怨毒実行者
二十代前半と思しき女がステーキを手づかみで貪っている。
俺は一体何を見ているんだ?
認知症により手づかみで食事をする患者がいたとする。その原因だが、専門家によると指の筋肉が衰弱し箸の使用ができなかったり、『箸』という物体を認識できず『仕方なく』手で食べるケースがあるという。つまりは老化と認識力の低下。
祖母の家で暇つぶし程度に読んでいた介護の専門者の知識が、数年の時を経た今になって役立つとは夢にも思わなかった。
もちろん年代に関わらず認知症になる患者はいるだろうが、己の見た目を最大限に発揮させたであろう女の化粧を見る限り、その症状は全く認識できない。
女はスーツの袖を捲り上げて、ステーキソースと肉汁で両手と口の周りを茶色に染めていった。それは『汚らしい』というより、ライオンの如く命がけで仕留めた獲物を血塗れにしながら食する行為を見ているようだった。つまりは『生物の本能』とでも表現しようか。
「どうしたの? アンタも食いなよ」
女の切り分けられていないサーロインステーキを半分程食した頃、目線をチラリとこちらに向け独特なしゃがれ声で話しかけてきた。俺の目の前には女と同じようにジュウジュウ音と煙を立てながら、鉄製のステーキ皿に乗せられている肉が食べられるのを待っていた。
「早く食わないと冷めて不味くなるぞ」
俺が何も発言しないので、女はもう一つ言葉を付け加える。いや、不味くなると言われても……
熱くないのか?
店員から俺と女、ほぼ同時に配膳され、紙製のおしぼりで手を拭いた直後、フォークやナイフを持つことなく肉へと手を伸ばしたのだ。
しかし周りの客や店員は女のことなど気にも留めず、各々の作業や会話に精を出していた。お節介ババアとまではいかなくても、誰かしら『行儀悪い』と叱るべき場面にも関わらず、だ。
どうしてこんなことに……
俺は奇妙な世界に踏み入れてしまった事を現実逃避するよう過去へと思考を逸らした。
…
……
『〇〇川の水面。日の反射が目に滲みる』
手に持ったスマホでSNSにそう言葉と画像を残すとジーンズのポケットにねじ込んだ。
どうせ俺の投稿なんて誰も反応しないさ。一年前から毎日続けても片手で数えるほどのフォロワーしかいないからな。
承認欲求を手軽に手に入れるにはSNSが一番だ。
どのサイトにしろ『いいね』ボタンが存在する。投稿者はその数を競い自分をより良く見せようとする。
しかし、閲覧者は本当にお前を『いいね』と思っているのか? 会社、学校、バイト先の先輩後輩……付き合いで押す者も少なくない。ネットくらい上下関係なくても良いんじゃないか?
まぁ、社会不適合者の俺が言っても説得力皆無だが。
俺の座ったベンチの前を運動着を着た学生の集団が駆け足で追い抜いて行く。夏のむせ返る暑さが落ち着き、エアコンを起動する機会のなくなった頃。炎天下から解放されたのだろう、学生の表情もイキイキしているような気がする。
学生かぁ……
俺の学生時代に『青春』という二文字が存在しない。恋愛は愚か友情すらも。部活も教師や親の意見をのらりくらりと躱し帰宅部を貫いた。
中学当時154cmと女子並みの身長に、体重48kgというガリガリ体型だった。顔がイケメンならば恋愛対象として見られないものの好感は持てるはずだ。
しかし父のニンニク鼻と母のホームベース顔の遺伝を受け継いでしまい、その見てくれをからかう者がほとんどだった。
運動も勉強もまるでできず、クラスのお荷物状態で疎まれることが多かった。
俺自身の能力ももちろんだが、一番からかいの対象になるのは名前だった。
何故ならば……
「鎌手錠……だな?」
突然第三者に名前を呼ばれ体がゾクリと反応する。そうだ。中学の頃両親が離婚し、母親の姓を名乗ることになったためだ。鎌手……『構ってほしいのか』と言われ、手錠のおもちゃで拘束されるのも一度や二度ではない。いや……そんなことより……
「『どうして名前を知ってるのか……』と言いたげだな」
立て続けに尋問され、俺は初めて対象の人物を視野に入れた。中肉中背の女。パンツスーツを身に纏い、髪型はショートカットだ。挙動不審な俺の様子を見て女は血色の悪い顔でニヤニヤと笑っている。
「まぁ、立ち話もなんだし、飯でも食いに行こう。もちろん金はこっちが出す」
女のくせにおしとやかの『お』の字もない奴だ。初対面にも関わらず馴れ馴れしく話しかけやがって。
俺が石像のようにジッとベンチから動かないのを悟ったのだろう。先を歩く女は一旦立ち止まり、俺の方に笑顔を向けた。
「三日も腹を空かせているんだろう? サーロインステーキだ。アンタの給料じゃ手が届かないんじゃないか?」
「……どうして」
「だからそういう事も詳しく話すって言ってるんだよ。さっさと付いて来い」
そう言い残すと女は自分のペースでスタスタと歩き始めた。……なんなんだよ。俺が日雇い労働者だからってバカにしているのか?
