誰彼時
「はやくこないかなー」
日も落ち帰り道を急ぐ人達を見ながら、幼い少女はバルコニーの小さな鉢に植えられた紫陽花に、小さなコップを使って水をあげていた。
やがて、いつもの時間になると緑色のバスがバス停に止まる。
降りてくる人達の中にお目当ての人を見つけ、少女はバルコニーから身をのりだし、笑顔で大きく手を振る。
男も顔を上げ少し高い階にいる少女に向かって小さく手を振り返しながら周りの様子を軽く伺いながら、足早に道路を渡りこちらに向かってくる。
少女は手に持ったコップを流しに片づけ、玄関に急いだ。
【カチャッ】
しばらくすると玄関の鍵が開く。
「ただいま」
男が中に入ると少女は男の足にしがみついた。
「おかいり~!」
「良い子でお留守番できたかな?」
男は少女の頭を空いた手で撫でながら笑顔で話しかける。
「うん!きょーもおはなにおみじゅをあげてまってたの!」
男の顔を見て答えると恥ずかしいのか、すぐに顔を男のズボンに擦り付ける。
「さぁ、中に入ろうか」
少女の、肩を優しくたたく。
「あい」
少女は1DKの小さな部屋の奥にある小さなバルコニーの方に、空いた男の手を引っ張って連れていく。
反対の手にはビジネスバッグとお弁当屋さんの袋が握られていた。
「みてみてー、おはなちゃいたの!」
古びたバルコニーに手をおいて嬉しそうに報告する。
男も紫陽花を覗き込むと、緑の葉の隙間にまだ花を見ることができないほどしっかりと包まれたピンクの蕾ができていた。
「ほんとだ蕾ができてるね、理沙がちゃんと毎日お世話してるからだよ」
そういうと持っていた袋とカバンを置き、やっと自由になった手で少女の頭を優しく撫でると小さな頭は左右に揺れて、大きな瞳が糸のように細長くなる。
「さあ理沙、温かいうちにご飯たべようか。今日は理沙の好きなハンバーグだよ」
「アンバーグゥっ!やったー!」
跳び跳ねて喜ぶ姿を見て、男もまた表情が緩む。
お弁当の入った袋を理沙に渡すと、男はキッチン前の小さなテーブルの椅子を引き、自分の体よりやや大きい袋を大事そうに持ってついてくる理沙を袋ごと持ち上げた。
高く上げられたことで声を上げ喜ぶ彼女を、彼女専用の座席が高く作られた椅子に座らせる。
そして流しに伏せて置かれた2個のグラスと1本の子供用フォーク、理沙用のエプロンを取るとテーブルに戻り、はしゃぐ理沙の首にエプロンをかけ、まだ温かいお弁当を男は理沙の前に置いた。
男は理沙の横の椅子に座ると理沙の方に向き直り、手を合わせるよう理沙に促すと
「じゃー食べようね、いただきます」
「いたーきまぁす!」
両手を頭の上で少しずらしぎみに合わせると、元気いっぱいに声を出す。
そして差し出されたフォークを受け取ると、ぎこちない手つきで大好物のハンバーグに戦いを挑む。
何度か小さく切る作戦をたて、フォークをハンバーグの端に差し込んだのだが、ことごとく逃げられてしまい、結局獲物の真ん中にスプーンを刺して、口まで引きずってくる作戦になった。
自分では大きく開けているはずの口だったが、口に入るより汚れる方が多くなり、男は見かねて。
「理沙、ちっちゃくしてあげようか」
そういうと理沙のフォークを受け取り、食べやすい大きさに切り分けた。
「ありがとー!」
返してもらったフォークを器用な握り方で持つと、止まることなく小さく切り分けられたハンバーグを口にいくつか運び入れ、溢れるほど頬張りながらモグモグと口を動かし続ける。
「ゆっくり食べるんだよ」
言いながら、彼女のほっぺについたソースをテーブル上のウェットタオルでそっと拭く。
「りょーパパは、きょーもたべないの?」
「うん、あまりお腹空いてないんだ」
「ふーん、いつもおなかついてないんだね、ママといっちょ」
「はい、あーんちて」
小さなフォークにハンバーグを乗せると、目一杯手を伸ばしてりょーぱぱに差し出す。
男も笑みを浮かべて出されたスプーンに顔を寄せ、ぱくっと食べる。
「美味しいねー、ありがとう」
「きゃはっ!」
理沙はフォークを持ったままの手で顔を隠し、体を少し捻って喜びを現した。
何度かそれを繰り返して、楽しいご飯が終了すると、りょーパパは理沙を横目に見ながら手早く洗い物を始める。
やがて洗い物を終えると、途中何度か頭を前後させ眠りに落ちかける理沙のところまでいき、椅子から優しく降ろし、奥の部屋のソファーまで手を引いて連れていき座らせると、よし!とテーブルに戻り念入りにふき上げた。
ソファーに戻ると、理沙は何度も来る睡魔に負けそうになるのをなんとか必死にこらえているところだった。
「寝ていいよ。そばにいるから」と横に腰をかけると理沙は大きく頭を振り。
「あたちねないもん!ねたらいなくなるもん!」
そういいながら男の腕にしがみつく。
少し困った顔をしながら空いている手で、理沙の頭を優しく撫でる。
「ごめんね、今日も仕事があってずっとは居てあげられないんだ。でも、眠るまではずっといるからね」
「いや!ずっとそばにいるの!りちゃねないもん、あちゃのおひさまをいっちょにみうの!」
そういうと眠たさで細くなった目を指で大きく開く。
「ぷっ、理沙。この間もそのポーズで寝てしまったけど大丈夫?」
少し笑いながら答えると、理沙は怒って、
「でったいねないもん、いっちょにみるの!」
「そうだね、じゃ頑張ろうね」
そういうと、ゆっくり理沙の体をソファーに寝かせる。
「そうだ理沙は、目を瞑って100まで数えることが出来る?100までは難しいかな?」
悪戯な笑顔で質問する。
「りちゃ、そんなのできるもん」
そういうとりょーパパの腕をかろうじて持っていた指を離し、両手で数を数え始めた。
だが15を越えたあたりから徐々に読み上げるスピードが遅くなり、ピンと伸ばして数えていた腕も胸の上に落ち、やがて声も聞こえなくなり最後は、 スースーと寝息にかわる。
男は最後の数字をよんだ口の形のまま寝ている理沙を少しの間見て微笑んだあと部屋を見回した。
小さな部屋には、小さなタンスと映らないテレビ、おもちゃが入った箱、小さな簡易テーブル等が部屋の隅にあるだけだった。
