巡る縁
(負けちゃあおれん)
踵を返して、くらっ、とした。が、もたつく足を立て直し、平佐田は坂を下る。一本道のようだが、ざりざりとした足元が、よく滑る。
ついに転んだ平佐田は、ずるずると滑って道を外れた。咄嗟に掴んだ木の根に命拾いをした。滑った足先が、ぶらり、と浮いている。勢いよく潮風が平佐田の頬を叩いた。
「しっかりしろ」
道に戻ってゆくゆく周りを見渡せば、そこかしこに侵食されて削られた箇所がある。半分ぶら下がっているような大木が潮風になぶられ、悲鳴を上げているかに見えた。
背筋がぞっとする。もちろん地続きで下っている箇所もある。だが、平佐田にはとうてい駆け降りるは不可能だ。ところどころに岩肌を覗かせる、海に真っ逆さまだろう。
幾分か慎重に足を速めれば、白がもやもやと漂い始める。道は急で、果てして真っ直ぐなのかどうなのかもわからない。
勘たるものが皆無の平佐田は、どうしても腰が引ける。だが、早く下りなくてはならない。那医が途中で賊から賢坊を奪い返すことができればいいが、まんまと賊が山を下り、相棒と共に舟を出せば、お手上げだ。
(いけんしよう)
へなちょこでも命は惜しい。
(白が晴れて道が見えるまで待つか)
思い始めた平佐田に、ちらちらと黄色い色が目についた。
(蝶?)
目を凝らせば黄色だけでなく、紅や紫、若竹色がひらひらと風に靡いている。恐る恐る近づいて、紐だと知った。少しずつ距離を置いて下っている。
(そうか!)
合点した平佐田は紐を辿って足を速める。最後の色をやり過ごし、滋子に叩かれた聖域へと辿り着いた。
日が傾きかけている。日が落ちる前に何とか、賊の相方を見つけ出さなくてはならない。広い島の中で、潜んでいる賊を探す仕事は難儀だがおそらく、ここからそう離れた場所には、いないはずだ。
子供を連れて山を下り、歩き回る行為は命取りだ。できれば山から近く、こっそりと舟を舫っておけそうな場所……。
平佐田には三か所ほど思い当たる場があった。伊達に一年も島暮らしをしていた訳じゃない。機会があったらさりげなく、滋子を誘って行ってみようかと思っていた場所は、島人もあまり近寄らない場所だ。
助平心も役に立つこともある。
(まずは急ぐべし)
平佐田は海を目指して、ひたすらに山を駆け下りた。
途中、いきなり飛び出してきた蛇に度胆を抜かれ、顔に突撃してきた蝙蝠にのけぞった。
追ってくる得体の知れない足音に怯えながらも、なんとかあと少しで見張りの木に辿り着く地点で、いきなり現れた影にたたらを踏んだ。
「わあっ」「ひいっ」
互いに声を上げる。
誰彼時の出会いは、相手の顔が良く見えない。とにかくにも人である事実を確認した平佐田は、何故か胸がほっとした。ところが。
「わっ。薩摩が攻めてきた!」
ひと昔前のうちなんちゅのような言葉を吐き、くるり、と背を向ける男は……島人であるはずがない。
「こらっ。待てっ!」
探す手間が省けたのであるから、捕まえない手はない。
どうやら平佐田にびびっている様子が、平佐田を勇気づけた。勢い込んで後を追う。
賊が逃げ込んだ道は、今まで平佐田が通った経験のない、藪だらけの道だった。木々の枝が平佐田を叩く。
前を行く賊は、ひぃひぃ言いながらも、足を速めている。よほど怖がっているようだ。
かつて、これほど人に恐れられた例はない。どちらかと言えば、常には恐れている側の人間だ。
ちょっと気の毒になりかけて、
(いやいや。やつは大悪党じゃ。子供らを売り飛ばし、飯を食うとる。もしかしたら、智次坊だって……)
人のいい自身を嗜める。
