リッター卿の悲恋
俺は彼女だけ救えれば良かった。
他の何もかもどうなったって良かった。
俺自身でさえ、彼女の存在の前には小事だった。
――――それがいけなかったのだろう。
彼女は、自らの為に傷を負い、その言い訳に愛を口にする俺が重荷になった。
疎ましくなってしまった。
そして、彼女は自殺した。
木枯らしがカーテンの裾をさらう秋の日。
ガラス窓を閉じた彼女は、俺のシャツの下から覗く包帯を睨んでいた。
「名をあげるこれ以上ない機会だった」
「名誉の死をもってですか?」
「まさか。俺が君を残して死ぬわけがないだろう」
「偽物の忠誠心に命を懸ける価値はありません」
鼻で笑う彼女を諭すように俺は語った。
「手違いでも、偶然でも、運命は収束する。たとえシェリス王女専属の騎士に任命されようとも、俺は君に一目惚れをするだろう」
本来、俺は王位継承権第一位のシェリス王女専属の近衛騎士だった。
だが、手違いによって、俺の肩に剣を載せたのはシェリス王女ではなく彼女であった。
テレーネ・フランベルジュ。王位継承権は直系血族の中でも最下位の王女。もしくは『名もなき王女』と呼ばれる存在。
――俺の、唯一の忠誠の主。
「貴方の言い分。忠誠心というより愛の言葉を主張しているように聞こえますね」
テレーネ王女の声は、怒りや軽蔑を露わにした抑揚で、その実、それ以外の感情も含まれているような音階で言葉を紡ぐ。
そんな彼女の顔は、俺には推し量ることのできない複雑な表情をしていた。
「勿論、俺はテレーネ王女殿下を愛しております」
陽気で、軽口のように言わないと、俺は彼女に愛を伝えられない。なんとも情けない男だ。
それか、無謀に無謀を重ね、馬車馬のように働く以外、彼女に愛を証明する方法はなかった。
だが、俺は愛を伝える為だけに駆け回るのではない。
そうでもしなければ、テレーネ王女は命すら危うい状況だったから。
この謀殺蔓延る宮中で、唯一の臣下が俺でなければ、五ヶ月も前に彼女は修道院の墓石の下におさめられていただろう。
「リッター卿、その言葉を信じても良いのですね?」
不意にテレーネ王女はそう言った。
コツン、コツンと、秋風で外の枝葉がガラス窓に当たり、音が部屋に響く……。
「ま、まさか……決心していただけたのですか!?」
「まさか……なんて、貴方は私が承諾しないだろうと、たかを括っていましたね」
「滅相もない。本気で申しておりました。ですが、実際に訊くと夢か、一種の幻聴のようでして……王女の身分を放棄していただくのは……」
「享受する恩恵もないこの身分で命を失うより、手放した方が良いと考えたまでです」
「俺と結婚することになりますが」
テレーネ王女は小首を傾げて、口角を下げた。
「別の花婿を用意されても構いません」
「そ、そんなつもりはありません! どうか俺と結婚してください! テレーネ王女!」
不安からの確認が、藪から蛇を出す結果になってしまった。
焦った俺はベッド側の小物置きに手を伸ばすが、傷の痛みに耐えきれず体勢を崩してしまう。
「っ……いたた……」
「急にどうしたのですか? リッター卿」
「それは、テレーネ王女殿下にお渡ししたいものがありまして……」
彼女に助け起こされた後、俺は小物置きの引き出しから取り出したものを差し出した。
「テレーネ王女殿下、貴女のことが好きです。貴女と添い遂げることをお許しいただけるのなら、俺の指輪を受け取ってください」
「……まったく、怪我人がどうやって私の指に指輪をはめるのでしょう?」
テレーネ王女の口元は微笑みの形に結ばれていた。
そして、彼女は俺の額にキスをした。
「おまじないですよ。指輪は傷が治ってからにしましょう。楽しみにしております」
その微笑みが俺と同じ想いを持つことを示すのか。
真意を訊ねる前に、彼女は部屋を去っていった。
ただし、去り際。
扉の向こうの彼女は少し振り返って、
『ま、た、あ、し、た』
と、無音で言い、隙間から手を振った。俺もすぐに手を振り返す。
扉が閉まり切った後も、突き出したままの自分の手があった。
俺は額に手をあててみた。
駄目だ。熱がある。
良くも悪くも、テレーネ王女のお見舞いで、俺の体調は悪化した。
翌日から、高熱で意識朦朧の状態に陥り、テレーネ王女が約束の見舞いに来られたかすら知覚できなかった。
ついには、走馬灯のように過去を思い出し始めた。
