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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

緋色の鳥籠、あるいは聖痕

作者: 金田龍磨

 美知恵が手を差し伸べると、カナリアはいつも人懐っこく掌に乗った。

 初めての恋人から贈られた鳥だった。

 「一目見て、君とかさなった」

 そう言って七歳年上の男は、狭くて止まり木のない、粗末なかごに収めた白いカナリアを彼女に渡した。

 美知恵はすぐに白く美しい立派な籠を買って、その中にカナリアをうつした。

 はなから人の手を怖がるそぶりも見せず、掌に乗るとキョロキョロと首を傾げる様が愛らしい、美知恵はよく指先でこの鳥を愛でた。ほっそりした体は豊かな繊毛におおわれて意外なほどに柔らかい。そうして可愛がっていると、ときおりカナリアは美知恵を見上げた。黒くつぶらな瞳は疑うことを知らない。あまりにも無垢な鳥だった。

 はじめて鳴き声を聞いたのはひと月を経る頃であった。美知恵がベッドに腰掛けてハンカチに雪の結晶を縫っているときに、ふと鳴いた。清らかな音だった。美知恵はその音とカナリアを結びかねて、もう一度鳴かせてみようと思った。籠を開けて体中を撫でていると、カナリアはまた鳴いた。静けさを澄ませるような清らかな声だった。

 恋愛が深まるにつれて、美知恵は年上の恋人の思うままに染められていった。世にある子女の変容の仕方の一つをなぞり、化粧を覚え、髪色も服装も男の気に入るように変えた。男の好む物を好み、男の嫌う物を嫌う。淡く幼い感性に背を押された美知恵は、恋のために一心に自分を捧げることを喜んだ。いたいけな喜びであった。

 破瓜をむかえたばかりの少女にあふれた感情は、男の幻を白昼に夢のごとく描いた。美知恵は自分の白く拙い指先が男の太く浅黒い手指と絡まりたがいの掌がぴたりと結び合ったひと時を思い出し、その瑞々しい温もりと拳骨の荒々しい感触を想像の中で再現して、幾度となくよろめいた。かつて切なくなるほどに空白だった心の片隅に、はじめて響いた幸せな歌である。麗しい旋律に誘われて美知恵は恋人との逢瀬を求めるままに重ねていった。触れ合い探り合うところが増えるにつれて、美知恵が抱く幻もまた新しい思い出の数だけ増していく。膨れ上がる熱情に彩られた数多の幻は、華々しく羽を広げる孔雀の誇りを美知恵の心にもたらした。そして痛みに耐えて男のすべてを許した夜に彼女の誇りは頂点に達したのだった。

 あくる朝、目覚めた美知恵は幸せだった。朝食を共にすることも、他愛ない話のつらなりをつなぐことも、全てが輝かしかった。それゆえに、別れ際に男とつないでいた手を切った瞬間おとずれた胸騒ぎは、幸の先行きに墜落を予感させるほどの気鬱とはならなかった。しかし、去っていく男の一度も美知恵を振り返らない後姿。その他愛もないはずの裏切りが、無性に恐ろしかった。

 このときの美知恵が抱いた不安を、男のつれない変化がさらに後押しした。さかんに届いていた連絡の数が少なくなり、メッセージは短い事務的なものになった。会いたいと言いだすのは美知恵ばかりである。それでも会っているとき男が見せる自分への労わりや愛着に美知恵はささやかな安息を見出したが、それも男のどこか演技がかった大仰な相槌や好意をはぐらかすかのような曖昧な態度を目の当たりにしていると、胸の中に重苦しい暗雲が垂れ込めてくるのだった。

 切なる衝動にかられて、美知恵は身を挺して男に尽くすようになった。休日になると男をたずね、部屋の掃除や洗濯を肩代わりして買い込んできた食材で覚えたての料理を振る舞った。無いに等しい小遣いはすぐに底を尽き、美知恵は学校が終わった後の限られた時間で働いて小金を稼ぎ、さらにそれを男のために使った。ひとりでいるときは男からの連絡を心待ちにしながら、かつて男が自分に笑いかけてくれたときのことを思い出して、どうすれば同じように微笑んでくれるかばかりを考えた。

 美知恵が描く幻はしだいに現実から遠ざかった。つないだ手と手の境界線が融けて、美知恵の指と男の指が絡み合うまま一つになる。そしてこの肉の融解は体中に伝播していくのだった。人を象った二つのマグマが互いの重さで融け合うように、雨に打たれる二つの粘土細工が泥と同然に柔らかく合わさるように、美知恵は自分の体と男の体が溶け合い一つになる異様な幻に焦がれた。美知恵の頭が男の胸に溶けて血潮ほとばしる熱い心臓に頬ずりをする。男の太い二の腕から美知恵の細くて白い腕が枝分れして男の体に巻きつき、決して離れないために強く抱擁する。この男の裸身に埋没した女の裸身の幻想は血肉と骨でつくられた樹木であった。惨殺された死体に咲き募る花を見るときのようなグロテスクな美感にうたれて、美知恵は綻ぶのだった。

