第3話 灰かぶりと愚者の集い③
須坂 直 (帝城大学考古学研究所助教授)
『愚者の記録』の解読委員の一人としてサウスココス基地施設に軟禁される
オザワ・カナト (国際企業五峰通商社員)
シープバーグ島資源採掘事業担当社員 須坂を島に迎え入れる
<サウスココス地下研究所第三解読分室>
(意味が必ずあるはずだ)
ロゼッタストーンが解読されたとき『クレオパトラ』という古代エジプト帝国女王の名の表音文字の発見からその突破口が開かれた。ただ、ロゼッタストーンは三種類の言語で当時の出来事を記録したいわば翻訳版の役目であると思われる物である。
だが、この絵画のような美しい古代文字で装飾された石棺の蓋にそのような意味が与えられていないことは、既に事前の分析で明らかであった。
(実はただの華美な装飾にすぎない)
(文字の癖は、彫った者が異なっていたからであろう)
何度か須坂の疲れた脳裏に通り過ぎた思いである。だが、正気に戻った彼はすぐに否定した。彼がこの任に否応もなく命じられてから既に何百時間経ったであろうか。
百枚、二百枚と石棺に彫られた文字群の画像が何度も須坂のモニター上を行き来している。彼は他地域の古代文字との共通点を見付けようとしているのだが、まだ、その結果には至っていない。
(これは古代神の名か?まさか、エジプトやシュメールの神々が記されているなんて、時代的にも馬鹿げている、刻み込まれた文字は似たような形状をしていても、この字を彫った古人はほんの少しの差に何か意味付けをしている……その意味が知りたい)
けたたましいサイレンが研究分室内に響き渡った。
須坂は文字を映す机上のモニターから一度だけ目を離したが、すぐに視線を戻した。
「特別緊急避難が発令されました、所員は速やかにルートに従って避難を開始してください」
(そんなルートは聞いていないな)
須坂は念のため、開いているデータを保存し、椅子に掛けてあった上着を着用した。データの保存が終了した頃、同じ解析チームのリーダーを担っていた男が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「スザカ!何をしているんだ!急げ!」
「そう言われても何があったのか分からなければ、避難のしようがない」
「地下七階から下のエリアは立ち入りが禁止されたようだ、何か悪い伝染病が発生したらしい」
日頃、物静かなこのインド人も怯えているかのように須坂には見えた。
「軍事部門の兵も現場に投入されたとラボの仲間が言っていた、これは間違いなく非常事態だ」
「まさか、こんな研究所内で戦争でも始まるのかい?」
「ワタシはここの責任者として君には知っているすべてを伝えた、もう先に行く」
「どこへ?」
「地上に行けとのことだ!」
廊下への扉が開いたとき、今まで聞こえてこなかった逃げる所員の足音や避難を促す声が須坂のいる部屋中に満ちた。
「あと五分でこのエリアは自動封鎖されます、エリアに残る者は至急、避難してください、避難が遅れた者の生命は保証されません」
須坂は緊急放送の言葉に目を丸くした。どうやら事態は自分が思っていたよりも大きい事故のようであった。
「エチレンオキサイドガスでも注入するのか?それはまずいな」
滅菌であった場合、この研究室内の莫大な資料を守るための設備としては二酸化炭素で薄めた消毒ガスを使用する方が理にかなっていた。
須坂は誘導されるがまま、逃げる人の波に合わせて階段を駆け上ろうとした矢先、階段の上部から悲鳴や怒号が聞こえてきた。
「開けろ!まだ俺たちがいるんだぞ!」
「助けて!」
(閉じ込められたか、しかし、まだ避難する時間は十分にあったはずだ、何が起こったか分からないうちに翻弄されるのは面白くない)
この島に軟禁されてから自分が同じ業務に就かなければならないと分かった時点で、彼には何かを楽しもうという気力は心の中から消えていた。ただ、知の欲求だけが自分の行動を支配していたのである。須坂は無表情のまま、押し寄せる人の波に逆らいながら自分の研究室に戻り始めていた。
「知らない間にここに閉じ込められ、知らない間に命を奪われる、まるで実験動物だな」
警告灯の赤い光が自分の歩く影を金属質の壁に映し出す。
研究分室のエリアにはもう人の姿はなかった。
「無駄な時間だな」
須坂はそうつぶやき、自分の研究分室に入ろうとした時、同じ階の中央分析室に文字が刻まれた蓋が保管されていることを思い出した。
(どうせ死ぬのなら、オリジナルを見てから死んでも有罪にはならないだろう)
中央分析室は、同じフロアとはいえ百メートルは離れている。長い廊下にむなしく警告音だけが鳴り響く。
(入れるかな?)