道はどんどん急な下り坂になり、生い茂る木々が立ち塞がる。木々の間を縫う平佐田の着物の端が裂け、ひらひらと風に靡いている。賊はさすがに平佐田のように運動不足ではないようで、距離が開きはじめた。
(まずいぞ)
焦った平佐田は、咄嗟に目の前の枝を掴んだ。
「きえぇぇいっ!」
平佐田としては、枝にぶら下がり、賊の背を目がけて飛ぶつもりが、ぽきっ。枝は、いとも簡単に折れた。平佐田は、そのままずるずると斜面を落ちる。
「ひいぃぃっ」
振り向いた賊が悲鳴を上げた。そのまま平佐田は賊の目の前に滑り落ち、何とか足を踏ん張った。賊は目を見開いて、がくがくと震えている。
「か、堪忍してください、薬丸自顕流……」「?」
寸の間、ぽかん、とした平佐田は、両手に残った木の枝に(おぉ)と頷いた。
薬丸自顕流の稽古に、格式ばったものはない。木刀を手にひたすら気合いを込めて打ち据える実践型だ。
「きぇ~いっ」猿のような奇声を上げ、狂ったように打ち据える。果てしなく繰り返すことによって邪念を払い、速さと筋力を鍛える地道な鍛錬だ。師がいなくても一人でできる。
ただ、それをいいことに搖坊は、すぐに投げ出したのではあるが。
「蜻蛉のごとく身を制し、一瞬のうちに敵を討つ」
一撃必殺の奥義ではあるが、平佐田は奥義の隅っこすら知りもしない。ぱしん、と叩いた横木に手が痺れて、へたり込んでしまったからだ。だが。
平佐田は「ぷぷ」と笑って枝を打ち込んだ。両手に残った枝は軽い。
おそらくは噂に聞くだけの「薬丸自顕流」、ただ両手を広げ蜻蛉の羽に見えた構えが、賊には恐ろしく思えたのだろう。
「きぇ~い、きぇ~い、きぇ~い……」
いい気になって打ち据える相手は、賊の縮めた頭の先にある切り株だ。ぱし、ぱしと小さな音を立てている。
これならば、へなちょこ平佐田でも手が痺れることもない。だが、それでも段々に疲れてくる。
(もういいか)
平佐田が思った刹那――
「あらんやっさ~」
間延びした野太い声が響いた。咄嗟に顔を向けた上から何かが落ちてくる。
恐ろしい勢いで落ちて来るものに、「兄ぃ……」呆けたような声が呟いた。
ただ目で追うだけの物が平佐田の前を通過する。一瞬ではあったが平佐田には、〝兄ぃ〟が穏やかに笑っているように見えた。
大捕り物を終えた平佐田は、島の英雄となった。
島を去ったかに見せかけた〝平佐田せんせ〟は、島に潜む人攫いを捕える使命を持った、本土から送られた勇士――。
あっという間に島中に広まった噂を、お館家に飛んできた智頼から聞いた平佐田は、何とも居心地の悪い思いを持て余した。だが、噂の出どころがお館様と知れば、下手に否定もできない。
賊を細い木の枝で突きながら、海岸に下りた平佐田を待っていたのは、お館様から知らせを受けた、吉野だった。
捕えられた賊は〝人攫い〟を認めているらしい。主犯の賊は、賊の供述により、山道から足を滑らせ、海に落ちたものと見なされた。
しかし、遺体は上がっていない。
「ここらではゆうとあう話です。海は深く、波は荒い。いっど沈んでしまえば、発見は難しかでしょう」
と、吉野は頭を振った。
賢坊はどうなったかと言えば、意外にも岩屋で見つかった。こちらは那医が知らせてくれた話だ。今回の件に、琉球人が関わっていた事実は、伏せておくつもりらしい。
「儂らは密偵じゃから。表に出るわけにゃあいかんのよ」
がはがはと笑う那医に、平佐田は身が縮まる思いがした。しかし……
それでは、あの時、男が追いかけていた子供は、誰だったのか。平佐田の疑問には、
「儂ら硫黄の毒気に中っとった。朦朧とした意識が幻覚を見せたんじゃろ。賢坊のことで頭が一杯じゃったから」
那医の答に頷くよりなかった。島の子に行方不明者がいなかったからだ。