幼少期の記憶、騎士になりたての頃の記憶、そしてテレーネ王女に仕えてからの記憶。
迫る死に抗うように、俺はこれからのことを想像した。
早く身体を治して、起きたら、妻となる女性の為に生きる。幸も不幸も分かち合い、支え合い、甘やかしたり甘えたりする。
現実の延長線上で、確かに、存在する夢だった。
そんな夢に微睡む中。ふわりとテレーネ王女の香りがした。
肩が触れ合うほど近づいて、ようやく微かに嗅ぎ取れる。あの控え目なラベンダーの香りがした。
俺の前髪がひんやりと冷たい細い指で分けられた。汗ばむ額に心地よい冷気を感じる。
「テレーネ……王女……?」
薄ぼんやりとした視界は、ほとんどが暗闇で、物の形も曖昧だった。
そこには誰かが、灯りも点けずに立っていた。
『ごめんなさい。貴方の手から指輪は貰えそうにありません』
額の汗がぬぐわれる。
それは、冷たい――まるで生者ではないような――手が、そっと離れた。
頬に、冷たい雫が落ちてきた。
きっと泣いている。
俺は、その誰かの涙を拭ってあげたかった。腕は上がらなかった。
『レディの涙はハンカチで拭うものですよ。リッター卿?』
いつの日か耳にしたテレーネ王女の声。一字一句同じ言葉。
けれど、その声音や抑揚、込められた感情は……。
二度と逢えないものだった。
翌週。
ようやく顎を動かして、難なく意思疎通が取れるまでに回復した。
俺は、テレーネ王女が一向に現れないことを疑問に思いつつ、療養食をかきこみ、疲弊した身体へ栄養を補給する。
数日経過すると、自力で立てるようになった。
俺の回復の頃合いを見計らったように、或る一報がもたらされた。
それはテレーネ王女逝去の知らせだった。
「何故……テレーネ王女殿下は何故、亡くなられたのだ!」
王宮の官吏に詰め寄り、俺は叫んだ。
「原因不明の熱病です」
「そんなことがありえてたまるか!」
信じられない。嘘に違いない。
「殿下は流行り風邪すら罹らない健康な方だ。持病もない。それがどうして……っ!」
「既に終わってしまったことは仕方がありません。伝染病の懸念から王女殿下の遺体は火葬済み、現在はラコッチ修道院王室墓地に埋葬されております。以上です」
俺は官吏を殴った。
押し留める両脇の従者をはねのけての一発だった。
それから謹慎を命じられて、俺は生家に戻った。
もう、テレーネ王女のいない王都には何の魅力もなかった。思い出だけが確かに色付き、光に溢れ、風が吹き、時間が流れていた。
過去に忘れ去られた弱き王女。
その腹心たる臣下も同じ運命に従うのみだろう。
しかし、自ら死を選ぶことはせず、俺は過去に心を置いたまま生きていた。
まだ、テレーネ王女の手に指輪をはめる約束が果たせていなかった……。
生家には広大な草原があった。ひとりになりたい時は、此処で馬の早駆けをする。王都へ行く前の習慣だった。
――もしも、が存在するならば。
彼女とふたりきりになりたい時は、此処を目指したのだろうか?
ぽつりと頬を濡らす雨雫。
灰色の雲が世界を覆い、十も数えぬ内に大粒の雨が降り始めた。
俺は、通り雨をやり過ごす為、楡の木の下で、馬と共に雨宿りをすることにした。
遠くから誰かが走ってくる。
外套を雨除けにした一人の男が、俺と同じように楡の木で雨宿りをしようとしていた。
木の下に着いた彼は、さっそく外套をバサバサと振り、時々絞り、水気を払おうとしていた。
「うるさい。それに馬が怯えるだろう」
俺が文句を言ってやると、男は人がいたのかと、今更気が付いたかのような表情だ。
「大雨の煩さと比べれば、マシだ」
「マシか? 大雨の方が規則的で静かだ」
「どこが? ずぅっと煩いじゃないか」
「……お前とは気が合わないよ」
嘆息して、俺は話を打ち切った。
男は「かもな……」と言った後に鼻で笑った。
「しかし、目標は一緒かもしれないぞ? リッター卿」
その言葉を聞いて、睨む。
雨雫に濡れた男の顔は不敵な笑みを浮かべていた。
「俺とお前の目標が一緒? 馬鹿にするのも大概にしろ」
「ああ、目標なんて失っちまったのか。そうなのだろ? 第七王女テレーネ・フランベルジュの近衛騎士くん」
男は雨音をかき消すように、声を張り上げ、俺を挑発した。
「誰だ、お前は。王都の奴らか」
剣はある。
相手は……目に見える場所には帯剣をしていない。
