王妃の勤め
150年、長きに渡る戦争が終わり、獣人と人の住まう土地に平和が舞い戻ったことを祝う為に互いの王族同士を結婚させることにした。人族には獣人族の、獣人族には人族の花嫁が送られた。差別や恐怖の染み付いたふたつの国の関係の緩和を期待したその婚姻は一筋縄でいかず、婚姻から半年
獣人族に嫁いだ王女はただただ、義務感だけでそこで微笑んでいた。
「そう、これがこの国のやり方なのね?」
ひたりと、喉元に刃を添えられたような声が静まり返る広間に響く。
決して大きな声ではないはずなのにその声は末端の席のモノにまで届いた。
美しい調度品と食欲をそそる見た目の料理が並んでいるのに、食べかけのそれらを全員が気圧されたように手に取ることを忘れた。
「ええ、ええ。150年の長きにわたる獣人と私たち人間との戦争の中に生まれた差別、確執、憎悪に憎しみ。それはまさに筆舌に尽くし難いものだとは思うわ」
ゆらりと立ち上がり、1人の女性が上座から広間の獣人たちを睥睨する。億劫そうに手で肩を払うと木の実の食べかけのようなものが床に落ちた。
「人間の王妃が気に入らない?」
広間にいる1人1人を睨みつけながら少女とも言えそうなうら若き女性はシミの着いた綿のドレスを払う。このシミはこの国に嫁いだ時に夫である国王直々にワインをかけられた時に出来たものだ。その日から半年、半年間。屈辱に耐えてきた。
「憎き敵国の王女が、憎き人間の女が、高々薬の分際が、この国の次代の王を孕むことが気に入らない?」
淡々と語りかけるそれに誰も答えない。
その場にいる国王は何も言わずにただただ豹変した少女を見つめていた。
「国王は私を孕ませる気は無いわ。この半年、部屋に来たこともなければ指1本触れたことも無い。ええ、和平の象徴としてこれからの未来の象徴として嫁いで来たのを理解していないのかしら。体のいい人質とだけでも思っているの?」
半年、6ヶ月、184日。春に嫁いで、実りの秋になるまでの長い間、連れてきた侍女は返され、国から持ってきたドレスは捨てられた。唯一与えられたのは3枚の綿のドレスとやる気のない見張りの兵士。全ての行動は許可制で、何をするにも何かを言われる。部屋に篭ればお高く纏まっていると言われ、外に出て言葉を交わそうとすれば人間が媚びを売っていると蔑まれ、夫である国王に近づこうと思えば獣人の武器である鋭い爪を向けられて威嚇をされ槍を向けられた、半年経った今では子供の出来ぬ石女だと嘲笑を浴びる。
いつしか関わるのを辞めて笑顔だけを浮かべるようになっていた。
「蔑まれていても分からずニコニコと笑う白痴の女だと思っているのでしょう?石や木の実を投げ付けてもニコニコと笑うだけの心の壊れた馬鹿な姫だと思って蔑んでいたのよね?」
憎しみを、残すなと言われて育った。獣人を憎むなと言われた。憎むな、嫉むな、恐れるな、共にこの地に立って歩みゆく友だと、いつか嫁ぐその日からは愛すべき国民であり、自らの子だと思って慈しめ、彼らは敵ではないといっそ洗脳じみた教育を受けた。
「耐えるべきだと思っていたわ。人も獣人も、これ以上血と涙と恨みで大地を満たすべきでは無いと、神が仰ったのだから」
150年、長きに続いた戦争は大地を疲弊させ、空気を淀ませた。風は毒と怨嗟を孕み、獣人も人も疲弊しきっていた。
どれだけ疲弊していても人々は争いを辞めよう とはしなかった。長く争いすぎたのだ。武器を下ろした途端、相手に殺されるかもしれない、その疑心を拭うことは出来ず、どちらかが滅びるまで戦うしかないのかと絶望感が大地を満たしていた。
憎しみから、そしてその強靭な肉体から人間は獣人たちを使役魔法で奴隷に落とし、虐げた。
獣人はそれを怒ると共に、彼らの中のある重大な病が私たち人間をさらに追い詰める結果になったのだ。
獣人達には時折凶獣化といって獣同然の姿と知性になり、その能力を飛躍的にあげる代わりに理性を忘れ、己が死ぬまで暴れ回るしかなくなるという症状が起きる。
本人の身体を縛り上げて理性が戻ることを祈るのが今までのやり方だったが、時を遡ること148年前、戦争が始まって直ぐに、恐ろしいことが判明した。
純潔を保った若い人間の血を口にすると凶獣化が収まるのだ。
そして戦争と並行して恐ろしいものが始まる。
人間の軍は獣人狩りを、獣人の軍は人間狩りを始めたのだ。
それを誰がどう止めようと言うのか。
「昨日、賊が部屋で凶獣化をした時、国王陛下は私の血を飲んで凶獣が人間に戻ったのを見て本当だったのかと呟いたわ。私の血が薬になることを言ったのか私が純潔だったことを言ったのか分からないけれど、もう、いいの」
少女はぽつりと呟いた。
「私はもう、この国を愛せない」