「じゃあ……攫われた子たちは? 探せるんじゃろか」
平佐田の疑問に、悲しげに首を振ったのは、お館様だ。
「仲買人を探すは、難儀です。賊が直接売買をしていたのであれば、探せましょうが。どこへ売られたか、特定できません。仮に見つかったとしても、買い上げたほうが、素直に手放すとは考えられません」
平佐田はお館様の書面を、ぐっ、と握りしめた。
(それでも。これから犠牲者はなくなるのですから。貴殿のおかげです。礼をいいます)
直接、頭に掛けられた声に、少しだけ気持ちが和んだ。
撤退となった道場。島から「先生」はいなくなったが、お館様の計らいで、平佐田は島に残ることになった。山川薬園には、お館様がとりなしてくれたようだ。
〝密命〟に関しては、「まだ見つからず」と報告してある。もっともらしい話ができあがっていないからだ。
撤退命令の出た先生を、島に残す名目ができた大殿側としては、二つ返事で飛びついたらしい。相変わらずの節約が続く中、余計な人件費は割けないと言ったところだろう。
平佐田の島での暮らしは、全てお館様の負担となっている。つまりは、島の有力者が、道場の撤退に伴う子供たちの育成を慮り、先生の一人を借り受けた形となったわけだ。平佐田は島でたった一人の先生となった。よって、毎日が忙しい。
お館家の一角を借り、子供たちに読み書きを教えて早、数か月が過ぎようとしている。
時折お館様が初を伴って、手習いの手伝いをしてくれる。おかげで、以前はどことなく、島人たちから近寄りがたい印象を受けていたお館様が、子供たちには近い存在となった。
剣術の指南を望まれた時には、ひやり、とした。だが、島の英雄としては、断りきれない。よって、山人に頼んで、材木置き場の一角を借り、数日置きに子供たちに木刀を持たせて通っている。
師は、なにもしない。「きぇ~い」の掛け声を教えるだけだ。ただ、山人たちから「うるさい」と苦情が出ていて、場所を変えねばと思っている。
(すべてが順風満帆だ)
前回は思った矢先に突き崩されたが、今回、運は平佐田に好意的らしい。
「生きていれば、いかちゅうこつもあう」
滋子との縁談が纏まった、平佐田はしみじみと思う。
「島の英雄ですから。我は人の恋路を邪魔するほど、無粋者ではありません」
仲人まで買って出てくれたお館様には、足を向けて眠れない。よって、平佐田は枕の位置を変えて寝るようにしている。
「せんせ。本日は剣術の日じゃね」
迎えに来た島の子に苦笑いを浮かべ、「うん、行こうか」縁を下りた平佐田に、
「せんせ、えらいこっじゃ、智次坊が見つかった」
勢い込んで走ってきた吉野の声に、平佐田の口が、あんぐりと開いた。
走りながら涙が止まらない。
(儂、こんなに幸せでよかろか?)
「随分と様変わりしちょって。儂、わからんかったんです」
浜辺でぼんやりと座っている見慣れぬ姿に、またまた賊が現れたかと、吉野はすぐさま不審人物を縛り上げ、「賊を捕えた」とお館様に報せを走らせた。
飛んできたお館様が、「これは……智次坊では?」と、智頼を呼びにやったそうだ。お館様の見えない目は、吉野より数段も目利きらしい。
「で、儂は、せんせを呼んでくるように言われて。せんせは随分と、智次坊を案じておられるからと、お館様が……」
数人の人だかりが目に映り、吉野を押しのけて平佐田は走る。胸が一杯とはこういうことか。流れる涙を拭いもせず、
「智次坊!」平佐田は叫んだ。
振り向いたお館様の隣に、役人……吉野の上役が腕を組んでいる。すぐ前に項垂れた男子が、ぱっ、と顔を上げた。
(え?)
一瞬、平佐田の足が緩んだ。
(智次坊じゃない?)
