優しくもぶっきらぼうに答えるままにぱたぱたと席に戻って荷物をとり、後ろのドアから廊下へでるや否や左右を見ると、片手にさげたリュックを背負って階段の方へと真っすぐ向かう。
しばらくして廊下から階段へとつづく道を折れると、そのまま壁に背をもたせ、片足で立ちながらもう片方のスニーカーの裏を壁にくっつけて目をとじた。
しかしすぐに開いて横の窓をむくと、渡り廊下でつながる向かい側の教室は三階まで高々とのびる木々によって所々遮られてはいるものの、じっと目を凝らせば奥の方に灯る天井の照明の下をちょうど数学の女教師が通るのがみえた。
成瀬は再び廊下へでて二人の制服とすれ違い、そろそろ恋人との待ち合わせ場所へ行こうとくるりと踵を返し階段をおりて二階につくと、ふとした気まぐれで一階へはおりず二年の教室を横目にすたすた通りすぎて行く。
すでに無人の教室ばかりでほとんどの生徒はのこっていない。と安心するそばから、教室の窓ガラス越しに三人の女生徒が居残っておしゃべりするさまが目に入り、思わず惹きつけられて見つめる間もなく、そのうちの一人がこちらに気づいてさっと向かいの子へ目配せするかと思うと、その子がぱっと振り返ってこちらを向いた。
ぴったり出会った瞳に見覚えはないけれど、その目が一途にこちらを射るのにくらくらして知らず知らず足をゆるめるうち、彼女はすっと目をそらす。と思うと静かにこちらをみあげたその顔はしっとり火照っているよう。
何やらいい心持ちになりながら、自分から近寄るのはいけないし、かえってこのまま真相を知らずにいたほうが都合のよい気がして、次の階段に出会ったところで一階へおり、自動販売機を後ろに両手をポケットに突っ込んで校門へむかおうとしたところへ、コツコツと鳴るローファーの音が聞こえだしておぼえず足を緩めながらそのまま歩みつつ方向を変えてちらとその方を窺うと、階段を下りて来る珠未の姿がうつった。
肩にふれるか触れないかのさらさらとした髪の毛に可憐で小さな顔。
本当は校門をでて道路をわたり、よく猫が通って行くのをみかける細道を突っ切った先にある建物のかたわらで待ち合わせる予定だけれど、ここで会ってしまったのなら構わないかと、にわかに浮き立ちながらそちらへ一二歩踏み出した折から、
「珠未」と呼びかける親しそうな女子の声。
それへ振り仰いで会話をはじめた珠未を見守るうち、和仁はふいと気まずさを覚えて静かに歩き出すままに早くも気持ちを切り替え、待ち合わせの道筋を反芻しながら校門が見えたところで、とことこと迫る足音がきこえて、振り返るより先に、
「和仁くん、待って」
よく知る声につづいて腕に肩のやわらかくあたる感触がして、たちまち身内に幸福が走るのをおぼえながら隣を向こうとすると、それには構わない珠未は和仁の視線を颯爽と逃れ去るようにすうっと前へ進み出る。と思うとくるりとこちらへ向き直って、両手にもった学生鞄に半ば脚をかくしながら後ろむきに歩みつつ、
「わたし知ってるんだよ」と言いざますっと前を向く。
途端にスカートからのびるむき出しの肉づきよく細い裏腿に目を奪われて、たちまち激しくもしっとりした血が満ちるのをおぼえながら、絆創膏が一枚、ぺたりと貼ってあるのを認めて、何やら尋ねたくなるままに隣へならぶと、問いかける間もなく珠未が口を開く。
「さっきの和仁くんでしょ」そう言ってじっと見上げた。
「さっきって、階段のこと」落ち着いた調子で確かめると、
珠美はちょっぴり不満げにこくりとうなずく。その顔を見ると共に、和仁はふっと微笑ましさを覚えて、
「だって珠未、友達と喋ってるみたいだったからさ」
「そうだけど。声、かけてほしかったなって」
「じゃあ今度はそうしてみる」
言われて珠未は早くも機嫌を直したのか、
「ねえ、今日ってわたしの行きたいとこ付き合ってくれるんでしょ」
「うん。でも今日っていうか、わりとそうじゃん」覚えず苦笑しつつ答えると、
「そうかも」と珠未は幸せそうに微笑みながら肩をもたせて来るのを、和仁はやさしく受け止めながら、その先の小さくてほっそりした手にそっと触れた。
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