洗礼
3人はただただ立ち尽くした。
地平線まで広がる平原。
萌える草花。
澄みきった穏やかな空気で満たされている快晴の空と眩しい太陽。
高度経済成長をとげた現代社会において、この景色は一生味わえるものではないと言って良いくらいだった。
だが、この広大な自然を感じたところで、心が落ち着く筈がなかった。
「……ここ、日本かな?」
黒い短髪で笑顔が似合いそうな康貴が、一切口角を上げずにそう聞いた。
「日本だろ。学校の屋上にいたんだからよ」
無造作な茶髪が風で少し揺れている槇はそう答える。
「でも、日本でこんな風景見れると思う?」
ブラウンの髪をなびかせながら、冷静に状況を把握しようとしているかおりは、不可思議であり得ないことを言う。
「北海道なら今の時期、雪が積もってる。
本州は木とか山とかでこんな広い平地はないし、四国、九州や沖縄ではまずないでしょ。
あり得ないけど、外国にいるとしか……」
「じゃぁどうやって外国に来たんだ?
瞬間移動が起こるわけねぇし、誰かが俺たちをここに連れ出したにしては無理矢理すぎるし、失敗のリスクが高すぎる。
それに理由がわかんねぇし、意味もわかんねぇ」
槇の言葉を聞くとかおりは、そうなのよね、と呟いて視線を落とした。
「じゃぁさ! 異世界に飛ばされたとかは!?」
この状況が楽しくなってきたのか、康貴の笑顔が開花し、張り詰めた空気をブレイクしてそう言い放った。
槇は溜め息を吐きながら、
「バカか。お前は」
と肩を落とす。
「ッ! バカだと!
バカって言う奴がバカなんだぞ!
このバカバカ槇!」
「お前、やっぱりバカだな」
また始まったかと言わんばかりに、かおりは深い溜め息を吐いた。
「バカじゃねぇ!」
「わかったわかった。バカ」
そろそろ仲裁に入ろうか。
そう考え、目線を上げたかおりは少し向こうにある小さな花を見つけた。
「あ。綺麗」
かおりは2人を無視し、少し先にある花に小走りで近づいていった。
小さな小さな花。
白の花弁を輝かせている2輪の花と、淡いピンクの花弁を輝かせている1輪の花。
3輪の花が、その小さく頼り無い身を寄せ合っていた。
「バカじゃねぇっつってんだろ!」
怒鳴り声の方では、二人はすでに取っ組み合っていた。
康貴は槇にパンチを繰り出すが、槇はひらりと避ける。
「おっ。やるか?」
槇もお返しとばかりにパンチを繰り出し、腹部にヒットさせる。
「うっ! 槇! テメェ!」
2人は殴り合い、力の限り互いの身を傷つけ合う。
「キャァァーー!!!!」
その叫び声に2人の手は止まり、声の聞こえた方を見る。
視線の先のかおりは、ブレザーの右袖を破られ、露になった細く白い腕が赤黒い血にまみれている。
ブレザーを噛み千切ったのは間違いなくかおりの近くにいる2頭の黒い犬のような生物である。
その2頭は唸りながらかおりに近づいていき、今にも飛び掛り首元に噛み付こうとしている。
「かおり!!」
かおりの危険を察知した槇と康貴は同時に地面を蹴る。
黒い犬のような生物の1頭はかおり目掛け飛びかかる。
素早くかおりの近くに駆け寄った康貴はその犬を蹴り飛ばす。
「かおり、大丈夫?」
康貴は背後にいるかおりの顔を見る。
恐怖に顔を歪ませ、しかし冷静を保とうと必死に息を吸ったり吐いたりしている。
「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけ」
かおりは康貴に白い歯を見せながら強張った笑顔を見せた。
できる限りの強がりだった。
「康貴! 後ろ!」
槇の声で後ろを振り向く康貴。
目の前にはもう1頭の犬。
あまりの近さに回避行動は取れず、両腕で顔をふさぐ。
犬の爪が康貴の腕を切り裂き、ブレザーの残骸が風で飛んでいく。
それで終わらず、切り裂いた反動で上手く飛び上がって一回転し、硬い尻尾で康貴の頭部を殴る。
康貴は数メートル飛び、草の上に伸びた。
「康貴!」
かおりは康貴に声をかけるが、ピクリともしない。
腰を抜かして動くことの出来ないからか、足を叩く。
着地した犬は再び唸り、少しずつかおりに寄っていく。
それに気付いたかおりは、ただ恐怖に脅えることしか出来なかった。
「ガァァァァ!!」
犬はかおりに飛びかかる。
「キャァ!」
思わず目をつむるかおり。
犬の唸りが目の前で聞こえる。
しかし、彼女自身に痛みと衝撃はなかった。
かおりは恐る恐る目を開ける。
ボサボサの茶色い髪が目の前にあった。
「バカみたいに叫ぶなよ。耳痛ぇだろ」
ポタ……。
ポタ……。
草に落ちる赤い液体。
それがなにかわかったかおりの顔が後悔で歪んだ。
槇は自分の左腕を犬に噛ませていたのだ。
「し……ん……」
かおりは言葉を詰まらせた。
恐怖でのどが震えなくなってきたのだ。
「康貴運べるか?」
槇の言葉は逃げろの合図であった。
しかし、それを了承するはずが無かった。
「なにバカなこと言ってんのよ!」
康貴が蹴り飛ばした犬が起き上がり、2人目掛けて走って来る。
「バカじゃねぇよ」
「バカよ! 槇を残して逃げれるわけないじゃない!」
噛みついている犬はその力を強める。
その痛みに堪えられず叫んでしまう。
「槇!」
「はやく行けよ!」
「イヤ!」
走ってきた犬がかおり目掛け飛びかかる。
しかし、槇は空いていた右腕を犠牲にそれを止める。
飛んできた犬の勢いで槇は地面に倒れ込んでしまう。
「槇!」
「うぅ……は…やく、行けって!」
1頭の犬が腕を噛むのを止め、首に噛みつこうと口を大きく開けた。
「ヤ……メ……テ……」
口は動いても、足は動かなかった。
目の前で、槇が死ぬ。
なぜだか、涙は出なかった。
処刑を見る聴衆の如く、なにも感じようとしなかった。
それは、ただの防衛本能なのかもしれない。
ゆっくり、
ゆっくり、
ゆっくり、
ゆっくり、
ただ犬の口が閉じていくのを見ているだけだった。