男は静かに立ち上がると、散らかったおもちゃを箱に片付け、ふとタンスの上の写真立てを手に取った。
お母さんと笑顔で写る理沙の楽しそうな顔がそこにあった。
重いため息をつくとそっと写真を戻し、その横に畳んで置いてあるタオルケットを取ると理沙のところに戻りそっとかけた。
理沙の手が少し動いたが、目が開くことはなかった。
男は台所に戻ると小さなコップに水を入れ、ベランダの蕾のついた紫陽花にそっと水をさしながら、今では完全に寝入った理沙を悲しげな顔で眺めていた。
「また明日、おやすみ」
男はそっと家を出た。
次の日の黄昏時、少女はいつものようにバルコニーの紫陽花に水をあげながら男の帰りを待っていた。
お目当ての人はいつもの時間のバスに乗っておらず、数台のパスを見送ったのち、ようやく男は降りてきた。
もう一ついつもと違うのは、お弁当の袋を持った手の小脇に別の袋を抱えていたことでした。
カチャッ。
「おかえりーっ」
理沙はドアが開くと同時に男の足に抱きつく。
「ただいま、いい子にしてたかい?」
「うん!りちゃ、ちずかにごほんよんで、うたまるにごはんあげてたのぉ、そえとおはなにかからないようにそーっとおみじゅあげた!」
「そっかー、がんばったねぇ、うさまる君は美味しいって言ってくれた?」
「うん!」
話し終えると男からお弁当の袋をいつものように預かると、キッチンまで脇を上げて袋が下に着かないように一生懸命持っていく。
男はテーブルの下に鞄を置くと、理沙からお弁当の袋を受け取りテーブルの上に置いた。
「りょーパパ、なにもってゆの?」
両手を前に握りながら興味を示す姿が愛くるしい。
「これはねー、いつもお利口さんでお留守番してる理沙にプレゼントだよ」
そういうと笑顔と共に理沙に袋ごと手渡す。
「えー!やったー!」
大きく叫ぶと袋を抱えたまま3度ほど跳び跳ね、床にぺたんと座ると自分の半分ほどある袋の上で結ばれたリボンを器用にほどいて中身を取り出す。
「くまさんだーー!!」
中からくまのぬいぐるみが現れた。
それを頭上に高く持ち上げた後、ぎゅっと抱き締め立ち上がり男のもとに走ってきた。
「ありがとー!りちゃ、あたらちいおともだちほちかったのー」
ぬいぐるみを抱いたまま男に抱きついた。
「いつもいい子でお留守番してるからご褒美だよ」
「うたまるにもちょーかいちるね」
りょーパパに笑顔で言うと、床に投げ捨てられていたうさまるを拾い上げ、2つのぬいぐるみの顔を何度かひっつけ挨拶をさせた。
男は笑顔でそれを見ながらバルコニーの紫陽花に水をあげ、キッチンに戻って夕食の準備をし始めた。
ひとしきりぬいぐるみ同士の挨拶が終わった頃。
「理沙っ、今日は理沙の好きなスパゲッティだよ。2人をお部屋においてご飯にしよう」
それを聞くとパッと立ち上がり、ぬいぐるみ達をお部屋と呼ばれる部屋のすみに走って連れていき、二人を倒れないよう寄り添わせると、キッチンに走ってきて男の横で両手を上げて、だっこの仕草をする。
男はいつものように両脇に手をいれ持ち上げ子供用チェアに座らせると、干してあったエプロンをスッとかけた。
前に置かれたスパゲッティと男を笑顔で交互に見てソワソワしているのがまた可愛らしく、男もつい笑顔になってしまう。
「では、いただきます」
「いたーきます!」
男は小さなサラダを食べ、理沙のほっぺについたソースを拭きながら、うさまるとの話しなど理沙との話を楽しんだ。
やがて食べ終わるといつものように理沙を椅子から降ろし、買ってきたぬいぐるみと遊ぶのを横目に洗い物と残った夕食を手早く片付けた。
やがて眠りかけている理沙をぬいぐるみごとソファーに移すと隣に座り優しく子守唄を歌う。
理沙も初めは一緒に歌っていたが2番の歌詞に入ったところで静かに目をつぶった。
ソファーに掛けられていたタオルケットをそっと理沙の上にかけ、顔に垂れかかった前髪を整えると辺りを見回し、散乱したおもちゃ等を片付け始めた。
しばらくして再び理沙の前にそーっと腰を下ろし、顔を見つめる。
「くまさん達とおとなしく待ってるんだよ。じゃ、いってくるね」
そう言うと、静かに立ち上がりテーブル下の鞄とゴミの袋を取り、家を後にした。
それからまた何度かの夜が過ぎ、理沙はバルコニーで一輪だけ咲いた紫陽花に水をあげながら、何度も停まっては、出発をする待ち人の降りないバスを見続けていた。
「りょーパパきょうこないねー」
バルコニーの横に器用に並べたぬいぐるみ達に話しかけ、つまらなさそうに足をばたつかせる。
それからさらに数時間たち外の雑踏も途切れ途切れになった頃。
【コンコン】
玄関からドアをノックする音が聞こえてきた。
待ち疲れて眠りかけていた理沙だか、飛び起きると2つのぬいぐるみを抱えて玄関に走った。
いつもならドアを開けて入ってくるのになかなか入ってこない。
【コンコン】
またドアをノックする音、
男から鍵を開けてはいけないときつくいわれているので、開けることはできない。
玄関で口を手で押さえて息を潜めていると、
【ガチャッ】
鍵が開きドアが開く。
「すみませーん、お邪魔しまーす」
ドアから黒いスーツを着た人がすっと入ってきて、理沙の前にしゃがみこんだ。
「突然お邪魔してしまってすみません。
私、琥珀と申します。理沙さん、で宜しかったでしょうか」
ぬいぐるみで顔を隠しながら理沙は小さく頷く。
「少しお話しさせて頂いてもよろしいですか?」
理沙はぬいぐるみを抱えたままじっと琥珀を見る。
お人形のような整った顔立ちと左目の透き通った黒の瞳が深い印象を与えた。
「亮様のことで少しお話をしたいことがあるのです」
できる限りの優しい声で語りかける。
「りょーパパのことちってるの?」
「はい」
疑わしい目から一変、好意の目に変わる。
「あがってあがって!」
琥珀の手を握って部屋にあげると、片手でぬいぐるみを抱き締めたまま部屋の奥まで引っ張っていき。
「ねぇ、りょーパパどこ?」
笑顔で聞く顔には、待ちきれない気持ちが溢れでている。その姿をみて琥珀は少し話しにくそうな顔をしたが、気持ちと表情を切り替える。
「理沙さん。大変言いにくいのですが亮様のことについて伝言お伝えします。亮様はここに来ることが出来なくなってしまいました」