須坂は中央分析室の前に立つと、扉は自動的に開いた。セキュリティロックは非常事態で解除されているようであった。
(避難路のロックはしっかり掛けたくせに)
中央の台にその巨大な石蓋が置かれていることは前に見て知っている。赤い光の空中に浮かび上がるように透明な台が設置されているのが見えた。
「!」
須坂はその台の傍らに立つ人影に気付いた。
「須坂か、避難できなかったんだね」
聞こえ覚えのある若い男の声が聞こえてきた。
「この場に来て敬称省略か、まぁいい、自分はそういうことは気にならない、それよりもどうして君がここにいるのかの方に興味がある程度だ、同じ思考性を持っているとは思えないのでね」
「純粋な研究者の発する言葉そのものだ」
赤い光に照らし出されたのはオザワの顔であった。
「君の鑑賞の邪魔はするつもりはない、私にも近くで見せてもらえないか、時間が押し迫っているようなのでね」
須坂の言葉に、オザワは意味深げに微笑んだ。
「どうぞ時間の許す限り」
石板を再び間近で見た須坂は圧倒的な存在感に息をのんだ。実際に近くで見れば見るほど、明らかにここに刻まれた彫刻はただの装飾ではないことを須坂は確信した。刻み込まれた彫刻はそのことを無言で語っている。
「やはり文字だ、文字に間違いない……」
「『アヌナキの種は地より芽吹き支配の時を重ね、サフによりその命断たるる』そう書かれているんだよ、まだ読むのが難しかったんだね、ここに人類の歴史とこれからの行く末が形として予言されている」
オザワの発した言葉に須坂は驚愕した。
「どうしてそのことを……」
「まもなく須坂は死んでしまうというのに、そのようなことを知ってどうするの?」
「知りたい、ああ、知りたいとも、私が考えて考えて、考え抜いてもたどり着けないことをどうしてこうも……たどり着けなかった世界を、たどり着けない方が死ぬより怖い」
このような一介の若者がよどみなく声にした意味は、専門家という自分の存在が頭から否定されているように須坂は感じた。
「この程度のことに時間を使っていた愚かな者どもの集団にまだ未来があるとでも?中途半端な技術や思い上がった行動がまた悲劇を繰り返すのに、もういい加減気付いた方がいい、今、こうなっているのもそうさ、須坂の国の言葉では『自業自得』と表現するのだろ?」
「な、何を言っている、き、君こそそれを知っていて、近くにいてなぜ止めなかったのだ」
「これでも少しは期待していたのだ、ここに埋められていた多くの遺産、記録、この意味を知ってどうするつもりだったのか……しかし、その結果が崇高な神の名を利用した自国の支配、他国の従属、その行動に対する外れのない保証が欲しかっただけだということが十分に知ることができた」
「違う……」
「違う?ここに閉じ込められた人なら皆、否定はできないはずだよ、多くの才能がかり出され、墓泥棒のようなことをさせ、使える技術だけを『愚者』だけが独占しようとする、今、起きていることも偶然ではない、邪魔な関係者を処分し、愚者にとって都合のよい奴隷だけを選別している最中だ、須坂は残念ながら不要となったようだけど、でも、いいじゃないか、さっきまで生きるのをあきらめていたような顔をしていたし」
オザワの冷たい視線が、須坂の心に爪を立てるように食い込んだ。
「ワタシハタダシリタイダケナノダ!」
そう悔しそうに叫んだ後、オザワの後ろに人が何人も立っていることに須坂はようやく気付いた。
白衣を着ている者、スーツや軍服を着ている者、様々な姿であったが、皆、オザワの顔で微笑んでいる。
点滅を繰り返す赤い警告灯が彼らの顔の陰影を一層深くしていた。
「知リタイノナラ、ドウスレバイイカ、須坂ナラワカルハズ……」
一斉に発せられたオザワの呼び掛けは、その意味にも増した不気味な重みを伴っていた。
「灰かぶりと愚者の集い」編 終わり
次回更新より新編