だがこちらに顔を向け、にかっ、と笑った顔を見て平佐田は泣き笑いとなった。
「智次坊、どこ行っとんじゃ。心配したぞ、怪我しとらん? なぁ」
抱きかかえた体は、幾分か大きくなったみたいだ。男子らしくなった。間近で見れば、面影は変わっていない。ただ、どことなく雰囲気が違う。島の子特有の泥臭さがないからか。
智次から、ほわり、と嗅ぎ慣れない臭いがした。
(気のせいじゃ。しばらく会っていなかったから。育ちざかりの子供の一年は大きい)
「兄ちゃん、儂……」
泣きながら腕に抱いた智次が、平佐田の耳元で小さく、話し出して、
「智次っ!」
いきなり大きな猪に体当たりされた平佐田は、ぶっ飛んだ。唖然と顔を上げれば、お内儀が智次を抱え、雄叫びを上げている。
似たような咆哮が浜からも聞こえ、見れば、転ぶようにして智頼が駆けてくる。一年前より一回りも小さくなった二人に、平佐田の胸が詰まった。
(親じゃもの。おいがしゃしゃり出ちゃあいかん)
うぉーうぉーと島中に響きそうな咆哮を聞きながら、(良かった、良かった)しみじみと思いながら袖で涙を拭った。
智頼の背に顔を伏せて泣いていた時頼が、平佐田を見つけて走り寄る。二人は肩を叩き合い、大いに泣き笑った。
(家族っていいな)
平佐田は、ぐりぐりと時頼の頬に拳を押し付ける。
何事か、と集まりだした島人に気付いたお館様が、役人を促して雄叫びを上げる智頼に耳打ちした。涙と洟でてかてかになった顔の智頼が、ひょい、と智次を抱え上げ、家に向かった。
柿の木を正面に見る久しぶりの部屋に、久しぶりに揃った面々。平佐田は懐かしさを覚えた。
お爺さんとお婆さんに両側から抱えられた智次は、声を殺して泣いている。
ひとしきりの再会を果たした後、吉野は上役の指示に従って、智次に事情を聞こうとした。
ところが、泣き疲れたのか、智次はぼんやりとした目を向けて、「わからない」を繰り返した。
じっと様子を見ていたお館様が、役人二人を促して立ち上がった。さすがに、よくできたお方だ。平佐田も倣って智頼家を後にした。
表に出れば、わらわらと島人が集っていて、「何があったんじゃ」誰かが叫ぶ。
咄嗟に平佐田はお館様に目を向けた。応えて、にこり、と笑ったお館様は、
「智次坊が戻ったと。話して差し上げて下さい。いずれ、わかることです。ただ本日は、そっとしておいてあげてくれと。後に智頼さんから、話があるでしょう」
平佐田の頭に答えた。
「智次坊、気になってるのやろう?」
囁くような声にはっとする。横に目を遣って平佐田の顔が、でれり、と緩む。
白無垢姿の滋子は、神々しいほどに美しい。
智次坊の帰還から数えてひと月。平佐田は念願の、祝言の日を迎えた。滋子の隣には来春、お館様との祝言が決まった初が、にこにこと笑って座している。
平佐田の真向かいに座すお館様は、白い目をぱちりと開け、穏やかに微笑んでいる。平佐田の隣には、智頼とお爺さんが絶え間なく、洟を啜りながら酒を飲み交し、時頼が落ち着きなく辺りを見渡している。来客への挨拶を滞りなく済ませるためだ。
父親も爺もべろべろで、呂律が怪しい。時頼は立派に長男としての役割を果たしている。頼もしい限りだ。
とにかく、島の英雄の祝言とあって、平佐田自身が恐縮するほど盛大なものとなった。
早朝から準備に懸かり、まずは島神様へのご挨拶、そのまま里を練り歩き、平佐田はあちこちで文句を言われた。
「島一番の別嬪を攫いおって」
島男は一様に、うっとりとした視線を滋子に向けて、平佐田を睨みつける。
「何だか、損した気分です」
仲人として付き添ってくれたお館様までが、平佐田の頭に囁いた。
ぷぃ、と背を向けた時には、何だか悪いことをしているような気分になったものだ。
戻ったお館家の屋敷の座敷は襖を取り払い、広々とした奥に鎮座する新夫婦に、島中の人たちが挨拶に来る。
手に手に祝いの品を持した人々の顔は温かで、平佐田はずっと泣きっぱなしだ。だから、ついつい勧められるままに杯を空け、気が付けば島人の数が二倍にも、三倍にも増えていて驚いた。さすがは神のいる島だと、おかしな感心に頷いたほどだ。
客足が途切れて、智頼が席を外し、お爺さんがくたり、と倒れ込んで、鼾を掻き始めた。近づいた時頼が、平佐田に詫びる。
「すまん、兄ちゃん。智次も、兄ちゃんたちのこつ、目出度い言うとる。けど……」
二重に見える時頼の肩に何とか手を置き、
「いいんじゃ。智次坊の気持は、わかる。ここにおらんは、とても残念じゃが……坊は病じゃ。無理せんでいい。一番に喜んでくれとるは智次坊じゃと、おいもわかっとるよ。帰ったら、伝えてくれ。おいは幸せじゃと」