「えーなんでこえないの?!」
「大切なご理由ができてしまったのです」
「りゆうって?」
琥珀は理沙の顔を見つめ説明をしかけたが、少し言葉を選び直す。
「どうしてもここに来れなくなったことを理沙さんに伝えて欲しい、というのが依頼者様の伝言です、それ以上は依頼者のプライベートに関わるのでお伝えできません」
話が終わらなくなる予感がしたので、事務的な会話に切り替えたのだ。
それを聞いた琥珀を握る手にさらに力が入り、顔もみるみるうちに泣き顔に変わっていく。
「りょーパパくゆの!」
理沙はぬいぐるみを放し、琥珀の手を両手で引っ張りながら泣き続け、やがてその場に座り込んだ。
「、、、いきなりお邪魔して、こんな話をしてすみません」
少し困った顔で琥珀も理沙に合わせてしゃがみこみ、さらに優しく言葉を選んで語りかける。
ふとバルコニーに置いている紫陽花に目が止まった。
「理沙さん、この鉢植えにいつも水をあげていたのですか?」
「あげてゆ」
顔を下げたまま涙声で答える。
「そうですか、、、」
口に手を当て、琥珀はしばらく黙り込んでいたが。
「理沙さん、亮様に会えるかも知れませんよ」
「ほんとー!」
「はい。少し条件がありますが」
会えるという言葉を聞いて一瞬喜んだのだが、何かを思いだし理沙の顔がどんどん曇っていく。
「どおしました?」
「りちゃ、お外出れないの、、、何度出てもまたお部屋にいゆの、、、」
今にも泣きそうな悲しい顔で答え、一層強くぬいぐるみを抱き抱える。それを見て、【嫌な時間】の始まりを感じ、琥珀も少し気持ちを引き締めた。
「理沙様、死というもの知ってますか?」
「ち?」
「そう【死】です。人は、みんないつか死を迎えこの世の全てからお別れしなくてはいけません。そして新しく生まれ変わる準備をするのです」
首をかしげる理沙を見て。
「難しいですよね。
例えば大好きな亮様に、二度と会えなくなる事を想像してください、、、それが、ひとつの死です」
「なんで、そんなはなしすーのっ!」
理沙の目に涙が溜まってくる。
「理沙さん、これから思い出していただくことは亮様に会うために大切な事なのです。
理紗さんは、最後に食べたご飯の事を覚えていますか?」
理沙のぬいぐるみを持つ手に優しく触れながら質問する。
「りょーパパとスバゲッテイたべた」
「いえ、りょーパパに出会う前に最後に食べた物はなんだったでしょう?」
「ちらな~い」
怒った顔で横を向く。
「思い出して下さい。亮様に会うために必要なんです」
「、、、、」
「では、このぬいぐるみは誰からもらったのですか?」
「りょーパパ!」
「そうですか、ではあのぬいぐるみも亮様からもらったのですか?」
「ううん、あのこはちがう」
「では、誰からもらったのですか?」
「う〰んと、、さびちくないようにってもらったの。でもわすれた」
「では、どんな人でしたか?」
「ポカポカちてぎゅってしてくれる人」
「どんな時、ぎゅってしてくれるのですか?」
「いつもしてくれたの」
「理紗さんが大好きなのですね。理紗さんも大好きでしたか?」
「うん、りちゃママのことだいちゅき!」
理沙の目が大きく開き、口を手でおおう。
「ママ!ママからもらったの!」
「理沙さんはママの事が好きなんですね。最後にママと会ったのはいつですか?」
「う〰んと、、、」
天井を向いて考える。
「ずーっとまえに。おととにちゃくらちゃいたねってママいってた。そのときね。ママ、ごめんねっていって、つっごくぎゅーってちてくれたの。それでママないてたから、りちゃ、ナデナデしてあげたの~」
「そうですか、、」
琥珀の表情が曇る、、。この仕事の中で一番嫌な仕事を始めなくてはならないからだ。
目をつぶり深呼吸をする。
「それから、理沙さんはどうしていたのですか?」
「りちゃ、おととみたり、うたまるとあとんだりちてずっとまってたの。とれで、おなかついたときは、れいどうこにあるものたべてたんだけどなくなっちゃって、それからなんか、からだがうごかなくなっちゃったの、、。
きがつくとおうちにちらないちとがいっぱいいて、いろんなとこみてたの」
静かな声で下を向いて話していたが、ゆっくり顔を琥珀の方に上げる。
「それでおちゃちんをとってるちとがいたからみにいったら、りちゃがへんなかおでねてたの、なんかまえにいてたウサギさんとバイバイしたときみたいだったの。
なんかこわかったから、おととにでたら、またここにいて、なんかいやってもおととにでれなくなったの。
どーちていいかわからなかったからテーブリュのちたでみてたら、りちゃをちろいのにのせてととにつれていこうとちたの。だめ!っていって手をつかもうとちたんだけど、どーちてもつかめなくてととにでていっちゃたの」
そういうと彼女の目から大粒の涙が溢れだし、抱いている人形に落ちる。
「、、、みんなでてって、ちとりでそこのつみっこでつわってたらちとりのひとがかえってきて、りちゃにゆったの。
『寂しかったね』って。
みんな、りちゃのことわからなかったのにりょーパパは、りちゃをみつけてくえたの。すごーくうれちかったの」
不意に言葉が止まり、涙が頬を伝う。
「りちゃ、、、ちんだんだ」
琥珀は胸のポケットから白いハンカチを出すと優しく彼女の濡れた頬を拭った。
外はいつのにか、静まり返り初夏とはいえ暗闇があたりを見えにくくしていた。
「理沙さん、本来あなたの魂はここにとどまり続ける地縛霊というものです。
ですが、死を自覚したあなたの魂はその呪縛から今、解放されました。
よく頑張られました。あなたは、自由です」
琥珀は理沙の頭を軽くなでる。
「さぁ、いきましょうか」
「りちゃどこにもいかない!」
「え?」
「りちゃ、りょーパパとおやくそくちたのおもいだちたのここで待ってゆって。だからいかない」
琥珀の整った眉が少し動く。
実のところ、こうなることも予想はしていたのだが、嫌な時間から解放された心の安堵と理沙の表情と仕草などから想像を上回る困難さを感じたからである。
「残念ながら亮様は、ここにはもう来ませんよ。それでも待ち続けるのですか?
