喪心の魔術師と蒼刃の付喪神
仄木凪は一般的な大学生だった。
そんな彼の生活は大学入学してひと月ほどで脆くも崩れ去った。魔術師同士の争いに巻き込まれ、人質にされたあげく、妖刀を心臓に突き刺された。
自身につきたてられた蒼く美しい刃の妖刀との契約によって命を拾った彼だったが、魔術の道に関わったために、魔術師になるか、妖刀との契約を捨てるかを要求される。当然、命を捨てることができなかった彼は魔術師の道を志すが、魔術の世界の厳しさが彼に容赦なく牙を剥く。師匠は魔術の修行と別に、大学にきちんと通って卒業することを求める。果たして彼は一人前の魔術師になれるのか。
これは最高の守護者と最悪の相棒の物語、もしくは思ったより世知辛い現実を知ることになる学生の現実のお話。
仄木凪は一般的な大学生だった。
入学して1ヶ月の間は、という注釈が付くが。不幸な事故から彼は心臓を貫かれ、悪霊じみた付喪神に取り憑かれ、日本刀を手放せなくなった。今後は表向きの仕事とは別に魔術師として働く必要があると師匠に告げられた。今までの常識の全てが崩れ去り、全うな、一般的な生活や日常には戻れないと告げられ、落ち込み、悲嘆しなかったかと言えば嘘になる。
しかし、その上で何でもないように彼はこう語る、
「まぁ、間が悪かったのさ」
と。
古道具店“白樺”はよく休む店として有名だった。そのことは仄木凪もよく承知していたし、通りかかった際に開店していれば珍しいとも思っていた。だから店主が自分と歳近い見た目の女性であるとは知らなかったし、彼女がかなりの美人であるということも知らなかった。
それ以上に彼女が魔術師などという非常識な存在であり、“白樺”の店の奥で彼女と二人で紅茶を飲む機会があるなど想像したことすらなかったことである。
「師匠、少し聞きたいことがあるんですけど」
「はい、なんでしょう」
紅茶を飲みながら、凪は尋ねた。口の中に爽やかな香りが広がり、落ち着いた心持ちになる。
「師匠の名前ってなんて言うんです?」
「あれ、名乗っていませんでしたか?」
自身を師匠と呼びながら名前を知らないなどとは彼女も想像できなかったのか、彼女はやんわりと笑いながら答えた。
「白香波美鳥です。白く香る波に美しい鳥と書きます」
シラカバ、シラカバ、と口の中で何度か反芻すると、凪はわかりましたと頷いた。その様子を見て美鳥はティーカップをソーサーの上に置き、凪に尋ねた。
「では、凪くんに改めて聴きます。貴方はその妖刀蒼鳴と契約して、魔術師の道を志すということでよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
その返答に不満があるかのようにテーブルに立て掛けられていた日本刀がカタカタと音を鳴らす。
「まぁ、戦いとなれば面倒を見られるのは俺になるわけですが…」
「そうでしょうね」
美鳥が笑いながら答え、満足したかのように日本刀…妖刀蒼鳴と呼ばれたそれも振動を止める。
「では、今後のことをお話ししましょう」
「師匠、その前に一つお願いが」
「なんですか?」
凪は少し困惑したような、話しにくいことを話すような顔で、美鳥に尋ねた。
「可能かどうかはわからないんですけど、蒼鳴も同席させたくて。できますか?」
「可能ですけれど、またどうして」
こいつの人となりを知らないんですよ。そう続ける凪の顔は真剣そのものであった。
「そうですね、人格を持った魔道具とはきちんと対話をしておくべきでしょう」
今なら、何かあっても私が対応できますし。そう言うと美鳥はどこからか鏡と本を数冊持ち出してきた。分厚い本を机の上に積み上げると、凪にも見えるように鏡を立てかける。
「これは”心写しの鏡”というものです。準備しますので一度、鏡の縁に手を置いてください」
おとなしく従った凪の右の手の上に更に美鳥の手が重ねられる。妙齢のそれも美人の手が重ねられたことで凪は視線を逸らした。美鳥が何事か呟き、軽い虚脱感が一瞬凪の身体を走り抜ける。
「では蒼鳴を抜いてください」
「はい」
なんの気負いも迷いもなく凪は刀を手に取って、引き抜いた。
「やはり」
「師匠。何か言いましたか?」
気にしないでください、と美鳥は手を振った。何か言ったことは確かだ、という好奇心はせり上がるような吐き気によって無理やりに剥ぎ取られる。
『へえ、当代の魔術師殿はそういうことができるのかい』
何処からともなく、否、机上の鏡からはっきりと声が響いた。
「はい。本来は自白を強要させるためのものですが」
『そいつぁ、物騒な』
「そこは柔軟に応用を。これでも優秀な魔術師なんですよ、私」
『そりゃあいい。ワタシの使い手の師匠が強いってのは、良いことだしねぇ』
人を食ったような笑い。思いほか、話の通じる相手で良かったと美鳥は胸をなでおろす。
「さて、凪くん。大丈夫ですか?」
俯いたまま黙り込む凪に問いかけた。
短く不自然な沈黙ののち凪が答える。
「はい、特に問題は」
一瞬部屋を確かに包んだ不穏さが嘘のように朗らかな答えだった。それを見て、得心したような笑みを美鳥は浮かべた。
