同居人は夜の蝶
「――有岡くん、良かったらうちに住まないかい?」
「……はい?」
とあるきっかけから俺――有岡 湊≪ありおか みなと≫は、呑み仲間だった中性的な美女、都於郡 和紗≪とのこおり かずさ≫の家に同居することになった。夜間の仕事をしている、ということ以外、ほとんど謎に包まれている彼女。でもある日、仕事である雑誌の取材現場で――
「えっ……、あ、有岡、くん……?」
そう、彼女の秘密、それは――
まだまだ眠い平日の早朝。いつも通り仕事へと赴くため玄関を開け家を出ようとしたその瞬間、反対側からドアが開けられた。
「……あ、お帰りなさい、都於郡さん」
そこには、見慣れた顔の女性が一人。向こうもすぐそばに俺がいるとは思ってなかったのか、少し驚いた顔をしている。
「ただいま、有岡くん。いってらっしゃい、かな?」
俺――有岡 湊と同様、眠そうに瞼をこすっている彼女の名は都於郡 和紗。この家の主であり、約ひと月前に新居を探していた俺に同居を提案してくれた、中性的な見た目が印象的な女性だ。詳しくは知らないが夜間の仕事をしているらしく、同じ家で生活していても休みの日以外で顔を合わせることはあまりない。
「はい、いってきます。……あ、ご飯用意してますよ」
「いつも悪いね。……じゃ、夕飯は私が用意しとくよ。テキトーでいいかな?」
「ええ。都於郡さんの料理、なんでも美味しいですから。それじゃこんどこそ、いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
このように、お互いの夕食を出勤前に作り合う関係でもある。……もとは宿代の代わりに、と俺から始めたことだけど、気づけばお互いにやるようになっていた。
「にしても、気になる……」
珍しく朝に顔を合わせたこともあり、出勤中つい都於郡さんのことを考えてしまう。彼女との面識は一年程前からあるけれど、なかなか謎の多い人だ。なにしろ、未だに職業すら知らない程なのだから。
「ほんと、謎な人だ」
良い人なのは今さら疑いようもないけれど。けれど逆に言えばそれ以上のことは全くといっていいほどに謎に包まれている。そんな女性なのだ、都於郡 和紗という人は。
*
「おい有岡! ちょっと来てくれ」
「は、はい、編集長!」
呼びつけられ、編集長のデスクの前に早足で駆けつける。ここは都内の繁華街にある小さな編集社の一角。ここでは芸能人や政治家の真偽不明な……というかほぼでっち上げに近いスキャンダルや、風俗や出会い系なんかの怪しいネタを取り扱う、はっきり言って三流以下のゴシップ誌を作っている。本当は、ビジネス雑誌の編集者になりたくて入社したんだけど、悲しいかな現実は甘くなかった。
「お前、これの取材に行ってこい。本当は隣の席の奴に行かせるつもりだったんだが、どっか行っちまってなぁ」
言いながら企画書らしき紙を手渡される。えっと、“現役風俗嬢に聞く! 今ウケる男とは!?”だって……?
「なんですか、これ……?」
「そのまんまだよ。現役の風俗嬢に、どんな男が女子受けいいのか聞くのさ」
「いや、なんでまた風俗嬢に聞くことに?」
「そりゃ、うちの購買層を考えてだよ。――“風俗嬢”、この響きだけで食いつく奴は多いだろ?」
認めたくはないけど、編集長のその言葉には偽りも間違いも一切なかった。
「な、なるほど。……しかし、よくこんな記事の取材にOKを返してくれる人が見つかりましたね」
「まったくだよ。正直俺もそこの問題でお蔵入りにしようと思ってたくらいだからなぁ。ダメもとでアポ取ってみたらあっさりOKしやがった」
「……変わった人もいるんですね」
風俗嬢と言うのはその職業のイメージに反し、身持ちの固い人が多い。身バレの危険性もあるし、滅多なことじゃ取材に応じてはくれないんだけど……今回は珍しく例外を引けたみたいだ。
「相手は今日の20時を指定してきてる。……悪いが行って来てくれ。場所は例のホテルだ。頼むぞ」
「……了解です」
例のホテル。この雑誌の取材において、水商売の女性などと会う際に使うラブホテルのことらしい。なぜラブホテルなのかは知らない。普通のビジネスホテルとかじゃダメなんだろうか……。
「ああ、そういやお前こういう女相手の取材は始めてか! 安心しろ、別にヤバい女ばっかりじゃないからな。……それに、仕事を終わらせてしまえば、別にその女となにをするも勝手だしな、ガハハハッ!」
「そんなことしませんよ……」
ああ、そういう裏事情があってのラブホテル指定なのか……。なんか、あまり知りたくないことを知ってしまった。
……このやり取りで分かる通り、俺は今までの25年の人生の中で、一度も女性と共に寝たことはない。有り体に言えば、童貞ってやつだ。……本当に、全く向かない雑誌に配属されたもんだ。
「ま、そうか。せっかく女と付き合い始めたんだもんなぁ。浮気する気にはなれんか」