私は今回ある方に、あなたをどうしても連れてきてほしいとお願いされて特別に伺ったのです。
その方は、一人で待ち続けるあなたの事をひどく心配されていて、あなたが自由になることを願っておられます」
「だれ?りょーパパ?」
「今はお話しできません。
ですが亮様に会いたいのならここから出ないといけません。亮様に会いたいですか?」
「うん、、、でたらあえる?」
「はい」
「ですが、もうここに戻ってくる事はできません。本来なら死の準備ができたものは、ミルクディッパーへ送り届けるのですが、今回は、亮様のところにいくためにちょー内緒でルールを破ります。いいですか、ちょー内緒で、ちょー秘術なのですよ」
そういいながら自慢げな表情を浮かべる。
「どうされます」
「、、、おととでても、りょーぱぱおこんない?」
「亮様もきっと早く理沙さんにお会いしたいと思いますよ」
「そっかな~」
理沙の目尻の下がった上目遣いと、ぬいぐるみ達を抱き締めている姿で、喜んでいるのがすぐわかった。
「ちょっとみんなにも聞いてみる」
そういうとぬいぐるみ達を引きづりながら部屋の隅まで走っていった。理沙の気持ちがなくては術の成功もないので、ぬいぐるみたちを交互に持ちかえる秘密の会議が終わるのを静かに見守った。
数分ののち、理沙はぬいぐるみ2つを抱いて琥珀のもとに戻ってきた。
「あたちたちここでて、りょーぱぱにあいにいく」
あまりにも真剣な眼差しだったことと、いつのまにかお供が増えたことに少し心を乱されたが。
「コホンっ、では皆様本当に宜しいのですね」
ひとつ咳払いをし、真面目な表情で改めて聞き直す琥珀に、理沙は大きく二度頷く。
「ありがとうございます。では輸魂の法を行います」
「ゆこーのほー?」
「そうです、簡単にいうと別の命に、あなたを移します。
そうすることで、なんの縛りもなく他の場所に行くことが出来るようになるのです。
ほんとは先ほど話した通り、死を理解した魂は、ミルク・ディッパーと言う所にいくことになるのですが、今回は特別内緒で亮様の元にお連れします」
そういうと琥珀は立ち上がり、ベランダの紫陽花の鉢を持つと理沙の前に置いた。
⭐「この紫陽花には、あなたとの結びつき「縁」があります。この子ならあなたの魂を受け入れてくれると思います。理沙さん、気持ちの準備は宜しいですか?」
うーんと言いながら、理沙は首を右に傾ける。
「あかんないけど、りちゃ、りょーパパにあいたい」
元気よく真っ直ぐに琥珀の目を見て答える。
「その願い聞き届けました」
満面の笑顔でうなずくと、胸のポケットから小さな紙を2枚取り出し人型に上手に折ると、1枚を理沙の手の平に置き、もう1枚をそっと紫陽花の蕾の上に置く。
「うあー。ちゅごいー、こえなーに?」
「式紙といいます」
感動されたことに満更でもない琥珀。やや口許が緩んでいる。
「理沙さん、そのまま手の平から何がおこっても絶対に動かさないでくださいね。
それは魂を繋ぐために大切なものなのです。
それでは始めますよ」
理沙が式紙に集中しているのを確認すると、琥珀はそっと口元に指を当て静かに術式を発する。
すると黒色だった右目が金色に変色し始め、理沙の手の平と紫陽花の上の式紙が、頭を持ち上げるようにむくっと起きあがる。
次に理沙の式紙の上で琥珀の長く綺麗な指先が流れるように何かを描くと、理沙と紫陽花と二人の上の式紙は、金色に輝き始め、理沙の式紙は頭の部分から光る粉になり紫陽花の上の式紙に放物線を描いてゆっくり降り注ぐ。
光の粉を浴びた紫陽花の式紙は、踊るかのように勢いよく回転し始め、やがて紫陽花の中に溶け込むように沈み込んでいった。
目映くような奇跡の光景が終わると、金色に染まっていた部屋は何事もなかったように静になり、あとには薄暗く何もない殺風景な部屋が残った。
「ふうっ、成功ね」
琥珀は天を仰ぎ、深く安堵の息を吐くと周りを見回した。
さっきまで目の前にいた理沙の姿はどこにもなく、あとには一輪だけピンク色に咲いた紫陽花とくまのぬいぐるみだけがぽつんと残った。
「実際に存在するのはくまさんだけね。あとは全て理沙さんの夢、、」
先程までの室内の光景のほとんどが理沙の作り出した幻覚だったのだろう。現実の寂しさを感じつつ、琥珀は紫陽花に手を伸ばすとをそっと持ち上げ、顔を近づける。
「理沙さんわかりますか?無事、紫陽花に移せましたよ。どおです、お花になった感じは」
紫陽花の中に1輪だけ咲いた花に話しかけた。
琥珀は紫陽花を持ち上げたまま笑顔で何度か頷いていたが。
「話の途中で申し訳ないのですが、依頼人の時間も限られています。たくさんお話しもしたいと思いますが、早速向かいましょう」
軽く紫陽花に会釈するとをそのまま玄関に急ぐ、途中で少し紫陽花に謝りながら部屋に戻ると、くまのぬいぐるみを大切に拾い上げて部屋を見回し一礼する。
少しの間をおき、3人?は部屋を後にした。
【チッチッチッカチャ】
白い壁にかけられた時計は、24時ちょうどを指していた。
人気の無い病院は、いつもより音に敏感になる。