美しい硝子で出来た杯を机にぶつけて割る。それを病的な白さの手のひらに握りこんだ。ぶつりと肌が切れる感覚がしてじわりと握りこんだ手が熱く、痛みを訴える。じわじわと溢れる血を飛ばすように王に向けて腕を振ると血液を媒介にして血色の鎖が王の首に巻きついた。
「何を!?」
ざわりと広間が揺れる。血色の鎖は使役魔法の特徴だ。遅れて国王と少女の周りを黒いモヤが形を持ったような魔法文字がまとわりつくように浮かんでは消えていく。
怒りと悲鳴の入り交じったざわめきが心地よく、少女は泣きながら笑う。
「ねえ、私の血が欲しかったんでしょう?誰よりも戦場を駆ける国王陛下は1番凶獣化されたら困るもの」
生贄に情を移しても意味が無いもの。そう口の動きだけで呟く王妃に何故か国王は傷付いたように目を見開いた。
それを理解出来ずに王妃は首を傾げて魔法文字で書いた条件を読み上げた。
「凶獣化時の身体のコントロール権譲渡、命令への反抗不可、自死不可、自傷不可、単独の反逆行為及び周りを扇動しての反逆行為不可能、自律行動可、無許可の接触不可、無許可での接触を試みた場合四肢をもがれる幻痛付与、その他私が罰を与えると言った時は痛み及び感覚の程度を指定し付与、周囲の獣人の私に対する加害行為に至ってはそれが心理的なものであり肉体的なものであり、私が知覚し指示をしたら国王自らの手で処刑。後から付け加えることもあるとは思うけどこのくらいでいいわ」
淡々と読み上げる度に魔法文字が国王に取り込まれていき、内部から食い荒らされるような痛みに悲鳴が漏れる。
使役魔法で奴隷になった過去がある何人かの広間の男たちが悲鳴をあげて震えている。
恐怖と怒りに満ちた広間で少女だけが平然として立っていた。
「なぜ、この魔法は女神に封じられていたはずだ!」
「……なぜ?」
宰相である象の獣人が叫ぶ。
どんなに力のある獣人もどんなに魔法が優れた獣人でも今の少女は止められない。
使役魔法の凶悪さのひとつに魔法を行使している途中に行使者を殺すと魔法がかけられている相手も死んでしまう仕様があるのだ。
そしてその魔法は戦争の締結とともに獣人が信仰する女神に寄って封印され、使用すると罰が下るようになっているはずだった。
「罰を与えられても怖くないもの」
少女は笑いながらドレスの袖をめくった。血色の鎖が繋がる右腕、そこに神聖文字で罰を表す文字が幾重にも巻き着くように刻み込まれ、血がダラダラと溢れている。
「だって、こうでもしなければ」
この国は誰も、守ってくれないでしょう?
少女の手には昨日襲ってきた刺客の少年を殺した時の、ごきりという感触がまだ残っていた。
「この血は毒になり、私は死ねず、私は風に見捨てられ、私が食べる食事は全て毒になる」
魔法が完成し、崩れ落ちる国王を後目に少女は自分の食事──とは言っても犬も食べないような残飯のようなそれを笑顔で食べた。
ただでさえ酷い味のそれを咀嚼し、飲み込む。胃の中がカッと燃え上がる感覚を覚えて口元を抑えた。
「う、かふっ……ぅ、え……えっ」
血反吐に混じってビリビリと舌を焼く毒物になったそれを吐き戻すもその苦しみすら喜びのうちだ。食道が焼け、そして痛みと共に再構築される。そう、女神に罰せられたということは確実に魔法が完成したということだ。
異様な少女の姿に再び広間が凍りつく。
「ふふ、みんな食事を続けていいわ」
王妃は、指の動きで着いてこいと国王に指示を出して広間から出ていった。罰の神聖文字から絶えず血を流し、口にした毒物で顔を真っ白にさせ、それでもなお美しく笑いながら。
「ここまで、この国を恨んでいたのか」
廊下を並んで歩いていると不意に国王がぽつりと呟いた。
「うらむ?」
「そうだろう!でもなければこんな、こんな酷いことをできるはずがないっ」
理解出来ないと言わんばかりに首を傾げる王妃に国王は激昴する。
戦場で幾人も敵を屠った男の、怒りの声も王妃には届かない。もう、手遅れなのだ。どうしようもないほどに彼女の心は壊れてしまったのだ。
「私は私の身を守っただけよ」
和平の象徴として、人と獣人の神に認められた結婚だった。神々の祝福と洗脳のような教育も相まってきっと愛し合えなくても慈しみ合えるようなそんな夫婦になれると思っていた。
だけど実際はどうだ人々は憎しみと怒りの目に炎を宿し、いくら歩み寄ろうとしても恨み辛みをぶつけるばかり。
夫である国王もそれを諌めずに逆に助長をさせる。
嫁いで半年、会話らしい会話はこれが初めてだった。
「この国を私は愛せないわ。でも私はこの国の王妃になってしまったんだもの。例え嫌われても、疎まれても、蔑まれても、憎まれても半年間、この国の税で生活したのよ」
例えこんなボロ服でもあんな残飯でも国民の血税。無駄にはできないと笑いかけながら王妃は半年間足を踏み入れることをしなかった王の執務室に足を踏み入れた。
「復讐なんてしないわ。育てるの。だって私はこの国の母になるべく育てられたんだもの」