 このころから、美知恵は恋人から贈られたカナリアに目をやるたびに苛立つ自分がいることに気づきはじめた。おとなしく手のかかるところのない鳥であり、何より想いを捧げる恋人が見初めた鳥である。美知恵はすぐに自分の不徳を咎めたが、苛立ちの正体を探り当てることはできなかった。ただ、いくら自分を制しようとしても苛立ちは昏々と湧き出し、澱となって美知恵の胸の底に溜まっていった。

 ある夜、怒りにかられて美知恵は部屋に帰ってきた。待ち合わせをしていたはずの時間に男が現れず、しばらくたってから逢瀬をなしにする旨を告げる簡素なメッセージが届いたのだった。来ない理由は何も書かれていなかった。すぐに電話したが男は電話にでず、留守番電話につながるばかりである。美知恵は愕然としながら何度もかけ直した。そして十数度目の電話をかけたとき、ついに留守番電話につながることすらなく電話は切られた。あからさまな拒絶の意志のあらわれだった。かつてない裏切りで残酷に傷つけられた心を抱いて、美知恵は夜の街をたった独りで歩いて家に帰ってきたのだった。

 疲れた体を休めるために横になっていた美知恵は、胸の中に渦巻く激情に耐えられず部屋中を歩き回った。自らの献身と愛情を侮辱されたことにたいする怒りと、男を辟易とさせてしまったせいで捨てられるかもしれない不安が嵐となって吹き荒れていた。

 突然音を立てて鳥籠が揺れた。不注意から美知恵の体が鳥籠に勢いよくぶつかったのだった。目まぐるしく転変する自身の心模様ばかりに気を取られていたゆえの失敗だった。

 いきなりの衝撃に驚き、カナリアは自分の体を鳥籠の四方にぶつけながら飛び回った。

 その慌てふためく無様な姿が美知恵の心を悪戯に燃やした。

 鳥籠を両手で力任せにつかむと、美知恵は左右に激しく揺さぶった。籠に据えられた餌と水が乱れ飛びバラバラと床に散らばる。籠を動かす手を切り返すたびに美知恵の掌には、カナリアが籠の中に体を打ちつける衝撃が伝わったが、その手は止まらなかった。白い鳥が自分の手によって他愛も無く虐げられている現実は夢だった。今宵、行き場を失くして熟れ過ぎた美知恵の感情が求めた夢だった。

 カナリアが鋭く鳴いて、ついに手が止まった。

 力を込めるあまり食いしばった口の端が切れて口内に血の味が広がった。

 荒々しく息を弾ませる美知恵が覗き込むと、カナリアは数枚の白い羽とともに籠の底で倒れ伏していた。崩れ落ちた白百合のようにもの悲しく沈んでいた。

 動かない鳥を見ているうちに美知恵は恐ろしくなり、明かりを消してベッドにもぐりこんだ。自分の暴挙が自分で信じられず、それが招いた結果を直視することができなかった。悦びはすでにはるか彼方へと遠ざかり現実は悪夢である。固く目を瞑りながらも耳を澄ませて、暗闇の中からカナリアの安否を窺い続けるしかなかった。

 夜気が冴えわたるほどに時が傾いた夜半。

 鳥籠からかすかな音がこぼれた。

 美知恵は音を忍ばせて身をよじり、ベッドとシーツの間から鳥籠の方を見つめた。

 研ぎ澄まされた月光が窓から差しこみ、鳥籠を照らしている。美知恵からカナリアの姿は見えなかったが、小枝のように細い足が籠の底をたどたどしく踏む音が響いていた。仄かな羽ばたきが影を揺らし、美しい白百合が止まり木に咲いた。月の光を浴びて青白く輝くカナリアだった。垢にまみれた手では決して届かないほどの高嶺に咲く、厳かな花だった。

 少女の柔くはかない手ですら容易く弄ぶことができた小さな命は、しかし決して下等ではなかった。痛みと傷を光で癒してさわやかに羽ばたいた一枚絵は、この世ならぬ世界から流れたひとしずくの啓示的な美であった。

 美知恵の胸の内側が音を立ててざわめいた。渇ききった波の音が寂しい海岸にいつまでも響きわたるかのように。美知恵をそれまで支配していた後悔や罪悪感だけでなく、男に対する怒りも苦しみも、この美によって洗い流されていた。後に残ったのは痛みだけである。胸の奥に引かれた綺麗な傷口から、止めどなく鮮血が滴るばかりであった。

 ただ生きているだけで、光輝を浴びるカナリアと醜く陰に潜むしかない自分がいた。

 理不尽な暴挙にあてられて、醜く荒れる自分とそれでも清らかに羽ばたくカナリアがいた。

「一目見て、君とかさなった」

 恋人のかつての言葉が美知恵の脳裏で瞬き、すぐに消えた。

 憎しみが美知恵をしずかに刺した。

 死があるべきだと思った。

 

