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「久しぶりだねりりィ。市井の生活は満喫している?」


気まずい沈黙を破った穏やかな問いかけに、リリアンジュは一瞬呼吸の仕方を忘れた。

全てを整えられたのが当たり前の日々から一転、自分の手を動かして何かをするという生活。

自分が望んだ事とはいえ、初めて体験する労働は予想以上に難しく、憧れていた自由な市井の生活など所詮妄想にすぎないのだと思い知らされた。

今のおままごとのような擬似市井体験でも散々なのだ。

もしもあの断罪で本当に市井へ落とされていたらと思うと、今は恐怖で身がすくむ。

なのに。


「いつもの着飾ったものも素敵だけど、今のシンプルな服も可愛らしいね」


なぜ、セシルはいつもと変わらない態度で接してくるのだろう。

彼にとってリリアンジュは人を苛め他人に罪を背負わせた罪人だ。でなければ、無実の罪で廃嫡された可哀想な幼馴染。

どちらにせよ、普通に話しかけるのを躊躇われるような立場のはずだ。

目の前で微笑むセシルが、リリアンジュには理解出来なかった。

なぜ、なぜ、と疑問ばかりが募って行く。


「……リリィ?」


一言も発しない事をさすがに不審に思ったのか、かけられた声は戸惑いを含んでいた。

躊躇いがちに頬へと伸びてくる手にリリアンジュの肩がびくりと震えると、セシルはそこで漸く自分が拒絶されている事に気付いたようだった。

力なく下ろされた手、途端にうろうろ彷徨い始める視線に、リリアンジュはほっとしたようながっかりしたような不思議な気持ちになる。


――触れれば良かったのに。


いっそにっこりと笑いながら、ずっと嫌いだった、疎ましかったのだと言い放ってくれれば良かった。

そうしてくれれば思う存分セシルを憎めたのに。

リリアンジュが押し黙ると、セシルは今度こそ捨てられた子犬のような顔をした。

何故リリアンジュが怒っているのか分からないという顔を見るに、本当に悪気が無いのかも知れない。


セシルにとって、リリアンジュが謂われの無い罪を問われ、不当な扱いを受けた事などどうでも良い事。

だから顔を合わせる事にも抵抗が無いし、何も無かったような態度で話しかけられるのかも知れない。

顔を見せたのも、ただ単に親に命じられた付き添いとしての行動で、セシル本人の意志は無いのだ。


そう思えば、途端に胸が苦しくなった。

止めどなく溢れる後ろ向きな感情の連鎖に身体が震え、奥歯がカチカチと微かな音を立てる。

何故こんなにも悲しいのか、リリアンジュには分からなかった。

こらえようとすればするほど、押し潰された感情が出口を求めるかの如くじわじわと熱いものが瞳に集まっていく。


「……出て行って」

「リリィ?」

「何も話したくないわ。もう、私に構わないで」


声が震えなくて良かったと思った。

すでにぼやけ始めた視界は涙腺の限界を訴えているが、リリアンジュにも矜持がある。

人前で無様に泣くのは嫌だ。しかも、セシルの前となれば尚の事。

早く早くと願うのに、一向に出て行く素振りの無いセシルに苛立ちが募った。


「リリィ、怒ってる?」


何を今更。

吐いて出そうだった言葉を咄嗟に呑み込み、もう何も聞きたくないと立ち上がる。

これ以上二人っきりで居るのは耐えられそうも無かった。


「……っ貴方が行かないのなら、私が出て行くわ」


ドアを閉める直後、ちらりと見えたセシルの顔は、やはりどこか釈然としない顔をしていた。

最初から最後まで感情が噛み合わない。

ぼろぼろとあふれ出てくる涙をぬぐいながら、リリアンジュは一目散に自室をめざして駆けだした。



***



客間に取り残されたセシルは、一人呆然とソファに腰掛けていた。

リリアンジュが消えた扉をぼんやりと見つめながら、彼の頭にもまた、何故と疑問ばかりが巡っている。


「参ったな……」


立ち去る際、振り返ったリリアンジュの瞳に光る物が見えた気がする。

情けない事に、自分が泣かせてしまったのだという衝撃で行動を開始するのにしばらく時間がかかった。

しかも、よくよく思い返してみれば、睨み付けられた気さえする。


泣かれるなんて誤算だ。

それどころか、ほんの数分前までは喜んで迎えてくれるだろうとさえ思っていた。

頑張り屋の彼女の事だ。この二週間に起こった出来事を、いつもの柔らかな微笑みを浮かべながら報告してくれるのではと期待に胸を膨らませて会いに来たのだ。

なのに、話す事は無いと拒絶された。

既に冷め切った紅茶を口に含みながら、セシルは重く沈んだ空気を吐き出し考える。


もしかして今の状況は、リリアンジュの望んだものでは無いのだろうか。

けれどリリアンジュが市井に憧れて居たのは事実だ。

学園に入学する前は、市井出身の使用人を見つけては話を強請っていたし、最近だってヴィクターの心変わりに胸を痛め、市井ならば自由に恋が出来ただろうにと貴族の不自由さを嘆いていた。

だから手を尽くしたというのに、喜ばせるどころか泣かせてしまうとはどういう事だろう。

理想と現実の差違に頭が痛くなる。


「参ったな……」


先ほどよりも沈んだ声が出た。

慰めに行きたいが、元凶が行ったところで逆効果だろう。さすがにそれくらいの事は分かる。

リリメリアが早く帰ってこないかと項垂れた所で、タイミング良くノックの音が響いた。


「どうぞ」

「失礼致します。……あら。リリアンジュ様がご一緒かと思いましたが」


入室早々、主の姿が無い事に訝かしげな顔をするアメリーに、セシルは何となく責められている心地で肩をすくめる。


「僕が怒らせてしまったんだ」

「まぁ。リリアンジュ様を?」


アメリーの瞳が微かに見開かれた。

あのご令嬢をどうやったら怒らせられるのかと、本気で思案している様だった。

彼女の驚きも尤もだ。セシルも、今の今までは彼女が怒りを露わにするなんて思ってもみなかったのだから。

さらに責められた心地になりながら取り繕うように微笑んでみるも、今日ばかりは綺麗に笑えている自信がなかった。


「丁度良かった。彼女の側に付いていてくれる?」

「承知致しました。――紅茶の代わりを持ってこさせますわ」


つまりは、言外に此処を出るなと言われたのだろう。

こういう事には聡いのに何故リリアンジュの事は理解出来ないのかと、自分が情けなくなりながらセシルはだらしなくソファへと沈み込んだ。





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