「うん」
初めてあった時と変わらず、時頼は口数が少ない。でも立派な男に育った。素直で優しい心は、そのままだ。
「智次は変わっちまった。あんまり飯も食わんし、外へ出たがらん。儂や父ちゃんとは話もするが、いきなり黙り込む。ふらっと出て行っては、浜辺でぼんやりしちょることも、しばしばじゃ。儂、心配で心配で……」
相変わらず、弟思いだ。
島人の間では、「神隠しの子が戻ってきた」との噂が広まり、智次を奇異の目で見る者もある。
「敏感な智次は、それを察しているのでは」と、平佐田は思っている。よって今は、そっとしておくべきと、敢えて平佐田も智次を見舞ったりしていない。ともかく、戻ってきてくれたことだけで嬉しかった。
本来であれば、平佐田の幸せを一番間近で見て欲しい智次だが、本日この席にいないことを、平佐田は良しとしている。島人が入れ代わり立ち代わりやってくる場所で、智次が物珍しげに眺められるなどいたたまれない。
「祝言が済んやら、二人で坊のとこに行きまひょ。うちらを継いでくれたんは、坊かもしれまへんさかい」
にこりと笑う滋子に、再びでれっ、と鼻の下が伸び、
「せんせ。本日は終了じゃ。日が暮れたからな。続きは、また明日」
酒臭いくせに、すっかりとしらふの智頼に、ばしばしと背を叩かれ、
(せんせ、気張れや。今夜は、大切な晩じゃ)
意味深に、にたり、とされて顔が熱くなった。
隣を見れば既に滋子の姿はなく、介添え役の初もいない。着替えに行ったのだろう。
「兄ちゃん。酔いを醒ますには、たらふく食うこっちゃ。仰山食って……気張れや。ここが男の見せどころじゃ」
近寄った弟分に励まされ……
戻った部屋で、常よりずっとしとやかな滋子に見惚れながら、用意された飯をたらふく食ったら、身も心も満たされる。
思い返せば、今までかつて、これほどまでに満たされた時を過ごした経験はない。まさに、感無量の平佐田だ。
ふっ、と灯りの消えた部屋に、ほんのりと甘い香り。もそもそと布団の擦れる音がして、平佐田は手を伸ばす。
指先に感じた滑らかな肌に、平佐田の興奮が絶頂に達し、荒い息で滋子の布団に潜り込んだ。
びくっ。小さく震える滋子が愛おしい。本日の滋子は、とてもしとやかだ。
「あぁうち、恥ずかし」
小さく呟いて向ける背に、またまた愛おしさが増し、包むようにして華奢な体を抱いた。
甘くていい匂いは、闇に浮かぶ白いうなじから漂ってくる。花に吸い寄せられる蜂のように、平佐田は白いうなじに口を寄せ、
「滋子さん、滋子さん……」うっとりと目を閉じた。
「あぁ……せんせ、せんせ……」
体が揺れている。
(お、おいは、ついに……)
そこまでの過程を全くもって欠片も覚えていない平佐田だが、ともかく酔い痴れた思いのまま、「滋子さん……」そっと手を伸ばした。
しっとりと吸い付くような滋子の肌……にしては、もさもさと毛深い。
(あれ?)
「せんせ、もう、起きんと。滋子さんなら、とっくに起きて支度しちょる。せんせも起きんと間に合わんようになる。お館様が起こして来い言うんでな……」
でかく四角い顔が、目の前にあった。
然るべき理由で、平佐田の機嫌は、すこぶる悪い。
それでも祝いに駆けつけてくれる島人には、きちんと挨拶はしなくてはならない。祝言とは大変だ。
それでも、お披露目の儀式は本日で終了。お館様の場合は、軽く七日は掛かるらしい。
七日間もお館様は〝お預け〟を食うのかと、何だか気の毒に思っていると、「ぷぷぷ」と、珍しくお館様が笑い出した。島人が目を剥いてお館様を見る様に、平佐田の不機嫌も吹っ飛んだ。
小さな笑い声に隣を見れば、滋子が平佐田に目を向けて、やんわりと笑む。でれでれと頬が緩む平佐田のご機嫌は、すっかり元通りだ。
それでも、今宵こそは絶対に、夫婦の契りを交わさなくてはならぬ。
これほどまでに盛大に、島人に祝ってもらい、お館様にも世話を掛けたからには、きちんとけじめをつけるべきだ。
根が真面目な平佐田は、本日は一切の酒を断り、代わりに智頼が、新郎への祝いの杯を受けている。がはがはと上機嫌で笑う智頼の周りには島人が腰を据え、漁師唄ら、山人唄やら、喧しいことこの上ない。
ついには盆踊りまで始まって、
(常の宴会となんら変わらん……)
平佐田が頭を抱えたくなるような、乱痴気騒ぎとなっている。
隣にいるだけで酔いが回りそうな賑やかさに、さすがに疲れたのか、滋子が初と共に席を立った。
「大丈夫?」平佐田が訊ねれば、「へぇ」少しはにかんで笑う滋子に、またまた、でれーっと鼻の下が伸び、
(今宵こそは。おいはきっと、男の責任を果たします!)
