豚と奇人
崩れた洞窟の入口をニマニマと嫌な顔で見ながら、目の前の男は軽く体を揺らす。
『もうちょっと早いと思ったんですがね?私の予想も甘かった』
「ちょ、洞窟の中にみんないたのに!」
訳の分からないことを言う男を無視して、俺は洞窟の入口を塞ぐ崩れた土砂をどけられないか調べてみる。
『魔神様!』
アイリスさんは、目の前の男に近づこうとしない。
『魔神……?妙ちきりんな名前をつけるんですね』
男はアイリスさんの呼びかけを俺の名前だと誤解したらしい。
洞窟は俺一人の手(足?)では土砂を除けられそうになく、さてどうやって中の人を助けたものか。
アイリスさんにも助けを求めようとするが、彼女は立ち尽くしたまま動こうとしない。その視線は、洞窟ではなく、へらへら笑う男にきつく向けられていた。
『人質というわけですか』
『まあそういうことになりますかね? 王は、貴女だけ手に入れられたら満足な様子ですが……どうします?』
『みんなは開放してくれるんですか』
『貴女次第ですね』
不穏な単語が飛び交う。
俺はさっぱり状況が理解できない。クロリスの民が人質に取られたとか、そういう話?
『まあ、さっきの揺れで中の人が死んでしまってる可能性もありますけどね?』
『…………っ!』
男の挑発に、アイリスさんが怒りをあらわに杖を掲げる。
『見えざる手!』
『おっと危ない』
男が半歩体をずらすと同時に、地面に強烈な衝撃が走る。砂埃が舞った。
『挨拶がいきなり魔術ってのは礼儀がなってませんね』
はあ、と大きなため息をつくと、男は右手の指をパチンと鳴らす。
ドッッッと大きな音がして、アイリスさんの体がくずおれた。
『くっ……』
『変な声出さないでくださいよ、私が変質者みたいじゃないですか?』
四肢に力をいれて立とうとするが、アイリスさんの体は持ち上がらない。
「ちょっとちょっと、なにやってんの」
唐突に始まった不可視の喧嘩。杖を向けたり指パッチンで何かをしているところを見ると、これは魔法とかそういうファンタジー要素なのだろう。格好いいけど、男が女の子を屈服させているという構図は、見ていて気持ちのいいものじゃない。
二人の間にどんな因縁があるのかわからないけど、先に挑発したのは男の方だ。それより前に杖を向けて開戦したのはアイリスさんだけど、そもそも人質を取ったのは男なわけだし、ここは男が引くべきではなかろうか。第三者としてそう進言したつもりだったのだけど、悲しいかな、俺の口から出るのは豚語なのだ。
『飼い主様のピンチに焦っているのかな?』
男は俺の忠告にも耳を貸さず(そもそも伝わっていないのだけど)、アイリスさんを開放する気はないらしい。
ようしそれならと、アイリスさんのもとに駆け寄る。鼻先でアイリスさんの頭をつつくがそれでどうにかなる訳でもない。どうやら俺は触れただけで魔法を無効化できるようなチートを手にしたわけではなさそうだった。
地面に倒れたまま、アイリスさんが顔だけ男に向ける。
『王国の至宝がここまで出張るなんて……よっぽど、ですね…』
声を出すのも苦しそうなアイリスさんの目には、未だに闘志が残っている。彼女はまだ負けたつもりではないらしい。
せめて彼女が立てれば、またさっきの衝撃をぶつける奴をお見舞いしてやって、人質を開放させて話し合い、といけるのに。目の前の男が何かしているというのはわかるのだが、それが何なのかさっぱり見当がつかない。
さっき男の口にした、『魔術』というののせいなんだろうけど、それを無効化したりするすべを俺は知らない。
とりあえず魔法が解除されますように。
そう思って今度は鼻でアイリスさんの肩をつつく。すると彼女はびっくりした顔で俺を見た。
『魔神様、今…』
「え、なに?」
俺の質問には答えず、アイリスさんは小声で再び『見えざる手』と呟いた。間髪いれず、男に不可視の一発がモロに入り、思いっきり吹っ飛んだ。
その隙に、アイリスさんは杖を洞窟の入口に向け、土砂をどかせた。あまりの早業に、魔法って便利だなと感心してしまう。
男が起き上がる気配はない。今の一撃が相当効いたらしい。
『皆、大丈夫!?』
アイリスさんが洞窟に駆け寄ると、なかから人の返事がした。
『おおアイリス、無事だったか!』
『俺たちは大丈夫だ』
『早くここをでましょう! 王国の魔術師が直々に出てくるとは思わなかった!』
数十人の集団が、わらわらと外へ出てくる。
『優しくしてやるとこれなんですから…お転婆はこれだから困りますね』
クロリスの民が洞窟から全員出たあたりで、男がゆらりと立ち上がった。嫌な顔だ。
『生きて連れて帰れとは言われていたけど、手違いで殺してしまったって言えば王も満足してくれるでしょう』
『うわ!』
『なんだこれ』
『揺れてる!』
地鳴りがして、みんなその場に膝を付く。立っていられないくらいの揺れだ。これも魔法だっていうのか。ありえない。自然災害まで好きにいじれるなんて、まさにチートじゃないか。
にまにまと、気持ち悪い笑顔を浮かべる男だけは揺れの影響を受けていないようで、平然とこちらを見下ろすように立っている。
