論文と引きかえに漫画の監修をしたら、胃袋つかまれていました
白霧柚鈴は小児科医。担当の患児の病気の治療法がなく、悩んでいたところ、偶然その病気の医療漫画を見つける。
編集部から漫画の作者の住所を聞き出し、治療法を求めて会いに行くが、最初は面会を断られる。
治療法が知りたい白霧に、大学生で漫画家でもある黒鷺雨音が取引を提案する。
帰国子女で日本文化に疎い黒鷺は、発表されたばかりの治療法の論文と引き換えに、漫画の監修を白霧に依頼する。
こうして手に入れた論文に書かれていた治療内容は、高難度の手術。今の白霧では、知識も技術も経験も足りない。途方にくれる白霧。そこで黒鷺が発表前の論文を入手し、漫画に描けた理由を、美味しい手料理とともに明かした。
「それ、先に言いなさいよ!」
白霧は秘密兵器を手に、手術へ挑む。
そんな女医と男子大学生との、仕事とご飯と恋のお話。
子どもの頃、どんな大人になりたかった?
窓ガラスに映った自分と目が合う。当直明けで疲れた顔。最低限の化粧。肩で一つに結んだ黒髪。着なれた白衣。
不満はないけど、なにか物足りない。
冷房が効いた廊下を歩いていると、看護師たちの声が耳に触れた。
「彼氏と喧嘩して、朝から気分最悪」
「えー彼氏がいるだけ、いいじゃない」
「でも、いたら、いたで面倒なのよ」
うん。なんとなく分かる。
あくびを噛み殺して、相づちを打つ。そこに、外来の処置室から呻き声が。思わず耳をふさぐ。
「帰って寝るの」
と言いつつ、処置室を覗いてしまう。私の悪い癖。
そこには、顔を歪めて点滴をしている患者がいた。ため息をこぼしながら、看護師に声をかける。
「ちょっと、いい? この人は?」
「あ、ゆずりん先生。この患者は、熱中症と脱水疑いで、先ほど救急搬送されてきました」
私はニッコリと微笑んだ。
「私の名前は、白霧柚鈴。ゆりだから。あと、点滴を止めて。新しい点滴の指示を出すわ」
「ですが、ゆずりん先生は小児科……」
「なまえ」
笑顔で黙らせる。同時に、パソコンに新しい点滴の指示を入力っと。
「それ、維持液系の点滴よ。細胞外液系の点滴をしないと、脱水は楽にならないから。林先生にも困ったものね。適当に点滴の指示を出さないでほしいわ。よし。あとは、お願いね」
「は、はい」
「じゃあ、私は帰って寝……」
無情な緊急コール。
愛しのベッドが……
心の中で嘆きながらも、手は携帯を取り出す。
『白霧先生! 灯里ちゃんが、また痙攣を……』
「痙攣時の指示の薬を注射して。すぐ病室に行くわ」
エレベーターを待つ時間も惜しい。
廊下を抜けて、階段を駆け上がる。切れる息を整えながら、小児病棟へ。一人部屋に、十歳の少女が寝ていた。
少女の側にいた看護師が報告にくる。
「痙攣は二分ほど。注射をして、すぐに治まりました」
「ありがとう。あとで追加の指示を出すわ」
「はい」
看護師が退室する。私は枕元に腰を下ろして、少女と視線を合わせた。
「灯里ちゃん、痛みとか痺れはない?」
「大丈夫」
「ごめんね、なかなか治せなくて」
肩まで伸びた髪を撫でると、灯里は首を大きく横に振った。
「ううん。先生は、わたしの話を聞いて、病気を見つけてくれたもん。他の先生は、気のせいとか、嘘だ、とか言って信じてくれなかったけど、先生は違った。だから、先生なら治せるよ」
「そうね。秋には、もう少し良くなって、遠足に行けるようになろうね」
「遠足!? 行けるの!?」
灯里の目が太陽のように輝く。小学生にとって遠足は、重要な行事の一つ。できれば参加させてあげたい。
「秋はバス遠足だったよね? 学校の先生と相談してみるわ」
「やった! 約束ね!」
「えぇ」
小指を絡めて約束をする。この笑顔を消したくない。なんとかしたい。
指を離すと、灯里がなにか言いたそうに見つめてきた。
「どうしたの?」
「あのね……さっき痙攣が起きたこと、パパとママに言わないで。言ったらお仕事で忙しいのに、心配して病院に来ちゃう」
「言わないわけには、いかないから……痙攣はあったけど、お薬ですぐに良くなったから、心配しないでくださいって伝えるわ」
「うん……」
「灯里ちゃんは優しいね」
頭を撫でたら、避けるように灯里が布団に潜り込んだ。泣くのをこらえるような、微かに震えた声がする。
「だって、わたしが悪いんだもん。こんな病気になったから……だから、我慢しないといけないんだもん」
「そんなことない! 灯里ちゃんは悪くないの。悪いのは病気なんだから」
「でも、私が悪い子だから、病気になったんでしょ?」
「そうじゃないの。灯里ちゃんは何も悪くないのよ」
「じゃあ、どうして……」
私は答えられなかった。
まだまだ遊びたい盛りで、甘えたい時もある。そんな子どもが、親に心配をかけないよう、一人で病気と闘っている。病気を自分のせいにして……
それなのに、私は治療法も見つけられず、言葉もかけられず……
「……また、来るね」
自分の無力さに打ちひしがられ、逃げるように病室を出る。足が重い。廊下が長い。消毒の臭いが鼻につく。蝉の声がうるさい。
パァン!