心で凛々しく誓い、でへへへ……にやけた顔で後姿を見送った。
「せんせ。ちぃと、のぼせすぎじゃ。ほれ、水でも飲んで。顔がにやけまくっちょるぞ」
宴会の輪の中から、水を差す言葉が掛かる。
いい加減ぐったり疲れ切った平佐田は渡された碗を手に、
(そうじゃ、しゃきっとせな。今宵こそは絶対に、男を立てにぁいかん!)
気合いを入れて一気に飲み干した〝水〟に、いきなり頭をがつん、とやられた。
「わっ、兄ちゃん!」
時頼の声を最後に、何もかもが白の中に消えた。
「で……ほんにあん二人の元に〝お宝〟が? ばっぺーやねーらんよーやー」
黒く艶やかな天井にようやく焦点が合った平佐田に、忍ぶような声が耳に届いた。
何もかもがつまらない――
遠く海の向こうを見つめながら智次は思い、腰を上げた。
白くけぶるは島神様の験か。かつて、あれほどまでに憧れた白が、今はくだらないものに見える。
どんなに憧れても、居王様に会えはしない――
一度は大きく膨らんだ興奮が冷めた後、智次の心は、急激に島から離れていった。
ハンスと一緒に、異国へと行きたかった。智次の〝隠れ里〟は、きっとそこにある。知らない物に溢れ、知らない人が多く行きかう里に、智次の知りたい物がたくさんある。
決められた場所での、決められた暮らし……島には何一つ変化がない。智次が不在であった一年の間に、智次の目に変化として見えたものは、父ちゃんと母ちゃんが一回り小さくなったことくらいだ。
それが智次のせいだと思えば、本当にすまんことをしたと、胸が痛む。心配など、しなくてもよかったのだ。智次は毎日を元気に過ごしていた。出島たる異国人の住む不思議な里で。
ハンスが居王様ではないと理解した時は、随分とがっかりとしたものだが、出島での暮らしは実に変化に富んでいて、楽しかった。
琉球の子、石坊の冒険話の数々、本土の人であるはずの啓作がすらすらと話す異国の言葉、ハンスの異国語に混ざる琉球の言葉……なにもかもが珍しい。極め付けはシーボルト先生が見せてくれた〝剥製〟で、死んでいる鳥が生きているかのように見えた。異国人は死んだものを生き返らせる技を持っているのかと、大いに魂消たものだ。
「もっと珍しいものが一杯ある」
シーボルト先生について見学に行きたかったが、出島内にいること自体、秘密となっている智次が、役人の目を誤魔化して外へ出るは至難の業だ。
「サムライに斬られる」
ハンスの反対には、逆らう気にはなれなかった。がたがたと震えるハンスは、余程サムライが嫌いらしい。
決して他の人たちに見つからないように――
隠れ住む暮らしは、智次には〝隠れん坊〟のようで面白い。盗み見る異国人の暮らしは、とても興味深く、ついついちょっかいを出して、ハンスには随分と叩かれた。
サムライに斬られるぞ――
「聞かせて欲しい」と頼まれた、居王様と黒御子様の話に、島が恋しくなって涙ぐむと、「やっけーむんやっさー」ハンスが故郷の絵を描いて見せてくれた。
実物を見ていないから、上手いのかどうかは、わからない。それでも島とは違う建物や景色に智次は目を見張った。
中でも智次が興味を抱いたのが川だ。まるで海のように広い川は、この出島の海と繋がっているのだと、わかりにくい琉球語で説明した。智次には信じられない話だ。
船に乗って出島に着くまでにあった様々な出来事、立ち寄った国の景色、智次はハンスの絵話に夢中になった。
行ってみたい――。
居王様と信じた、ハンスに初めて出会った時の興奮が蘇る。「未知の物への憧れ」または「怖いもの見たさ」だろうか。重定兄が黒御子様に誘いを懸けた思いがほんの少しわかった気がした。ハンスはやはり智次にとって「居王様」だ。胸が高鳴る興奮を与えてくれる。
あっという間の一年だった。オランダ船が出島に着き、出島は多くの異国人で溢れ返った。役人もおおわらわで、本土の商人らしき人たちも慌ただしく行き交った。
智次にとっては祭りのような賑やかさの中、「儂も一緒に行く」と駄々を捏ねる智次に、ハンスは言ったのだ。
今度また来た時にね。四年後だ。連れて行ってやるから、待ってろ――。
*