女の元へ行きたくないと思う反面、俺の腹の虫は無情にもグルグルと情けない悲鳴を上げた。ステーキなんて高校の時に一度きりしか食べた事ない贅沢品だ。……どうする?
俺は自分の意志の弱さを嘆いた。ジーンズのポケットにねじ込んだ小銭のみの財布が憎くてたまらない。重い腰を上げると、先ほど見た学生のような駆け足で女の元に向かった。
…
……
女は『ノコ』と名乗った。苗字を尋ねても『必要ない』と言うばかりで今は放置する事にした。
店員からステーキがテーブルに置かれた途端、女の奇想天外の食べ方に驚いてしまったが、自分自身がフォークとナイフで切り分けたステーキを口に運ぶと、クソのような世界が輝いて映った。それは生きてて良かったと思う程に。
セットのライスとスープまで完食するまでの間、ノコは次々とステーキを注文し素手で食らいついていた。俺がしばらく呆然としていた時間も合わせると約三十分で枚数は五枚にもなる。
俺が両手を合わせ食後のあいさつをするとノコも食べる手を止め、口の周りと手のひらの汚れをおしぼりで拭き取った。
「あー、食った。アンタも満足したか?」
「え? あぁ、まぁ……」
「驚かせてしまって悪かった。アタシはあの食べ方じゃないと落ち着かなくてね」
落ち着かないからと言ったって、幾ら何でも礼儀というものがあるだろう。しかしノコは俺が反発をする間も与えないまま言葉を続けた。
「さ、食事も済んだところで、本題に入ろうか」
「本題……ですか」
「タメ口で構わないよ。鎌手、アンタには殺したい奴がいる。間違いないな?」
唐突な発言に俺は思わず、飲んでいた水を勢いよく吹き出した。そんな中でもノコは道化師のような気持ち悪い笑顔を貼り付けたまま眉毛ひとつ動かしていない。……何者なんだこいつは。
「その様子だと本当のようだね。いやー、SNSで馬鹿正直に書く奴の反応って面白いよなぁ」
「え、SNS?」
「そうだ。やっているだろう? どうでもいい事をツラツラ並べ立てて楽しませてもらってるよ」
店員に手渡されたおしぼりでテーブルを吹いている間、さらにノコは核心を突く。俺のSNSを見ているって事は……
「アタシはアンタのフォロワー。しかも初期からのね」
「どうして俺があの河原にいたとわかったんだ」
「そんなの投稿している画像を検索すれば一発さ。現代の技術をナメないで欲しいね」
背景に建物が映らないよう気をつけていたが、わかる奴にはわかってしまうのか……
「話題を戻そう。アンタには殺したい奴がいるか?」
「そんな物騒な事言えるわけないだろ」
「ここは会員制のレストランだ。アンタのような復讐者とアタシのような案内人しかいないから安心しろ」
「……え?」
今までノコの食事にしか意識が向かなかったが、ふと周りを見渡せばスーツ姿の人間と生気の無いくたびれた服装の男女しかいなかった。家族連れや恋人、友だち同士は存在しない。
「アンタは挙動不審でアタシに付いてくるだけだったけど、ちゃんと社員証をドアマンに提示していたんだ。社員とセットでしか一般人は入店できないからね」
「そうか……とりあえず話を聞こう。異様な空気で頭がパンクしそうだ」
ノコは張り付いた笑顔をさらに釣り上げると、ツラツラと言葉を並べ始めた。それはSNSに書き込んだ事を含めた俺の今までの人生だった。
刺刀穣悟。中学時代の俺を虐め抜いた男の名前だ。女の調べによれば、日雇いのネカフェ難民の俺と比べて、親のコネで入社した職場で悠々自適に暮らしているらしい。
女手一つで育ててくれた母親を悲しませないよう、己の体を引きずる気持ちで毎日通学していたが、ストレスにより路肩で吐物を撒き散らした事もある。
憎くてたまらない男を自分の手で復讐してみないかと持ちかけられた。
「世の中に蔓延っているデスゲーム作品は拉致された上、眠りの目覚めから始まる事が多い。だが混乱している状況でルール説明を理解できるわけがない。アンタもよく観ているからわかるだろ?」
「まぁ、そうだな……」
SNSに映画の感想も書き込む為俺は思わず同意した。さらに聞くと参加者の心の準備を踏まえた上で話し合いをするとのことだ。
「あ、そうそう。今社員を募集しているんだ。給料も待遇も恵まれてるぞ。どうだ?」
ノコは駄目押しとでもいうように投げかける。
無彩色の人生が色付いた瞬間だった。
そして道化師顔の女は店員に再びステーキ肉を注文した。