琥珀は紫陽花とぬいぐるみを持ち、見知った院内を音もなく進んでいく。難題が一つ解決したせいか笑顔にも見える。
(理沙さん、、もうすぐ会えますよ)
小声で紫陽花に語りかけながら歩みを進める。
いくつかの階段と病棟を通ったのち、誰にも会うことなく、目的の病室の前に到着した。
【408号室 杉田 くるみ】
「さぁ、ようやく亮様と会えますよ」
手に持った鉢植えに声をかけると見知ったように、音もなくドアを開け入っていく。
すでに消灯時間をすぎているので、個室とはいえ明かりはベッドの横の小さなランプだけだけだ。
そこにはベッドに寝ている中学生ほどの少女と、その隣でベッドに上半身うつぶせで眠っている男がいた。
【りょーパパ!!】
理沙が音の無い声で叫ぶと、微かにピンクの花びらが揺れる。
琥珀は、理沙の心を感じながら少女の元に歩み寄る。
「申し訳ございません、遅くなりました」
「こちらこそ無理なお願いを言いました、すみません」
少女は目をつぶったまま静かに答えた。
「そちらの子が理沙ちゃんですね。思ったより小さい子、、、私の方がお姉ちゃんだね」
くるみは優しく微笑み、琥珀の持つ鉢植えに話しかける。
「突然驚いたでしょう、私はくるみ、杉田くるみっていいます。
寝たままでごめんなさい。事故で体がうまく動かなくなっちゃって。
でも理沙ちゃんのこと目が開かなくってもしっかり見えてるからね」
そういうと辛そうに呼吸器内で息を整える。
「パパから理沙ちゃんことはよく聞いていたの、初めは そんなことあるのかな、って思ってたんだ けどね。
でも わたしが 交通事故にあって入院してたら、最近 琥珀さんが来てくれ るようになって いろんなお話をしてくれた の」
「会え てよかっ た」
琥珀は途切れ途切れに辛そうに話すくるみに、そっと近づき、くるみの胸に手をかざす。
すると、くるみの呼吸が落ち着いていく。
「ふうっ、いつもありがとう琥珀さん。かなり楽になりました」
「理沙ちゃん、ごめんね。
今日は、私が琥珀さんにお願いして理沙ちゃんを連れてきてもらったの。
理沙ちゃんがお部屋から出れないのをパパと琥珀さんから聞いて、一人っきりで家にいるんだと思ったら我慢できなくて、、、。
だってパパは、私が事故にあったのも、自分がそばにいなかったからだって、自分を責めてずっとそばにいるって離れないの。いつも帰りに寄っていた理沙ちゃんの所にも、もう行かないって言って」
そういうと、パパの方に少し首が揺れる。
「わたし、、、もうすぐ死んじゃうんだ。だからパパにも、理沙ちゃんにも幸せになってもらいたくって、ほんとは、私が理沙ちゃんの所に、いきたかったんだけど、ごめんなさい」
【ごめんちゃい。 りちゃ、りょーぱぱのことも、おねぇちゃんのこともなにもちらなくてごめんちゃい、、、】
【りょーぱぱ、つっごくやさちくちてくれたの。ずっとひとりでちゃびしかったから、りちゃうれちくって、そえで、あいたいって、こはくたんにおねがいちたの】
「理沙ちゃんもパパの事が好きなんだね、ありがとう」
【うん、りちゃもちゅきー】
くるみの優しい声だけが静かな病室に響く。
「理沙ちゃんは、、ママにも会いたい?」
腫れ物にさわるような柔らかな声で尋ねる。
【あいたい!、、、でも、りちゃ、ママにきらわれてるから、、ママ、、、だからかえってこなくなったの、、、】
会いたいという本音とそのあとの言葉には、不安と悲しさが共存していた。
理沙を持つ琥珀の手にわずかな振動が伝わり、静かな病室に重い空気が漂う。
「あのー。お話し中すみませ〰ん」
その嫌な空気を破るように、
可愛らしい少女の声が聞こえた。
「琥珀ちゃん、肩借りるよ」
言うより早く、白い羽の生えたモルモットのような生物が、尻餅をついてなんとか琥珀の肩に降りた。
琥珀の細く整った眉が少し動いたが、その生物は気にせず話を進める。
「くるみちゃん、起きてて大丈夫?」
「うん、ありがとうモルちゃん。今日は理沙ちゃんに会えたから元気なんだ」
「そっか、よかったー」
小さな両手を鼻元で握りながら喜ぶと、小さな羽の生えた生物は琥珀の方に振り返り。
「で、琥珀ちゃん、例の件確認とれたよ」
「そうですか!よかった。間に合いましたね」
モルは琥珀にウインクで返す。
「くるみ様、理沙さん、お話し中失礼します。
くるみ様からのもうひとつのご依頼の件、どうにか間に合いました」
琥珀は軽く会釈しながらくるみに告げると、動かないはずの瞼がほんの少し動く。
「よかったぁ、、、ほんとに無理なお願いをしました、ありがとうございます。で、お元気そうなのでしょうか?」
「う〰ん、それがあまり良さそうになくて」
「琥珀ちゃんには、声届いてる?」
「いえ」
「そうかー、でもかなり光が薄いんだよね。」
「モルちゃん、光って?」
「光はね、生きてる物の、ちか」
⭐
「モルさん!そこまでで」
琥珀の澄んだ声がモルの言葉を遮った。話しすぎたことに少し罰が悪そうにモルは下を向いた。
「でも、その状態で私に聞こえないなら、何かあるのかも、、急いだ方がよさそうですね」