「四年は長いよ」
一人呟き、智次は海に背を向ける。
まだ数か月しか経っていない。居王様と小舟に乗った約束の場所で待ったところで、居王様が漂う白の中から悠然と現れる奇跡は、ありえないのだ。ハンスは本物の居王様じゃない。
戻った智次に、誰もが色々と訊ねるが、「出島にいたことは誰にも話してはいけない」と散々に念を押されているからには、何も言えない。きっと、真相がばれれば「サムライに斬られる」のだろうとハンスを思い出して考える。
言わずに越したことはない。島人はどうやら、智次が神隠しに遭ったと思っているようで、だったら「なにもわからない」で通したほうが楽だ。
それでも智次としては、実に珍しい体験をしたのであるから、誰かに話したくはなる。そのたびに「サムライに斬られる」ハンスの言葉が蘇り、口を閉ざすの繰り返しだ。
また、覚えようと毎日、繰り返したオランダ語が時に口をついて出ることもあり、怪訝な顔をされたりもする。
段々と億劫になって、人を避けるようになった。近頃では智次を気味悪がる人も出てきた。神隠しから戻った子供――うんざりする。人の姿は以前と大して変わりはないが、浦島さんになった気分だ。
唯一、話せそうな兄ちゃん、平佐田せんせは、一人だけ残った先生として、毎日が忙しい。先日、滋子と無事に夫婦となった事実は、智次としては嬉しい限りだ。
「兄ちゃんがサムライに斬られては申し訳ない」と、やはり遠慮してしまう。
一年の〝隠れん坊〟が、智次をどんどんと島から遠ざけて行った。
「だから、智次坊に聞きたいだけじゃ。御子様はお達者でおられるかどうか。隠れ里に行ったんじゃろ。御子様は、いつ戻られる。儂は……」まただ……
うつうつとまどろんでいた智次の耳に、近頃しつこく纏わりつく声が届く。顔を顰めて起き上がれば、こっ、こっと鶏の鳴く声が庭から聞こえ、ぼんやりと目を移した先に、柿の木が見えた。
「おぅ、智次坊、起きたか? 鶏の餌はどこじゃ?」
兄ちゃんが振り向いて言った気がして、智次は飛び起きる。
全部すっかり、話してしまいたい。兄ちゃんになら話せる。聞いてもらえる……。
ところが、兄ちゃんはいない。一年の間に智次にとって、唯一の様変わりが口惜しい。
腫れ物に触るように――
家中の者が智次に気を遣い、智次は、それがまた淋しい。皆が心配しているのだ。わかるが、智次には逆に辛いばかり。
「何があったんじゃ。どこにいたんじゃ。心配かけよって」
言ってくれれば、全部をぶちまけたかもしれない。が、誰もがそっとしておいてくれれば、智次は〝秘密〟を守らねばならなくなる。
滋子と夫婦となった「平佐田せんせ」は今、お館家で住み込みのせんせとして暮らし、空き部屋となった場所で、智次が寝起きをしている。
贅沢なこと、この上ない。いっそ、以前のまま、両親と同じ部屋でうるさい鼾の中に戻っていれば、そのまま以前の生活に戻れたのかもしれないが。
「智次は神隠しになんぞ、遭うておらん。有盛さん、すまんが、帰ってくれ。智次は病じゃ。宗爺も、そう言うとる。隣島におったんかもしれん。お役人も隣島に人を送って……」
母ちゃんが必死に言い返す声を聞きながら、智次は庭に下りた。如何にも、いづらい。
間を通る智次に、鶏たちの動きが止まる、以前は智次を見れば、「餌をくれる」と寄ってきた鶏たちですら、冷ややかな目を送っているようで、智次はさっさと外に出た。
特に行くあてはない。だが、どこにいても同じ。以前のように親しげに声を掛けてくれる人はいないし、智次自身も、話すつもりはない。親しかった人は特に遠ざけている。
余計なことは、言ってはならない。大好きな兄、時頼すらも遠ざけている訳は、言わずもがなだ。
ふらり、と山道を進んだ理由は、人を見かけても隠れ場所がたくさんあるからだ。隠れん坊は得意になった。生い茂る木々があれば、造作もない。
かつては決して踏みいれなかった聖域も、〝居王様事件〟ですっかり馴染みの場所となった。見晴しもよく、とてもいい場所だ。
智次はすっかり気に入って、近頃では一日中、ここにいることもある。家にいれば家族の心配そうな顔に耐え切れなくなり、外に出れば奇異の目で見られる。ひとりきりの居場所は心地良い。