もし男が銃を持っていても、雨中の、この湿気じゃ使い物にならないだろう。
剣の柄を握り、男の出方を窺う。
「いやいやいや、王都の者ではないよ、私は! 近衛騎士につっかかれる程の武闘派に見えるかね!?」
及び腰で男は後ずさった。
先程まで見せていた余裕も形なしの臆病な態度だ。
その様子に拍子抜けした俺は、剣の柄から手を離した。
「挑発した理由は何だ。王女殿下の臣下と知っていて、何故、声をかけた」
「目標が同じだからだ。私は玉座を目指している」
「……お前も王位継承権を持つか。だが、俺はテレーネ王女殿下に戴冠の野望など抱いていなかった。それに、放棄するはずだったんだ」
婚姻による王籍からの離脱と、王位継承権の放棄。
暗殺の危険から彼女を守るための策は、結局、意味がなかった。
「しかし、第七王女は本当にそう思っていたのかな」
「テレーネ王女殿下には野望があったと?」
「結果的に。抱かざるを得なかったと思う。私のように」
男はそう言い、袖を捲った。
男の右前腕には、羽根ペンと同じ幅、同じ長さの、傷の縫い跡という惨たらしい過去があった。
「私は遠い昔にフランベルジュ王族が降嫁した家の次男坊だ。長い歴史もあるから公爵家と呼ぶのだろうが、現王家とは血筋が異なるから王位継承権はない。でも、このザマだ」
俺は出された腕をなんともなしに見ていたが、男の、右腕の肘から先は鈍い動きしかしていなかった。男の右前腕は麻痺していた。
「このまま命を狙われ続けるのならば、私は王位を簒奪することで、危機を回避するつもりだ。死んだ王女殿下は、その思惑を察知されたが為に、自殺した」
「…………」
男の仮説は眉唾ものだった。
テレーネ王女が王位を狙っていたというのも驚きだが、自殺など到底信じられるはずがない。
「テレーネ王女殿下の熱病が、暗殺の偽装工作だっていう仮説なら、まだ理解できる。王位を諦めていなかった、というお前の主張とも辻褄は会うだろう」
俺は息を吸って、深く吐いた。
「なのに、自殺しただって? 彼女は俺と結婚するはずだったのに……」
「王籍を離脱するつもりだったか」
「ああ」
「第七王女が君を近衛騎士に任命したことで、王位継承に名乗りをあげたと私は思っていたよ。その後の君の働きぶりからもね」
「俺は……彼女が死なないように全力を尽くしてきただけだった」
「ふむ」
男は考え込むように顎に左手をあてる。そして、あてた手の指で自身の頬をトントンと押した。
「わかった。彼女が自殺した本当の理由が」
「はぁ……分かったって、そもそもだが、テレーネ王女殿下は原因不明の熱病で亡くなられたんだ。自殺という証拠は?」
「彼女の死や自殺が信じられないとのたまいつつ、王宮の言い分を君は信じたのか? 君こそ、何処から熱病と聞かされたのだ。王宮の公式発表では、服毒自殺を図ったとあったぞ」
「服毒自殺? 俺は、王女殿下は熱病で逝去したと王宮の官吏から……」
俺は殴り飛ばした官吏からも、家の者からも、『王女殿下が服毒自殺した』なんて言葉、一文字たりとも聞いていない。男の話と矛盾している。
「不可解なことだな。その問題はなぁ……結婚相手が自殺したとなれば、君も後を追いかねないと一芝居打ったのだろう」
「そうか……では、何故、テレーネ王女殿下は自殺した? お前はどうして理由が分かった?」
「王籍に所属せずとも、王位継承権を保持せずとも、命が狙われるからだろう。例えば、私のように。――最悪の場合、君も巻き添えをくらって暗殺された」
男は頷いた。
「第七王女――『名もなき王女』と結婚する。大した度胸だ。そんな君の愛が、彼女にとっては自分の命より重かった。テレーネ・フランベルジュは君を守る為に、一度は野望を抱き、最後は人生を手放すことを決意したのだよ」
テレーネ王女の死は、俺の愛ゆえの死だった。
愛の為に、死の奈落へと続くレール。目指した光へ決して届かない、欠けたレールの上を、俺はテレーネ王女を乗せて走っていた。
雨中の湿気た空気が、じっとりと肌に張り付いて気持ち悪い。
このまま、後味の悪い寒さに震えて死にたかった。
――唐突に、男が叫んだ。
長く続く雨音をかき消すように。
「第七王女の仇を取れ、リッター卿! 君の愛情が彼女を殺したのではない、王位を争う者達が彼女を追い込んだのだと証明しろ! 君の目標の為に、私を利用するのだ」
雨音が一瞬途絶え、レールの合流する音が聞こえるようだった。