両手で自分の頬を叩く。痛みで目が覚めた。
「灯里ちゃんだって、頑張っているんだから。落ち込んでいる場合じゃないわ! 精神ケアの指示を出して、もう一度文献を調べて。薬の効きが弱くなっているから、薬の内容も見直して」
荒い歩調で医局へ移動する。
その途中。プレイルームに落ちていた、月刊漫画の表紙が視界を掠めた。白衣を着た若い医師の絵。その見出しには、頭を悩ましている病名が。
「嘘でしょ!?」
漫画に飛びつき、半信半疑でページをめくる。病気について、分かりやすく丁寧に解説してある。しかも、漫画の主人公が治療法を思い付いたところで、次号へ。
「次! 次はどこ!?」
プレイルームの本棚を探し回るが、次号はない。もう一度、漫画を手に取り、発売日を確認する。その日付に、頭をかきむしった。
「昨日!? でも病気について、ここまで描ける人なら、治療法も……」
漫画を持って医局へ戻り、編集部に電話をした。
「突然、失礼します。私は……」
状況を説明し、作者と話したいと懇願する。本物の医師であることを証明すると、特別に作者の住所を教えてもらえた。
※※
木と花に囲まれた庭と洋館。子どもの頃に憧れた、海外のお城のミニチュア版そのもの。
こんな洒落た家に住んでる作者って……もしかして、オシャレなイケオジ? そんな人に、私の話を聞いてもらえるの!? いや、弱気になってる場合じゃない!
ドアの横にあるインターホンを強く押す。すると、若い声が返ってきた。
「あ、あの、編集者の間さんより紹介していただいた、白霧です」
『はい』
ブツ。
乱暴に通話を切られた……気がする。
手に汗を握り、ドアが開くのを待つ。大学受験も、医師免許の試験も、ここまで緊張しなかったのに。
ガチャリと音がしてドアが開く。
緊張のあまり、相手の顔を見る前に頭を下げた。
「初めまして。小児科医の白霧と申します。実は、どうしても相談したいことがありまして……」
相手からの反応はない。
「あのぉ……」
顔を上げると、立派なペストマスクが迫ってきた。
「え……?」
固まった私に、ペストマスクが一言。
『断る!』
「待って!」
素早く足を突っ込み、ドアが閉まるのを防ぐ。我ながら、良い動きをした。挟まれた足は痛かったけど。
「話を! 話だけでも……」
隙間に手を入れて、ドアをこじ開ける。
そこで突然、世界が揺れた。当直明けの疲労に、極度の緊張と激しい動きが重なり、血圧が下がったらしい。意識が薄れる。
倒れたらダメ。治療法が、手がかりが……
『おい』
遠くで呼ばれた気がした。倒れかけた体が何かに支えられる。けど、そのまま倒れた。
全身に響いた衝撃で意識が戻る。地面に倒れたはずなのに、体の下は柔らかく生暖かい。目を開けると、声がした。
「いてて……」
体の下には、二十歳ぐらいの青年。
艶やかな黒髪に、色素が薄い茶色の瞳。少し日本人離れした顔立ち。うん、女の子にモテそう。
しっかりとした体がクッションになって、私に痛みはない。ペストマスクは、青年の頭の上に落ちていた。
顔を上げた私と青年の目が合う。そこで、意地悪く笑われた。
「おねぇーさん。イタイケな大学生を押し倒すのは、良くないと思うけど?」
「ふぇ!? お、押し倒っ!?」
一瞬で顔が沸騰する。慌てて飛び退くと、青年が面白そうに目を細めた。遊ばれているようで気分が悪い。
無言で睨みつけるが、青年は気にした様子なく、私を玄関に座らせた。そういえば、倒れた時も庇ってくれたし、実は優しい?
探るように顔を覗くと、青年はプイッと顔をそらした。
「また、倒れたら困りますから。で、漫画家の黒鷺に、どんな話があるのですか?」
「あなた、黒鷺先生の知り合い?」
「身内です」
身内かぁ。とにかく、作者に会わせてもらわないと。
「私は黒鷺先生が描かれている、漫画の病気の治療法について、話が聞きたくて来たの」
「どうして?」
「私の患者が同じ病気で、治療法がなくて困っているから」
「聞いてた通りか。ちょっと、待ってて」
青年が廊下の奥へ行き、数枚の紙を持ってきた。
どうぞ、と渡されたのは、日本語訳が書かれた英語論文。冒頭を読み、息が詰まる。
「これ、いつ、どこで発表されたの!?」
「一昨日かな。治療の参考になると思うよ。これで、あなたの問題は解消された。はい、さようなら」
青年が私の背中を押して、玄関から追い出そうとする。
「待って! 一昨日、発表された論文の内容を漫画に描くには、日数が足りないんじゃないの!? とにかく、黒鷺先生と話をさせて!」
青年が手を下げて、ため息を吐く。
「厚かましいって言われません?」
「厚かましくてもいいの! 必要なんだから!」
「ふーん」
青年は少し考えた後、手招きをした。
「じゃあ、ちょっと話をしましょうか」
「だから、黒鷺先生と……」
「黒鷺雨音。僕が作者ですよ」
「え?」
この性悪青年が!?
目の前が揺れた気がした。