正しくあるために
正しさが分からなくなった親友、優貴が人殺しをしていた。
神島一輝は偶然、腹部から血を流して怯えている、二人が通う高校の担任である飯島を優希が手にかけようとしている場面に居合わせてしまう。
わけの分からない出来事に硬直してしまい、ロクに言葉も発せなくなってしまった一輝は、目の前で優貴が飯島を殺すところを見せられた。
「悪は私の手で全て殺す」と言う親友を前に、一輝はそれを真っ向から否定をする。
親友と一緒に隣で歩き続けたいと願う一輝が、本来持っていた優貴の正しさを、日常から少しずつ取り戻してもらう、そんな二人の物語。
「人は、正しくないといけないんだ」
それは幼い頃からの親友がよく言っていた言葉だった。
それを実践するように、彼は彼なりの正しさを求めた。
時には、他人に注意され間違いを受け入れる人だった。
だから、きっとこの光景も間違いであって欲しかった。
雨の中、廃墟のビルへ入っていく親友を見かけた事が。
彼の手に握られている真っ赤に染まっているナイフが。
男性が、刺されたであろう脇腹を手で抑えている姿が。
そして何よりも。いつも太陽のように暖かくて、明るかったの彼、優貴の表情が、深海のように冷たくて、影を帯びていたから。
「一輝、どうしてここに?」
「こ、神島か! 頼む、助けてくれ!」
背筋が凍る。
平坦すぎる優貴の声に驚いた事もそうだけど、もう片方の声の主が、僕と優貴の担任、飯島だったから。
「なん……で?」
ようやく喉から絞り出た言葉がそれだけだった。
それでも彼は、優貴は僕の何を言おうとしているのかを理解してくれたらしく、いつもより粗雑な話し方で淡々と教えてくれる。
「この教師は裏で私達の学校にいる不良のイジメを黙認し続けた。そして彼自身も一部の生徒に対し、嫌がらせや自分の仕事を強要させていた。だから、こうして粛清している」
それ以上を語ることなく、優貴は先生を蹴飛ばして床に伏させた。
逃げられないよう、防がれないよう、うつ伏せの状態にさせてその上にのしかかる。
その衝撃で脇腹の刺傷から血飛沫が飛び散り、すぐに傷口を塞ぐように何かが盛り上がっているのが見えた。
「い〜〜〜あぁっ!?」
「うっ……」
廃墟ビルの一室で響く先生の絶叫が、雨音をかき消す。
しばらくして肺から空気が無くなって声も絞り出せないような状態にまでなった先生に、優貴はナイフを持ち直して飯島先生の首に狙いを定める。
「ま、待ってくれ夜神──」
「待たない」
水が弾ける音が僕たちがいる部屋で反響する。
しばらくビクンビクンと操り人形のように手足が不自然に跳ねるのを最後に、糸が切れたように手足が床に落ちた。
「うっ、おぇ……っ」
人が死ぬ姿を、人を殺す姿を初めて見た。
ツンとつくような臭いが鼻を掠めて胃液が込み上げてきた。無理矢理それを押さえ込んでゆっくり息をしようと意識したけど、余計に吐き気を催してしまう。
血は鉄の錆びた臭いがする、って聞いたことがあるけど、実際嗅いでみるとそんな事は無い。生温さを伴ったそれは、生ゴミを熟成させたような臭いだった。
我慢出来ず、その場で吐いてしまう。
ぜひゅ、という荒い呼吸がしばらく続いた。
どれくらいしていたかはわからないけど、息が少し整ってようやく他の事に意識を向けられるだけの余裕が出来たから優貴の方を見ると、僕に気を留めずどこかに電話をかけていた。
「──あぁ、よろしく頼む」
優貴が僕の方に向き直り、視線が合う。
その目にはまだ暗さが残ってはいるものの、少しだけいつも見ていた目に戻ってはいる、と思う。感覚でしかわからないけど。
「すまなかった。こんなところを見せてしまって」
少しだけ近づいてくる。いつもの様な迷いの無い歩みでは無く、少し遠慮するように。
「優貴……。どうして、こんな事を、いつから……」
言葉が詰まる。
何から聞けばいいのかわからない。
思考を巡らせようとしても、どうしても心がこの状況を受け入れようとしてくれないから整理がつかない。
「分かっている。ちゃんと話す」
本当に渋々、仕方ないから話す。そんな雰囲気を出しながら優貴は僕と目を合わせずに始めた。
「こんな事をしている理由だが、端的言うと一輝のような善人を護るの為だ」
「善人を……? それがどうしてこんな事が護る事になるの? こんなのって」
正しいはずが無い。
そんなの、僕よりも優貴の方が分かっているはずだ。
「もちろん、これが正しい事だなんて思ってはいない。それでも、飯島のような人間のせいで善人達が傷付くのが我慢ならなかった」
優貴も僕が言わんとしている事が分かっているみたいだったらしく、すぐに返答が来る。
「でも、それでも……っ、優貴がやっている事は」
「そうだ。私は間違っている。でもな、そんな事は初めて人を手にかけた時から分かっている」
「じゃあ、なんでっ! 分かってるなら、どうして今日までずっとやってたの!」
さっきまで合わせようとしなかった目に少しだけの影と確固たる覚悟を帯びさせ、正面を向いて僕と目を合わせた。
そして、彼は言った。
「──一輝を守る為だ」
…………え?