そう言いくるみの方に向き直し、くるみの言葉を待った。
「、、理沙ちゃん、急なんだけど会ってもらいたい人がいるの」
くるみは琥珀の意図を汲み取り理沙にお願いする。
【あってもらいたいしと?】
「そう、私が琥珀さん達にお願いしてたの。どうしても探してほしいって、きっと理沙ちゃんも会いたい人よ」
【でもりちゃ、りょーぱぱのそばがいい】
「、、、理沙ちゃん、お姉ちゃんからの最後のお願い。一度その人に会ってみて」
少しの沈黙のあと。
「、、、おねーちゃんがいうんだったら、、」
気持ちが乗らないのだろう、浮かない返事が返ってくる。
「ありがとう理沙ちゃん」
優しい声と同時に、くるみの咳がひどくなる。
「だいじょーぶ?!」
琥珀がくるみの胸に手を置くのを見ながら、理沙が心配そうに声をかけた。少しずつ咳が治まり、呼吸が安定してくる。
「、、、ふーっ、すみません琥珀さん。少し話しすぎたみたいです。
申し訳ないのですが、後は宜しくお願いします。
、、理沙ちゃんごめんね、お姉ちゃん疲れちゃったから少し休むね。あとは、琥珀さんとモルちゃんにお願いしたから、、」
そういうと静かに口を閉ざし、室内はくるみの息遣いだけとなった。
琥珀は疲れて眠りに入ったくるみに軽く会釈をすると、モルを肩に乗せたまま理沙を伴って病室をそっと出た。
「くるみちゃん大丈夫かな、、」
モルは琥珀の束ねた髪を落ちないよう掴みながら、心配そうに振り返る。
「眠れば体力も少しは回復するでしょう、今はその時ではないのですから。
それではモルさん、その方のところまで案内してくれますか、いやな予感がします」
迫り来る未来を忘れるように、端正に整った眉に力を入れる。
「もちろん!」
モルは琥珀の肩から勢いよくジャンプして飛び降りると、薄暗い病棟の廊下を走って先導する。
闇に溶け込みそうになるモルを見失わないように、琥珀は理沙とぬいぐるみを抱き抱えて足早についていった。
何階か階段を上がったところにある看護ステーション横の病室に、ほどなくして着いた。
【面会謝絶】
ドアに書かれている。
ドアを見た琥珀の眉が少し動く。
「いやな予感が当たりました」
琥珀はドアノブに手をかざすと四つ葉の印が現れた。
「七曜の宣告ですね」
「ねぇ、ちちようって?」
モルが言うのをためらっていると、
「抗うことの出来ない死の印です」
琥珀はさらっといい放つと、口の前に指をかざし何かを呟き、その指をドアノブの前で左右に振る。
すると黒い煙が立ち昇り四つ葉の印が消えた。
「ふうっ、さあ時間がありません、入りますよ。
あ、そうそう、すみませんが理紗さん、少し失礼しますね」
そう言うと理沙に向かって円をかくように息を吹きかける。
するとさっきまで聞こえていた理沙の声が消える。
「さて、モルさん。いつ事態が変わるかわからない状況です。油断しないでくださいね」
モルの琥珀の髪を握る手が強まる。
琥珀もマスクを被ったかのように、冷ややかな表情になり、慎重にドアに手を掛け中に入る。
室内は真っ暗で、モニターや機器の明かりがカラフルに灯り、壁を彩っていた。さらにその奥の白いカーテンをそーっと開けると、そこには女性が、体中にいろいろなコードをつけられて眠っている姿があつた。
琥珀は寝ている女性の側にすーっと近付くと、ベッド横の小さな棚に立ててある彼女の所有物であろう写真に気付き静かに手に取った。少しして琥珀は女性に向きなおると、胸のポケットから名刺を出し、軽く唇をつけると枕元にそっと置いた。
「初めまして、わたくし琥珀と申します」
そう言うと、もう何日も風景のように動くことのなかった顔にかかっていた髪の毛が数本頬に流れる。
【はじめまして、、。え!、、わたし、、しゃべれる?!】
その女性は、話が出来ることに驚いたようだった。
「突然で、失礼致します。まず、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
無言で胸に手をつけ、会釈をする琥珀。
「は、羽倉よしみといいます。、、あの、、こんなことを初対面の方に聞くのも変なのですが、私は一体どうなっているのですか?目も開けることも体を動かすことも全くできないのです」
混乱と動揺で声が震えている。
「そうですねぇ、今あなたは病院で集中治療を受けられています。ちなみに、声が直接聞こえてくるのは、私と心を繋いでいるからですよ」
「繋げるって、どうやって?」
「驚かないで下さいね。私こう見えてみなさんの言う死神なんです。だからこれくらい簡単なんですよ」
声を失うよしみを感じて、やや満足げに琥珀の口角が上がる。
「それはそうと羽倉さん、横に小さな女の子がぬいぐるみを抱いた写真があるのですが、これは羽倉さんの持ち物ですか?」
「はい。私の娘の写真だと思います」
よしみの声に愛しさが溢れている。
「そうですか、、、羽倉さん確認なのですが、最後に覚えていることをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「え、はい。ただなぜか記憶が曖昧でしっかり話せないかもしれませんが」