 この日を境に男からの連絡は途絶えた。

 はじめは一縷の希望を信じていくつものメッセージを送った美知恵だったが、日を経るごとにその数は減っていった。返事が来ないと知りながらメッセージを送ることは自身の不能を突き付けられているようで苦痛だった。一度だけ、直接話をするために意を決して男の家まで行ったことがあった。震える指でチャイムを鳴らしたが男は出ない。しばらく待っている間に日が暮れて、あの夜の孤独の味を思い出した美知恵はついにあきらめた。最後にふりむいて男の部屋に一瞥をおくる。いま本当に男は部屋にいないのか、美知恵に確かめる術はなかった。

 いくつもの冷たい夜が美知恵から熱を奪った。夜が明けるごとに美知恵の肌の白さは深まり、少女らしい柔らかい輪郭は薄氷の鋭さをおびた。それにつれて細く高い鼻梁の美しさが際立つようになった。肌の白さと相まって黒い髪は夜そのものである。憂いと悲しみを負った暗い瞳が重すぎて眼差しは月のように沈んだ。

 その美貌のうらに呆然とたたずむ少女がいることを誰も知らなかった。

音のない断崖から美知恵はただ海を眺めた。はるか遠くで穢れた海原が荒々しくうねりを翻し、水面は醜く歪んでいる。空に浮かぶ白い月だけが健やかに永遠の静けさを保っている。月が海へと光を投げかけた。永遠の美と寸分たがわず重なるはずの月影は、しかし醜い水面にあっては粉々に砕け散るしかない。海の底にひそむ顔のない怪物が絶えまなく体を蠢かせて、この荒れ狂う海原を作り上げているのだった。美知恵は全てを憎んだ。海も怪物も月も、歌が絶えた断崖の上から全てに憎しみを込めて見つめつづけた。苦しみを伴う徒労だった。

 憎しみから遠ざかろうとして、美知恵は手首を切るようになった。最初の一本は家族の目が届かない私室の隅に座り込んで引いた可愛い傷だった。その傷の上から剃刀を当ててもう一度、より深く線を引いた。動悸を抑えながら傷を観察していると、白い手首にできた一筋の傷からプツプツと宝石の粒のような赤黒い血がいくつも浮き出し、手首を傾けると宝石は血涙となって肌を伝いカーペットへとこぼれ落ちた。少しだけ心が軽くなった。自傷にはつかのまの安らぎがあった。行為につきまとうなけなしの自愛が傷ついた胸底の痛みをやわらげる。自分で自分を傷つけるこのひとときだけは迫りくる苦悩から自由でいられるのだと、美知恵は知った。

 いちど幸せを知った美知恵は拠りどころを持たなかった以前の心持に戻ることなど到底できず、ふたたび空虚となった心の片隅を埋めるための何かが欲しかった。美知恵は自傷することのなかにその何かを見出したのだった。

 傷は増えていくばかりだった。はじめのうちは一つの傷が癒えるまで待ってから次の傷をつけていたが、寂しい風の音が響くたび怒涛のように押し寄せる不安の波が間もなく美知恵に剃刀を握らせた。幾度も幾度も自分を傷つけて、それでも足りなくなるともう片方の腕に傷をつけて、それでも足らずついには雪のように白い内腿に剃刀をあてて思いきり肌を掻き毟った。それでようやく空っぽになった。呆然と床に座りこんで傷だらけになった自分の体を眺めていると、無性に悲しくなって美知恵は涙を流した。

 カナリアが鳴いた。清らかで美しい声だった。

 美知恵は立ち上がり、血で汚れることも厭わずに傷のうえから服を着た。

 カナリアの籠を開けると乱暴に手を入れて、逃げ惑う白い鳥を無理やりに捕まえた。

 日は落ちて、月は明るく、夜の風は冷たい。

 美知恵は人通りの少ない道を選んで歩いた。右手に握りしめたカナリアはか弱い力で掌から逃れようともがいている。袖の下からカナリアを掴んだ美知恵の手に血が伝った。美知恵は掌のなかでカナリアの羽が水気をおびるのを感じた。わずかに一瞥を向けるとカナリアは点々と赤く染まっていた。

 行く手に自分を棄てた男の家を見とめて美知恵は足を速めた。

 すこしの逡巡もなくすすみ男の部屋の前に立った。

 美知恵はカナリアを握った手をすこしだけ緩めると、勢いよく腕を引いて、男の部屋のドアにカナリアを叩きつけた。けたたましい音が弾け、ドアには血の痕と僅かなへこみができた。

 部屋の中からは物音が一つもない。

 スカートの下、内腿から足首へ向かって血が流れた。

 美知恵はふたたびカナリアをドアに叩きつけた。一度だけではとまらず何度も何度も、ドアが軋むほどカナリアを叩きつけた。一帯が暴力的な騒音で揺れた。

 ドアについた血の痕が凄惨となるころになってやっと美知恵は止まった。

 手の中では潰れたカナリアが死んでいる。

 美知恵はドアの前にゴミでも捨てるかのように死骸を捨てると、踵を返した。

 カナリアはもう鳴かなかった。

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