「……いや、だからそういう仲じゃないんですって」
「ははっ、照れんなって! 別に女と同棲するくらい普通じゃねぇか」
会社の都合で引っ越したという事情もあり、俺が都於郡さんの家に住まわせて貰っている事は会社でも周知の事実だ。……だが、どうにも周囲の人たちには勘違いされているみたいだ。まあ、同じ家に住んでるのは確かだし、そう思う方が自然なんだろうけど。
*
話は、ひと月ほど前に遡る。
元々、俺と都於郡さんは呑み仲間みたいなものだった。
「やあ、有岡くん。……珍しいね、こんな早い時間にここに来るなんて」
「さっきまで取材してたんですよ。なんの収穫もなかったんで引き揚げましたけど」
「ふふっ、それでヤケ酒かい?」
「まあ、そんな感じです」
仕事終わりに会社近くの小さな居酒屋で一杯。これといった趣味もないため、このところ結構な頻度で訪れている場所だ。都於郡さんとは、こうしてカウンター席に隣り合わせで座り、酒を飲みながら色んなことを愚痴り合う仲だった。初めてこの店に訪れた時、偶然隣に座っていたことから始まった、常連同士の少し変わった友人関係だ。
「そういえば、引越先は見つかったのかい?」
「いえ、それが全然で。……はぁ」
「まあ、時期が時期だからね。でも、そろそろまずいんじゃなかったかい?」
この頃の俺は、都於郡さんに言われた通り引越先を探していた。理由は単純で、入社以来ずっと住んでいた社員寮が老朽化を理由に取り壊されることになったためだ。当然工事の前までに引っ越さないといけないが、そう簡単には見つからないのが現実だった。なにぶん薄給な身なので、あまり高い家賃の物件には手を出せないのだ。
「ええ、まあ。これはいい加減諦めるしかないかなぁ……」
引越しの期日までひと月を切ってるし、流石にもう選り好みできない。心底嫌だけど、築五十年もののボロアパートへの引越しも覚悟するしかなさそうだ。
「はは、お困りの様子だね。……そんな有岡くんに、一つ提案があるんだけれど、聞くかい?」
「――聞きます」
思わせぶりな発言だが、悩むなんて選択肢はないも同然だ。俺はそう判断し、その発言に即答で返した。
「まあそんな大層な提案じゃないさ。――有岡くん、良かったらうちに住まないかい?」
「……はい?」
「あれ、ひょっとして嫌かい?」
いやそういう問題じゃなくって。もっと根本的な問題があるのでは……?
「嫌とかじゃなくってですね。……その、一応は俺も男なんですけど」
「はははっ、そんなことか。私はキミのことをとても信頼してるからね。キミの頭にあるような心配は、何もしてないさ」
いや、それはそれでちょっと傷つく……。ひょっとして俺、男と思われてないのかな……。
「そもそも、都於郡さんの家って……」
「一軒家の一人暮らしさ。祖父の別宅を使わせてもらっているんだ。部屋は用意できるし、家賃や光熱費を貰うつもりもない。なにせ、私も払ってないからね。――どうする?」
「……よろしくお願いいたします」
まあ、こんな好条件、どれだけ探したって見つかる訳がないし。……かくして、俺と都於郡さんの同棲生活が始まったのだった。
*
「さて、そろそろかな……?」
時刻はもうすぐ20時。そろそろ取材相手が指定した時間になろうとしていた。
「……どんな人なんだろうな」
編集長からは相手の素性はほとんど教えてもらってない。容姿も年齢も、もちろん性格も何も知らない。唯一知っているのは、「和紗」という源氏名のみ。……結構人気な風俗嬢らしく、この業界ではそれなりに有名な人なんだとか。
「しかし、まさか……。いやまさかね」
和紗という名前には聞き覚えがある。都於郡さんの名前だ。まさか本名をそのまま源氏名にする人なんている訳ないし、偶然の一致だと思うけど……。
「そもそも都於郡さんが風俗嬢なわけ……ないよな?」
否定材料はないけど、あの人がそういう仕事をしてるイメージも浮かばない。……って、変な想像するな俺。都於郡さんに失礼じゃないか。
――コンコン
「来たかな。……はいっ、今行きます」
早足で扉へ近づく。少しだけ息を整えてから、ゆっくり扉を開ける。
「はい、今日はどうもよろしくお願いいたしま――」
「えっ……、あ、有岡、くん……?」
そこには、俺の顔を見て啞然としている女性が一人。見覚えのある顔立ちで、聞き覚えのある声をしている……気がする。
……いや、嘘でしょ。さっきの変な妄想が引き起こした幻覚と幻聴に違いない。
――バタンッ。
という訳で、一旦扉を閉じる。……でも、扉の向こう側の気配は、無くなることも、変わることもなかった。
「……有岡くん? どうしたんだい?」
どうやら、さっきの光景は現実らしい。なんだって当たって欲しくない予想ばかり当たるかなぁ……。
気を取り直し、閉じた扉を再度開ける。……やっぱり、何度みても結果は変わらない。
――そう、そこに居るのは間違いなく、都於郡 和紗その人だった。