ぱたり、と身を横たえれば、草花がほんのりと香る。見上げる空は、どこまでも突き抜けるように青い。
ただ、じっと空を見上げている智次に、かさり、と小さな足音が聞こえた。
起き上がった智次の真正面、大きな木に寄り添う山吹が、ひらひらと風に揺れている。
(山吹? 季節はずれな……)
不審に思った智次が近づこうとして、山吹が振り返った。
「わぁ」「おぅ」
互いに声を上げる。
まさか山吹が人だとは思わなかった智次は、大きく見開かれた黒い瞳から目が離せずにいた。
「驚いた。あんさん、どなたはん?」
先に口を開いたのは娘のほうだった。智次は合点して、にかっ、と久しぶりに笑った。
「儂や、智次。久しぶり、時ちゃん」
「ええっ、智次はん? うそ……」
信じられない、という体で、時子は智次を見上げる。
「ほんまどすぇ。言わはったら、信じる?」
智次の言葉に時子は目を細め、「ほんまや……」と笑った。
久々の再会に、二人は座り込んで屈託のない話で盛り上がった。
何せ、同じ島にいながら、会ったのは数年ぶり。時子は体が弱く、外に出ることを母親から禁じられ、友人と呼べる子供もいない。年の離れた姉の滋子が、唯一の遊び相手だった。
それでも、父親のない時子の家では、姉も母を手伝って仕事をしなくてはならない。そこで滋子は、同い年の智次を時折は家に呼び、遊び相手をさせたのだ。滋子がわざわざ智次を選んだわけは……
「言葉、直どしたのね」
「うん。父ちゃんが、うるそうて。島男は、なよなよしとっちゃあいかん、ってな。別に儂は、構わん思うが。儂は好きよ、京訛り」
智次は時子を見てにこり、と笑う。智次もまた守女であったのだ。
といっても、男の場合は呼び方が違う。京訛りを持った男子は生まれ変わりと呼ばれ、御子様に仕える武者の生まれ変わりだと言われている。
すっかりと影を潜めた生まれ変わりだったが、智次が言葉を話し出して仰天した父親が、躍起になって言葉を改めさせたわけだ。よって、島でも事実を知る者は限られている。
同じ言い伝えの子である滋子は、いずれどこからか聞き調べて来たに違いない。病弱な時子の遊び相手が、時子の言葉を嫌うようでは不憫と思い、智次に白羽の矢を当てたわけだ。
それでも男の子である智次がいつまでも女子遊びに付き合っていられるはずもなく、大きくなるに従って時子の家に寄ることもなくなった。当然の成り行きでもある。
「大きくならはったのね」「女子らしうならはったね」
互いに言って、ちょっと照れる。二人とも、そろそろお年頃だ。それでも、幼い頃から知っている間柄に変な遠慮はなく、久しぶりに智次は心置きなく話ができた。時子もまた、久々の幼馴染に楽しそうだ。
夕暮れが近づき、智次は時子を送って山を下りた。
その後、度々二人が会った理由は、互いに居場所がなくなっていたからだ。智次には、平佐田と滋子の縁組は嬉しい限りだったが、時子には事情が違うようだ。
「ええお人や。ねーさんの尻に敷かれとる。心底、優しゅうて。だからこそ……」
自分が荷物になる、と時子は堪えていた涙を零した。
「今はお館様の元でせんせをしたはる平佐田せんせは、元々が本土のお人。いずれおいぬことになる。その時、お母ちゃんと病の妹をどないしはるか。病人を抱えての暮らしは難儀です。そやさかい言うて、ねーさんを残して義にーさんはしとりで本土へはいねへん。うちだけいなければ、姉夫婦はお母ちゃんを連れて本土へ戻れへんやろし、もしもお母ちゃんしとりやけ残っても、お母ちゃんには縁談が結構おます。婿はん持てば、島での暮らしもなんも問題へんやろう……」と、しゃくりあげた。智次は幼馴染の肩を抱き寄せる。さらに。
「ここは聖域。うちは、神様がうちを迎えてくれへんかと、ここで待っとる。けどな、ちぃとも来はらへん。うちは神様にも相手にされへんのやろか」
幾分か体調のいい日にここへ来る習慣は、智次が足遠くなってから続いていると言う。智次は居たたまれなくなって、
「ほな、儂が神隠ししちゃる」
時子の目を覗き込んだ。