プロローグ
これからよろしくお願いします!
薄暗い洞窟。
カサカサと小さな虫たちが、あちらこちらを這いずりまわる音が聞こえる。
物音はそれだけではなく、人が、ボソリボソリと唱和する声もする。
幾つもの人影が、ぼんやりと光る床の円模様をぐるりと囲んで立っていた。
俗に言う魔法陣と呼ばれるそれは、精緻な円を何重にも張り巡らせ、細かい文字がびっしりと書き込まれている。
青白く光る陣を時計に見立てた十二時の方向、一人だけ白く落ち着いたローブを羽織った人影は、シンプルな装いと同じく、余計な飾り立てのされていない古木の杖を握る右手を前にかかげ、よく通る声で何らかの文言を唱える。
『汝、我らが神よ。 どうか無垢なる我らに救いの手を差し伸べたまえ』
滔々と語る影の声は、口調に反してまだ若い。
白いローブの人影が、ぎゅっと杖を握る手に力を込めた。
背丈ほどもある杖は、所有者の震えを受け止めるように、微動だにせず、魔法陣に己の末端を突き立てていた。
『さ迷う汝の民に、しるべを与えたまえ』
周囲のほかの人影は、白ローブの人影が粛々と祈りの言葉を捧げるのを見守っている。
生唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。
どの人物の顔にも、悲壮感が色濃く現れている。ひんやりとした洞窟なのに、彼らの顔に流れる汗が、雄弁に彼らの緊張を物語っていた。
『汝の力で、我らの敵を滅ぼしたまえ』
白ローブの人物がひときわ強く杖を地面にぶつけてうち鳴らすと、魔方陣が呼応するように輝き出した。
青白い光が周囲を眩く照らし、白ローブは自らの術の発動の成功を予感する。
『……!?』
ところが、そのいっそ清浄とも言える光の中に、突如として赤黒く、濁った輝きが混じる。
『続けなさい!』
そうかけられた声に後押しされ、術者は詠唱をやめない。
『……っ! 汝の築く世界が、我らの安寧の地でありますれば! どうか、我らを導きたまえ!』
悲痛な叫び。
詠唱の終わると同時、魔方陣から溢れていた青白い光は、己と反発し合う赤黒い光などものともしないように穢れを飲み込んで、洞窟一体を照らした。 虫たちは、我先にとその輝きから逃れようとさらにスピードを上げた。
誰もがあまりのまぶしさに目を閉じ、やがて静寂と共に暗闇が帰ってくる。
『はあっ…はあっ……』
情念を込めすぎたか、勢い余って白いローブのフードがはらりと落ちた。
荒く息をつくその人物の顔は、まだ年端もいかぬ乙女。 真っ赤な髪が、汗で額にくっついている。
息を整えて、彼女は魔法陣の中央を見る。
予期せぬ事態が起こったものの、無理やりに儀式を続行した。
この機を逃せば次はない、と彼女が思ったせいもある。
この場にいる、彼女を見つめる黒ローブの彼らを、ほかでもない、彼女こそが守らなければならないと、心に固く決意したのだ。
『あれっ?』
見えない。
彼女の向けた視線の先、そこには暗闇しかなかった。
手はず通り行けば、魔法陣はまだ輝きを残し、そこに鎮座しているはずの彼らの神と対面し、契約を結ぶことができるはずなのだ。
まさか、失敗した?
ブツブツと、誰かが何かつぶやく声が聞こえる。
あまりに小さな声で、何を言っているのかは聞き取れないが、あまり良さげな声音ではなかった。
嫌な考えが少女の脳裏を過ぎる。
ここまで必死に頑張ってきたのに、まさか、最後の最後に――
少女の頬を、汗ではない液体がひとしずく伝い落ちた。
やがて。
「貴様らが我を呼んだのか」
少女は、発せられた声を理解できなかった。
少女ばかりか、その場にいたもの全員が、その言葉を理解できなかった。
ただ一人を除いて。
『せい……こう?』
「我の名は―――」
ぼんやりと明るくなる洞窟。 誰かが明かりをつけたのか。
そこに立っていたのは、
「プヒ!プヒプヒ!」
四本足のヒヅメでしっかりと地面をつかんで立つ、綺麗な茶色い毛並みをした猪の子供だった。