『あなたが死んでも、ほかのクロリスの民さえ連れ帰ればまあ……あなたの三分の一ほどの価値にはなりますよ』
『まだ私は負けてませんよ』
そう言ってアイリスさんが杖を掲げようとするけれど、それを見越して男が右手の指を鳴らす。するとアイリスさんの腕から力が抜けて、アイリスさんのしようとした魔術は不発に終わった。
『いくら馬鹿でもそう同じ魔術を行使されればね』
せせら笑う男は、もうアイリスさんを脅威とは認識していないらしい。
『死後の世界で、たっぷり勉強してください!』
哄笑とともに振り上げられた右足が、勢い良く地面を踏み付けると、揺れが一瞬ピタリと止まった。
次の瞬間、
男が一瞬で目の前にまで瞬間移動してきた。向かってきた勢いのままに右足を蹴り上げアイリスさんの体に蹴りを入れる。いくら体の大きな男とはいえただの人間であるはずだ。なのに、少女の体はゆうに5メートルは吹き飛んだ。これも魔法なのか。
吹き飛ばされたアイリスさんは起き上がろうとするが、体に力が入らないらしい。
今度は嫌味たらしく、男はのんびりと歩を進める。
『やめろぉ!』
クロリスの民の中の一人が声を張り上げ右手を振るった。
火球が生み出され、まっすぐ男のもとへ向かう。だが男はそれを一瞥すると、右手で火球に軽く触れた。それだけで、人の頭ほどもある火炎が勢いをなくして地に落ちた。
『中途半端ですね』
クロリスの民はもう全員抵抗を諦めたらしかった。そりゃそうだ、アイリスさんも、さらに今の火球を放った男も、クロリスの民の中では結構な実力者であるはずなのに、いともたやすく目の前の男に無力化されてしまっているのだから。ここで、背を向けて逃げてしまうのは仕方のないことだし、むしろアイリスさんも自分を犠牲に他の連中が逃げられるほうが嬉しいのかもしれない。
だけど、そのおかしな威力を誇る右足を、男がアイリスさんの頭の上にのせているこの現状に、なんの抵抗も試みないっていうのはおかしいんじゃないか?
「おい!」
アイリスさんと男の間に割り込んで、男の足を豚の鼻面でつつく。男の足の力は強く、俺の力ではびくともしないが、それはもとより想定済みだ。
「やめろよ!」
『うるさい豚ですねえ』
愚痴る男は、アイリスさんから足をどけた。
『わかりましたわかりました。ここで彼女を殺すのはやめます。 クロリスの民を抜けもれなく王国へ連れ帰ればよっぽど王もお喜ばれになるでしょう』
やれやれと頭をふる男は、右手の指を再度鳴らした。
すると揺れもおさまり、クロリスの民もホッとしたような表情を浮かべる。アイリスさんも、苦しそうな重圧から解放されている。
『だけどまあ、この汚い豚くらいは殺してしまってもいいですよね』
「え?」
俺が男の言葉を理解するより前に、男の右足が俺の脇腹にクリーンヒットしていた。天高く打ち上げられ、自分の体が放物線を描いて岩壁に激突するのを知覚する。
「なにし」
やがる、と声に出そうとしたところでいつの間にか肉薄していた男のパンチ。背中が岩壁なので衝撃が正しく俺の体に蓄積される。
「ぐっ―――」
『汚い豚が、俺の足に、触れるな!!!』
怒るところはそこかよ、なんて軽口をはさむ隙もない。
子豚をいじめるなんてずいぶん趣味の悪いことだけど、彼にとっては我慢ならない事だったんだろう。
だんだんと意識が朦朧としてくる。
一方的に殴られ続けるってこんなに辛いことなのか。もし俺が担任持つようなことがあれば、いじめは絶対にないクラスにしよう。俺の実体験としてみんなに教えることができるぞ。
ゆるゆると、昔のことを思い出す。
四年間を教職になるという目標に費やし続けた大学生活や、気のいい仲間たちとのんびり趣味に明け暮れた高校生活、……走馬灯をこの年になって見ることになるなんて俺は思いもしなかったよ。
だけど、その走馬灯は途中で止められる。
ついでに、男の連続ボディブローも止まる。
男は三十センチほど動いており、彼の見据える先には、
『また君か』
『ええ、その豚を離してください』
アイリスさんが杖を掲げて立っていた。
ふんと鼻息一つ、男は俺の体をむんずと掴み、アイリスさんの方へ無造作に投げる。アイリスさんは危なげなく俺を胸に抱きとめた。
『助かったのに未だ反抗するってそれもうどんな馬鹿なんですか』
ブチギレた男ほど怖いものもない。雰囲気は明らかに怒ってるのに、その顔には笑顔。
『二人まとめて殺してやるよおおおおおおおおおおおおおお!!!!』
笑顔一転、目も当てられない鬼神のような表情で歯をむき出しに、男は渾身の力を込めて右足で大地を砕く。彼の右足を中心に文字通り円形に粉砕される大地。そしてその爆発力のままに、男の体がロケットのように射出されて、振り上げた拳が俺の体を打ち据える。俺の人生でも豚生でも、味わったことのない威力のパンチは、俺をだっこするアイリスさんごと、俺らを思いっきり吹き飛ばした。後方にある岩壁に向かって。
感じる衝撃。ガラガラと崩れ落ちてくる土砂。俺が見たのは自分の頭上に降ってくる岩陰が最後だった。