「もちろん結構ですよ、今思い出せる範囲で」
よしみは少し間をおき、出来る限り整理しながら話始めた。
「私のうちは母子家庭で、娘と二人で生活しているのですが、ある日働き先から突然退職の話をされて、、、どうしていいのかわからなくなって、とりあえず就職斡旋所に向かったのです、、、でも電車を降りてしばらくしたところからの記憶がないんです」
「そうですか、、、。
ではモルさん、発見されたときの話をしてもらえますか」
そういうと琥珀の束ねて前に垂らした髪の中からモルがひょこっと現れた。
「モルモット!?」
「起きているときに会うのははじめましてですね。助手のモルっていいます。では私が調べたお話をします、いいですね」
小さな手で顔をかき、話を始める。
「警察の調書によると、その日よしみさんは、駅から少し離れた脇道で倒れているところを通行人の方に発見されたそうです。その時にはもう意識が混濁していたそうで、、、、
ただ、救急車の中で「ごめんね」と繰り返していたそうです。
倒れた原因は脳出血。
ずっと意識が戻らなくて、、、。しかも発見されたときには、握りしめられていたその写真以外、身分を確認するものが何も残っていなかったようで、1ヶ月以上身元不明のまま、この病院で治療を受けていたんです」
モルは悲しい表情で語ると、よしみの顔を不安げに見つめた。
「そうだったんですね。私倒れて、、だから体も動かせなくて、ずっと夢を見ている感じだったんだ、、、。あ!理沙、、娘の理沙は!!」
体につけた心電図の波形が大きく揺れる。
「落ち着いてください。理沙さんは私たちが保護しています」
「ほんとですか!ありがとうございます!ありがとうございます、ほんとに、、ほんとに良かった、、」
声からも強い安堵の気持ちが伝わる。
「理紗さんのこと、ほんとに大切なのですね」
「はい、夫と別れてからずっと二人で生きてきましたから」
話を聞く琥珀の表情が曇り、それを見たモルが口を開く。
「あの、、よしみさん、理紗ちゃんなんだけど、、、」
言いにくそうにモルが話し始めようとするが、琥珀が静止する。
「モルさん、私が話します」
話し始めたモルを優しく琥珀が止めると、大きく呼吸した。
「、、よしみさん、理紗さんの事で、話しておかないといけないことがあります」
「、、はい、、」
「すみません、私たちが保護したのは今日なんです」
「え!どういう事です、、」
「すでに理彩さんは、亡くなっておられました」
「なんで!!どういうこと?理沙、、、!」
声は出ていないはずなのに、微かに大気が揺れる。
よしみの悲しみが激しく流れ込んできて、モルは涙をこらえるのがやっとだった。深い悲しみの波が広がる。
【パチン】
突然琥珀は、紫陽花の上で指を弾く。
「ママ、、、ないちゃーめ」
理沙の声が穏やかに響く。
「理沙?理沙なの?どこにいるの?!」
よしみは、理沙の声に冷静さを取り戻し、声の場所を必死に探す。
「りちゃ、ここ〰!」
琥珀の持つ紫陽花にぼんやり理沙を感じる。
「理沙、、理沙なの?!」
「はい、理沙さんです」
「でも何で花から声が聞こえるの?」
「順を追って説明しますね」
そういうと、手に持っていた紫陽花をよしみの枕元に置く。
「よしみさんがここに運ばれてから1ヶ月以上経っています。残念ながら、その間に理沙さんは栄養失調で亡くなられたようです」
「そんな、、ずっと1人で、食べるものも無くて、、、私のせいだ、、、」
よしみの苦しむ声が伝わる。
「りちゃ、ちゃびしくなかったよ。うたまるもいたち、おかちもたべてたから。そえから、りょーパパがまいにちにきてくれたから」
打ち消すような明るい声で理沙が話す。
「りょーぱぱ?」
「警察の鑑識の方です。彼には亡くなった理沙さんが見えるようで、気になって毎日様子を見に来てくれていたのです。今回、私達への依頼もその方の娘さんから頂いたのですよ」
「依頼?」
「あ、すみません。今回よしみさんを探して、二人を会わせて欲しいとお願いをされまして」
「、、そうなんですか、なんてお礼をいえばいいのか、、」
「よしみさん、自分を悔いることはないですよ。世の中の死のほとんどは想定もできず、後悔の念がつきまとうものですから」
「でも、いたらない母親のせいで理沙まで命を失うことになってしまったんです!」
「、、、理沙さんはどう思います」
少しの間を置き、琥珀が口を開く。
「りちゃ、ママのことだいちゅきー!りちゃのこときらいになったからママいなくなったとおもってたー!」
無邪気に笑う、そこには大好きなママを取り戻した幸せでいっぱいの声があった。
「大丈夫ですよ。理沙さんはすべてをわかってますよ」
琥珀の澄んだ声がよしみの中に広がると、苦しみの心から解放され涙が止めどなく溢れだした。
「ママ、ないちゃーめ」
「なんで!わたし、理沙を一人にさせてしまったのよ。寂しかったでしょう!お腹すいたでしょう!すごく苦しかったでしょう!なんで!
