水曜日とお嬢様と間接キスの話。
実力は全国レベルながら、吹奏楽部のない高校に進学してしまった彼。
その高校にサックスの練習場所がないことに気付き、竹居は愕然とした。
しかし彼は教師の助言もあり水曜日の放課後だけ、旧校舎の音楽室を貸切で使えることになったのだった。
そんな竹居に、チラチラと視線を送る同級生の少女がいた。
彼女は朝宮 万莉。
ハーフアップが似合うお嬢様だ。
物静かな朝宮は、学校の生徒達に「クールビューティー」と称されていた。
ある日、竹居が練習している音楽室に朝宮がやってきていきなり二人は間接キスをしてしまう。
連発する朝宮の天然ボケに、クールビューティーとは全然違うなと思い始める竹居であった。
間接キスから始まる学園ラブコメ、始まります。
稲子市高等学校、一年一組。
クラスに、いくつかのグループができはじめる四月下旬のこと。
昼の休憩時間を一人で満喫している俺の耳に、同級生の男どもの声がざわざわと届いた。
「なあ、ガチャ引いてこんなレアなカードが——」
「昨日発売になったマンガだけどさ——」
ソシャゲとか、マンガとかテレビアニメだとか。
くだらない。
そういうのは、一人で楽しむものだ……。
友達に共有しなくてもいいじゃないか。
「竹居にも声かけとくか?」
「どうせ来ねーだろ。別にいいんじゃね?」
今度は先ほどと違う声、教室ヒエラルキー上位の男共だ。
どうやら、放課後カラオケでも行くようだが、竹居——つまり俺に声を掛けるのかどうか悩んでいる様子だ。
放っておいてくれ。
だいたい、どうして俺なんだ。
まあ、どうせ誘われても行く気はないけどな。
なぜなら……今日は、旧校舎の音楽室が使える水曜日。
カラオケなんぞ行っている暇はない。
せめて、明日なら。
いやいや、行く気はさらさら無い……のだ。
「じゃあ——朝宮さんとか来ねーかな?」
俺の耳がぴくっと震えた。
本命はそっちで、きっと俺は当て馬的なものなのだろう。
俺の存在なんて、このクラスではそんなもんだ。
——朝宮万莉。
ハーフアップの髪型がよく似合う同じクラスの女子。
彼女は、可愛らしく清純な令嬢というやつをそのまま二次元から取り出したようなお嬢様だ。
艶のある黒髪、人形のように白く整った顔に桜色の小さな唇が映える。
朝宮さんはお金持ちっぽいキャラによくいる、分かりやすい取り巻きがいるわけでもなく、一人でいることが多い。
クラスから浮いているのも事実かもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと今日は用事がありますので」
俺は朝宮さんの声の音量が上がったのに気付いた。
その声の元に視線をやると…朝宮さんと目が合う。
すると彼女は目をそらし……俺の机の横にある楽器ケースを見たように感じた。
「そ、そうだよな。忙しいよな」
あっさり引き下がる男共。
この根性無しどもめ……。
孤高の令嬢はまた一人になった。
なぜだか、朝宮さんが俺と近い境遇になっていることに、不思議な共感を覚える。
俺の楽器ケースを見ていたのは何か意味があるのか……?
とはいえ、彼女の世界線と俺のそれは交わることはないだろう。
住む世界が違うから——俺はそう考えていた。
……考えていたんだ。
翌朝、あくびをしながら席につき、ぼけっとしていた俺はふわっと甘い香りが鼻に侵入してくるのを感じた。
香りが漂ってきた方向を見ると、なんと、そこには朝宮さんがいるではないか。
「竹居君、おはようございます」
ギョッと目をむいた俺とは対照的に、彼女はいつもの落ち着いた様子だ。
「朝宮さ、さん……おはよう」
「もしよかったら……これ使ってもらえると嬉しいです」
朝宮さんはそう言って、白いビニール袋を手渡してきた。
水色でショップ名が書いてある。
俺がよく行く楽器店のものだ。
「これは……?」
「じゃあね、竹居君」
その言葉と、良い香りだけを残して朝宮さんは逃げるように席に戻っていった。
呆然とする俺。
「朝宮さん、竹居君に何か渡してたけど、仲良かったっけ?」
「何だアイツ……朝宮さんに話しかけられるとは……うらやまケシカラン」
「あれか、金持ちが庶民に施しでもしたのか?」
俺はクラスメート達のざわめきを無視し、袋を開ける。
袋の中には、四角い紺色の箱があった。
「サックスのリード(薄片)?」
どうして俺がサックスをやっていることを朝宮さんが知っている?
旧校舎での練習を嗅ぎつけられた?