『おい、ワタシの使い手よ』
そこでようやく凪は鏡を覗き込む。
そこには椅子に座り、右手に抜身の日本刀を構えた女性が凪を見返していた。自身と全く同じ服装、構図で存在する別人の姿に凪は目を丸くする。美鳥を柔らかな温かみのある美人とするのなら、彼女…蒼鳴は怜悧なまさに刃物のような美人である。そう凪は認識した。
「じゃあ君が」
『おう、妖刀蒼鳴だぜ、仄木凪殿よ』
「そうかよ、命の恩人」
意地の悪そうな笑みを見せる蒼鳴に、凪は気にした風もなく笑みを返した。
「君は俺の命を救った」
『まあ心臓を貫いたのもワタシだがな』
「いや、それは君じゃない。あの、久路上とかいう魔術師だ」
仄木凪は大学で知り合った者たちにも柔らかな雰囲気を崩さない印象を与えている。いわゆる怒った姿が想像できないとされる類の人物である。
その凪が鋭く冷たい空気を纏っていた。見知った人間でなくても明らかに機嫌が悪く、腹を立てているのが見て取れる。結果的に死ななかったとはいえ自身の心臓を貫いた相手に悪感情を抱かない人間がいるはずないのだから当然だが。
「だから俺は君に一つ借りがあると言える」
自分が良くない気配を振りまいたことに気がついた凪は語気を和らげ、冷たい空気を引っ込めた。鋭さはそのままであるあたりが、彼の怒りと未熟さを表していた。
「ゆえに俺は君との契約を切らない。師匠の弟子として魔術師として生きる。そしてその覚悟はできている。刀には使い手が必要なんだろう?」
初めて蒼鳴を抜いた時、彼女自身が告げたことだ。妖刀といえど刀である以上その柄を握り刃を振るう者が必要である。
「その上で蒼鳴、君に尋ねよう。君はなんの為に刀として働くんだ?」
『戦うため。あらゆる敵を討ち果たすため』
剣呑な雰囲気が流れた。これでは不十分か、と蒼鳴はため息をひとつついてから続けた。
『そして、使い手殿、お前を守るためさ』
「なら俺は君に相応しい使い手であれるよう努力しよう」
嘘はない、すべてが事実ではないだろうが。そう判断し凪は微笑んだ。
「凪くん。これで、蒼鳴の許可は取れたわけですが。今後の方針について説明させて頂きましょう」
その言葉に蒼鳴は興味なさげに、凪は居住まいを正して…正そうとして蒼鳴の本体である日本刀の置き場に困りとりあえず、膝上に乗せてから首肯した。
「とりあえず、うちのアルバイトとして雇われてください。基本的には毎日うちに来て頂きます。最低限蒼鳴と上手く合わせられるようにならないとどこで暴発するかわかりません。あとバイト代はたぶん、殆ど出ません」
凪の顔が曇った。一人暮らしで仕送りで暮らしている、貯金の殆どない大学生にはわりと問題だった。そんなことは意に介さず美鳥は続ける。
「それに魔術師としての基本的な知識も学んで貰います。そのうえで大学にはきちんと通い、全うに大学生活を送ってください。というかちゃんと卒業してくださいね」
「随分やることが多そうですね?」
「人生を二つ同時に送るのですから当然でしょう」
魔術師としての稼ぎは大体魔術師家業に消える。なので人間として生活するためにはきちんと表向きの全うな人生が必要だと、美鳥は語った。現代の魔術師は大概、何か別の、普通の仕事と二足の草鞋を履くのが基本であった。当然、美鳥自身も古道具店の収入で生活している。店を開けなくてもインターネットでの取引と配送で商売ができるのでだいぶ楽な時代である。
「一服しても?」
突然、美鳥は凪に尋ねた。
「構いませんけど…」
美鳥は暫くの間煙草を燻らせる。匂いとともに緊張感が場に広がっていくのを凪は感じ取った。蒼鳴もいつの間にか真剣な面持ちでこちらに注目している。
「前提として、私は魔術師としての凪くんの面倒はすべて見ましょう。一人でも生きていけるように、そうですね、できれば大学在学中には一人前になって頂きたい」
凪の目標をはっきりと美鳥は示す。このレベルになれないのなら魔術師を目指すだけ無駄であると彼女は告げていた。
「そして」
しっかり聴いてください、と美鳥は言外に言う。
「もし凪くん、もしくは蒼鳴さんが他人、特に非魔術師に被害をもたらす存在になる。なった、なりそうであると判断したら」
はっきりと迷いない目つきで。
「処断します」
いざとなれば殺す、と。
煙草を消しながら白香波美鳥はそう宣言した。
「仕方ないことです」
当然である。蒼鳴はどう言おうと妖刀だ。血に飢える人斬り包丁なのだ。それを御すことが凪の使命であるといっても差し支えない。それができるのか、という自身はない。暴力的な蒼鳴の姿を凪は一度ならず見ていた。
「あ、後でSNSのアカウント教えてください。連絡に使いますので」
さっきまでの緊張感が嘘のようにほどける。
「えっと、なんかそういう魔術とかは」
「文明の利器に頼れる部分はガンガン頼った方がいいですよ」
「え」
「車の免許も在学中に取った方がいいと思います。よく遠出しますし」
「あの」
「運転手が増えると楽なのでそのためならバイト代弾みますよ」
「あっ、はい」
『大変そうだな』
とりあえず凪は紅茶に口をつけた。
すっかり冷えていた。