、、なんで、そんなに笑顔で話してくれるの?、、」
「、、、だって、、りちゃ、ママのこと、ずーっとまってたんだもん、あいたかったんだもん、、、ママ、、りちゃのこときらい?」
「そんなこと、、、そんなこと、ないじゃない、、 理沙は、私の命より大切な娘なんだから!」
「よかった〰、りちゃといっちょ!」
二人の声が混じりあい優しい声に包まれる。
琥珀とモルも安堵の息をはく。
「琥珀様、お願いがあります。こんなぶしつけなお願いしにくいのですが、理沙を生き返らせることはできないでしょうか?」
よしみからのお願いは突然ではあったが、予想していたものでもあった。それに対してできる限り優しく答える。
「申し訳ございませんがそれはできません。一度肉体を失った魂をまたもとのように生き返らせることは出来ないのです」
「では、何か一緒にいられる方法はないでしょうか?」
「残念ですが、理沙さんは死の呪縛を解かれ、仮の生ですが紫陽花と生を共にしていますので、今のよしみさんが出来ることは、この紫陽花を育てていくぐらいだと思います」
「そんな、、、せっかくこうやって出会えたのに、、」
「それと言いにくいのですが、もうひとつ言っておかなければいけないことがあります。よしみさん、あなたの寿命はそんなに長くないのです」
「え!」
ショックを受けていたよしみは、さらに心にダメージを受け言葉が出てこない。
「この部屋に入る前に、別の死神の死の宣告を見ました。あなたは今日にも命を刈り取られます。残念ながらこれは決定事項です」
「では、理沙はどうなるんですか!」
「この花と共に命を過ごすことになります」
「琥珀様!なにか、、私にできないのですか、、最後くらい母親らしいことをしてあげたいっ!、、こんな命いらないから、、」
「でも、生きている人に関与することは禁じられているから、、」
モルも琥珀を横目でみやりつつ切ない声でつけ加えた。
琥珀はしばらく目を閉じ、小さな口に手を当て考えこんでいたが、やがて長い睫毛に隠されていた大きな目を開く。
「ひとつだけ方法があります。ただし成功率は低いです、、失敗すれば、あなたはその瞬間全てを失います。あなたの命も、理沙さんの命も、、、。それでも試してみますか?」
「何をすればいいのですか?」
よしみの声からは迷いのない固い決心が感じられた。
「そうですか、、」
琥珀は重い息を吐き、自らも心を決めた。
「幽体離脱という言葉をご存じですか?」
「え、はい、確か、魂が抜けて自分を見ているっていうものですよね」
「その通りです。今回少し違うのは魂をあなたの肉体から抜いて、他の命に移します。ただ移す場所に問題があります」
「移す場所?」
「はい、理沙さんもいるこの紫陽花です」
「え!すでに魂を交わらせているのにもう1つなんて!そんなことできるの?!」
隣にいたモルも驚いて、琥珀に鼻を近づけ質問する。
「どうでしょう、、これはあくまで生物学上ですが、今、理沙さんが憑依しているのは、紫陽花の核ではなく仮の花弁なのです。ならば他の花弁にも魂を移すことができるかもしれません」
「もしできなかったら?紫陽花が拒否したら?」
額にしわを寄せてモルが質問を続ける。
「そうですね。浮遊霊となって二人とも永遠にさ迷い続けることになります」
口を開けたまま固まるモル。
「やります。なんでも!理沙のそばにいれる可能性が少しでもあるなら!」
揺らぐことのないよしみの心の声が心に響く。
「わかりました、、、それでは理沙さんにも協力を頂いてもよろしいでしょうか」
「あたちもする!」
「ありがとうございます。では、私が名前をよんだら、大好きなママの顔を思い浮かべて、強くママを呼んでください。二人の心の結び付きが成功率をあげてくれます」
くるみの横のテーブルに紫陽花を置いた琥珀は、胸のポケットから無地の白い紙を4枚取り出した。
そして1枚を口元に寄せると何か呟き、紫陽花の上にそっと置く。
そしてもう1枚をよしみの額の上にそっと置くと、指先で紙になにか文字のようなものを書きなぞった。
「ふーっ、モルさん。すみませんがご協力いただけますか。今回は生きている方への術なので一人では術を安定させることが難しくて」
琥珀は一息つくと、肩に乗ったままのモルにもう1枚の紙を差し出した。
モルは大きく頷くと小さな口に紙を咥え、そのままよしみの上に降りるとベッドの上に伸びた足先まで走った。
「では皆さん、これから行う術は、生者に行うことが許されていないものになります。しかも何か少しでも狂うと全てが終わってしまいます。一度きりです。
皆さんの思いを一つにしてください!」
そういうと瞳を閉じ、残った1枚の紙を形の良い唇に咥え、その前に差し出した2本の指を徐々に天に向け伸ばしていく。
部屋の至るところから、まるで蛍の様に光が飛び交い、先ほどまで一定のリズムを刻んでいた計器が激しく波打ち始める。
その指が天を差しきると残った右手を口元に添わせ術を唱え始める。すると周りに漂っていた光が挙げた左手に集まり高速で渦を巻く。
モルの咥えた紙も光の欠片となり、琥珀の手の周りに合流していく。
そして数十秒に渡った詠唱が終わりをむかえる。
「理沙さん!今です!!」
「ママー!!だいちゅきー!!」
理沙の叫びとほぼ同時に、琥珀の高く挙げた手の周りを回っていた光が、よしみと紫陽花の上に滝のように降り注ぐ、やがて部屋全体を柔らかく暖かい光が包み込み、淡雪が昇華されるように消えていった、、。
数十分後、琥珀とモルは太陽の登場を間近に控える病院の前にいた。
「ねぇ、琥珀ちゃん。これで良かったんだよね」
揺れる肩の上で、後ろを振り返りながらモルが尋ねる。
「わかりません、、、。ただ結果としてこうなっただけです。それが全てを知ってもなお二人が望んだことですから」
いつもと同じ後味の悪い仕事に疲れた表情を見せると、琥珀達はややうつむきながら病院を背にして歩き始めた。
「琥珀ちゃんっ、朝日!」
ビルの谷間から太陽が少し顔を出し、闇に冷えた造形物を金色に染め始め、琥珀のカラスの濡れ羽色の髪を、優しく撫でていった。
琥珀は振り返り、一室だけ明かりのついた病室を眺めた。
【もう離ればなれになっちゃいけませんよ】
モルに聞こえないくらい小さな声で囁くと、足早に病院をあとにした。
時を同じくして病室では、
「おいおい、何もないじゃんか!」
そう言ったのは、真っ黒のレザーコートを羽織った長身の男だった。
男はすでに空になった病室の端に置かれた椅子にドカッと座ると、ややウェーブのかかった髪をため息混じりにかきあげた。
「また琥珀か」
苦々しく言い放つと、ふと窓際に置いてある植木鉢に目を止めた。
音もたてず立ち上がり植木鉢に近づき目をしかめる。
「おいおい本気か!」
「霊魂を草木に移すなんて無茶苦茶するな~」
そう言うと一層髪をくしゃくしゃにする。
男はしばらく紫陽花の花を見ていたが。
「、、、、ま、いっか。どうせ短い時間だ、せいぜい仲良くやんな、また来てやるよ。次は2人で仲良くいくんだな」
そういうと、右手を軽く上げ【パチン】と、指をはじく。
すると男の姿は忽然と消えた。
あとには、窓際でようやく月と交代したばかりの太陽の光を浴びて、心地良さそうに佇んでいる大きさの違う紫陽花のピンクの花が二輪、寄り添って楽しそうに咲いていた。
おわり