先生からは他の生徒に内緒で使うという条件で練習をさせて貰っているのだ。
「ん?」
受け取ったリードは新品にもかかわらず、やっかいな問題があった。
……これは使えない。
朝宮さん、これテナーサックスの。俺のはアルトサックスだよ……。
以降、朝宮さんと接触はなく、以前と何ら変わらない日々を過ごしていた。
そして翌週の水曜日がやってくる。
放課後、旧校舎音楽室の片隅。空はまだ明るい。
俺はいつものようにサックスの練習をしていた。
練習を続けるうち、ふと入り口の戸の小窓に黒い影が見えた。
廊下に誰かいるようだ。
しかし……その影が去るわけでもなく、音楽室の戸を開けるわけでもなく。
不気味なことに動く様子がない。
焦れた俺は、そいつの顔を見てやることにした。
ガラッと戸を開ける。
「何か用……えっ!?」
そこには、ぼろぼろと大粒の涙を流している朝宮さんがいたのだった。
朝宮さんを音楽室に入れ、椅子に座って貰う。
彼女は座ると同時に涙を拭い始めた。
「ごめんなさい」
「ううん。あの、大丈夫?」
「はい。平気……顔は……ぐちゃぐちゃですよね」
初めて見る表情にドキドキする。
が、恋愛経験値ゼロの俺には、無く女の子の前に何を言ったらいいのか、さっぱり想像が付かない。
「う……ううん、大丈夫だよ。俺は練習続けるから、適当に帰ってね」
何が大丈夫なんだと心の中で自らに突っ込みつつも、楽器を吹き始める俺。
朝宮さんは、うん、とだけ言って顔を伏せた。
二人だけの教室にサックスの音色が響く。
しばらく時間が経つと、朝宮さんは随分落ち着いたようだ。
手鏡で顔をチェックした後は、俺の練習を食い入るように見つめてくる。
大分落ち着いたようだし、そろそろ帰るのかな、と俺が思った時……急に彼女が立ち上がった。
「あの、竹居君。サックスは……最初はどんな練習をするのでしょうか?」
唐突な質問に驚く。
それでも、朝宮さんなら喜んで答えます! ということで、俺はマウスピースを本体から外す。
「最初はね、マウスピースとリードだけで音が出るように吹くの」
実演してみようと口に近づけようとすると、朝宮さんがそのマウスピースをスッと手に取った。
ついさっきまで、俺が咥えていたものだ。
マウスピースに据え付けられたリード(薄片)もしっとりと濡れているはず。
「こう?」
「えっ!?」
彼女は、事もあろうに、その桜色の唇を開き……黒いマウスピースの先端をぱくっと口に含んだのだ。
それ、間接……キス……。
激しく動揺する俺を取り残したまま、朝宮さんは頬をぷくっと膨らませる。
しかし、音が鳴るわけでもなく、スー、スーと空気の通る音だけが聞こえた。
「あれ? 全然音が出ませんね?」
サックスというのは、汽車の窓から楽器を出すだけで鳴る……つまりそれだけ音を出すのが簡単な楽器だという表現がある。
音が出ないのは、きっと生まれて初めてだからなのだろう。
「あの……。お手本見せていただけませんか?」
彼女は興味津々といった風に俺を顔を寄せ、マウスピースを突き返してきた。
一瞬だけ手が触れ、彼女の体温が伝わってくる。
彼女の白い手のひらは、しっとりとしていて、やや冷たい。
でもお手本って……。
「えっ……いいの?」
朝宮さんは少し顔をかしげるが、すぐに「はい」と言った。
多分、この反応は質問の意図を分かっていない。
朝宮さんの唇が触れたものに俺がすぐ唇で触れてもいいのか? という質問なのだ。
他人にマウスピースを渡す場合、その前に唇の触れた部分をハンカチで軽く拭く。
なので、朝宮さんから受け取ったら拭こうと思ったけど、思い留まった。
彼女が拭かなかったのに、俺が拭くというのはどうも失礼というか申し訳ないというか?
いや、やはり拭いた方がいいのか?
俺の中で、謎めいた妙な葛藤が湧く。
「どうしましたか?」
相変わらず近い朝宮さんが、わくわくという気持ちが溢れるような表情で言った。
天然なんだろうか?
経験者じゃないはずなのに、間接キスに抵抗がない?
ああ……全く異性だと意識していない相手なら……同性のように何も感じないかもしれない。
「よく見てて」
俺が出した結論は「気付かないふり」だ。
生暖かい汗が背中を伝うのを感じながら、俺はマウスピースを素知らぬ顔をして咥え、息を入れる。
マウスピースが僅かに冷たく感じる。
それはつまり、少し濡れていたということ。
その原因が朝宮さんのものだと思うと、自らの心拍数が上がるのを感じる。
ペー。
楽器本体を付けないと、少々情けない音が出るものだ。
「……すごい! やっぱりコツがいるのですね。もう一度お借りできませんか?」
音を出すくらい経験者にとっては当然のこと。
それでも、羨望の眼差しを向けられる気分は悪くない。
俺は何気なくハンカチでマウスピースを軽く拭き、渡す。
「あっ……!」
朝宮さんの動きが止まった。
あっ。俺も気付く。癖って恐ろしい。
「ごめん……。本当にごめんなさい……。さっき拭きもしないで……。ちょっと……洗ってくる……きます」
耳の先まで真っ赤に染めた朝宮さん。
彼女はマウスピースを抱えたまま走り出し、逃げるように音楽室を出て行った。
いや……あの、もう朝宮さんが吹いた後に口に付けちゃったし……今から洗っても……。
やっぱり天然か? 天然なのか?
俺は驚きつつも、普段見せない彼女の表情を可愛いと思ってしまったのだった。