「去年の今日辺りか。うちの学校にいた、一輝に対して酷い仕打ちをしていた彼らを」
「……えっ、あ、うん。もちろん覚えてるよ」
ちょうどその頃、僕は同級生でガラの悪い三人グループに虐めにあっていた。
でも、それも数日で終わったんだよね。理由はよく分からないけど、そのグループの人達が一人ずつ行方知れずになって……。
まさか、そんなはず無い、よね? あれも優貴がやったなんて──
「あれも私がやった」
「──っ!」
「彼らは生かしておいてはいけない人間だった。だから、私がやった」
「……なんだよ、それ」
「……」
「ふざけないでよ! それが人を殺していい理由になるわけないでしょ!? それに、優貴ならもっと」
「他に何があるって言うんだ!」
部屋中に今までに聞いた事無いほどの優貴の怒号が響く。思わず身がすくんで言葉が途切れてしまう。
「彼らの学習能力は無いに等しい! 己の愉悦を満たす為なら弱者や一樹のような善人を虐げるような人に死を与えるよりも温いやり方で終わらせていいはずがない!」
優貴は止まらない。思いの丈が激流のように口から漏れ出てくる。
「だから私がやる。何度でも、悪人は見つけ次第手を下す。それが私の正義だ」
真っ直ぐに、いつも見ていた闇も影も感じさせない目を向けていた。
まるで、本当に自分のやっている事が間違っていないかのような、そんな目をさせて。
「……違う」
「何?」
「……そんなものは正しくなんかない」
「正しくない、だと?」
そんな考えを肯定させたまま、優貴から離れたダメだ。
なんとなく、優貴が遠くに行っちゃうような、そんな感じがしたんだ。
そんなのイヤだ。
もっと、君と一緒に隣で歩いて楽しい時間を過ごしたいんだ。
「優貴の言いたいことはわかった。それに関しては何も言わない。けど、それは正義であったとしても人として正しくなんてない」
「……」
「優貴。今君は自分を正義だと信じているよね」
「……当然だ。だからこそ、善人達を護るため」
「そう考えている時点で、僕は君を正しい人だと思わない」
「……どういう事だ?」
「優貴の言う正義と正しくあろうとする事はまったく違うってことだよ。自分を正義だと疑ってない人ほど、厄介で害悪な人はいないよ。優貴も知ってるでしょ? ネット環境が整ってる今の時代で、何が起きてるのか」
「……私と彼らが同じ、そう言いたいんだね?」
静かに首肯する。
「優貴はいつも言ってたよね。『人は、正しくないといけない』って」
少しだけ優貴が反応する。
それに構わず続ける。
「これが優貴の言う、人としての正しさだって言うなら僕は君を見限らなきゃいけなくなっちゃう」
部屋から少しの間音が無くなる。
優貴は俯いて前髪で目元が見えなくなっているから、何を思っているのかは分からない。俯いてるってことは多少なりとも悩んでくれている……と思いたい。
「なら」
ややあって、優貴は口を開いてこう言った。
「なら、一輝の言う正しさと言うものを一輝が教えてくれないか?」
「……え?」
「今の私は、何もかも分からなくなってしまっている。正しさを」
僕との距離を詰めて手を取ってきて、顔を上げて僕と目を合わせてくる。
僕の視界にいっぱいに入り込んできた優貴の顔には憤りか悲しみか、到底言葉に表せられないような表情が張り付いた顔があった。
それを見た僕は、優貴のその願いを──
「君の言う正しさを私に教えてくれ」
──断れるはずが、無かった。