この男の目標と俺の目標は同じだ。
「私の目標は、暗殺された兄の仇を取ることだ。私も自らの目標の為に、君を利用させてもらう」
男の榛色の瞳は決意に満ちていた。
しかし、それは復讐の決意ではない。
彼は故人の仇を取った先を見据えていた。前向きな意志を持っていた。
だから、目標なのだろう。
たとえ復讐を完遂したとしても、人生はまだ続く。何事も先がある。それは現在にも、当然、過去にも先がある。
俺は……テレーネ王女殿下が辿ったレールを、二度と誰も進むことがないように、フランベルジュ王国を変えなければいけない。
「この国の未来の王の名は?」
「私、ヒューバー・メイロードだ」
雨は依然、降り止まない。
だが、人はその足で雨の向こうへと行くことができる。
「俺の家に招待しよう、ヒューバー。馬には乗れるか?」
「助けがなければ」
「良いだろう。乗せていってやる」
俺はヒューバーと共に馬に跨り、駆けだした。
雨雫を突き抜け、先へ。
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秋日、浮浪者の少女は立ち止まった。
「体制派のシェリス第一王女、融和派のメイロード公爵! 一体どちらが王権を握るだろうか。有識者諸君の意見を聴かせてほしい!」
偶然面接に来たカフェで耳にした、知識階級の議論は彼女にとって興味深かった。彼らの議題に上がる国の政情や財政策、景気の話題は、今晩ありつける飯にゆっくりと影響を及ぼしていることに気付いてからは更に。安い食料探しに、一時的高値の日用品避けの指針は、独り身の彼女が生きる上ではありがたいものだ。
「第一王女は貴族の後ろ盾がある。加え、前王の意志を引き継ぎ、盤石と言ってよいだろう。しかし、貴族贔屓の女王陛下では重税が懸念される」
カフェの人々は提議者の説明に相槌を打つ。
「次にメイロード公爵は、名だたる貴族の中ではリッター家の支持のみ。とはいえ、周辺国の後押しもあり、第一王女の対抗馬として力負けはしていない。重税の恐れもなし。だが、見返りに周辺国から安い作物、商品が国内に流れ込み、フランベルジュ国経済に打撃をもたらすことは必至。――さて、シェリス第一王女とメイロード公爵のどちらが我々の上に立つ王に相応しいだろうか!」
第一王女とメイロード公爵のどちらにも、肯定する声、非難する声が上がる。
国政を憂慮する知識階級の議論は紛糾していた。
他方、彼女が知っている、カフェの外で勤労に励む労働階級の意見は違った。国の多数を占める一般市民は、重税もなく、物価も安くなると思われるメイロード公爵を支持していた。
権力の大きさであれば、第一王女。
臣民の数であれば、民心を集めているのはメイロード公爵だった。
「しかしながら、メイロード公爵はよくリッター家を味方につけたものだな。リッター卿を側仕えのようにして王宮を練り歩いているのを見るまで、私は新聞の記事を嘘だと思ったよ」
「なに、リッター卿には野望があるのだよ。以前の彼は、第七王女の近衛騎士であったからね」
「第七王女といえば、最近自殺した、あの? まあ自殺したのは可哀想なことだが、……あー、えぇーと、第七王女の名前は何であったか」
全員がそれぞれの顔を見るも、それが役に立たない知識であるが故か、誰も憶えていなかった。
すると、カフェの新聞を読み散らかしていた一人が声高に言った。
「あった、あった、それの名は、テレーネ・フランベルジュだ。『名もなき王女』の名前はテレーネ第七王女」
知識階級の者々は脳の空白を知識で埋められたことに安堵するばかりであったが、唯一、聞き耳を立てていた浮浪者の少女は雷に打たれたような衝撃を受けた。
もとに戻された新聞の記事を彼女は目で追う。
歳とその身分に似合わず、新聞の字が読めた彼女は思った。
(どうして……どうして、指輪に彫られた名前と同じなのだろう……)
悲喜交々、複雑な感情が彼女の心を揺さぶる。
浮浪者の少女は去年の今頃、行き倒れていた所を此処の街民に助けられていた。さらには、運良く紹介を受けて、今日、知識階級の集まるカフェの面接に来ていたのだ。
彼女は思わず、首紐に吊り下げていた指輪を握った。
記憶を失くし、下着の裏に縫い付けられていた指輪の名前からとってテレーネと名乗る少女は偶然の一致をずっと見つめていた。




