みずうみの唄
あるところに、小さな小さな国がありました。
その国は、森と丘と小川とに囲まれた、とてもとても美しい国でした。
真ん中に、ちょこんとした湖を抱いた町がありました。
まるで満月のように輝く湖は、風が吹くと、不思議な唄を歌うことで有名でした。
誰も聞いたことがないのに、唄を歌うことで有名だったのです。
それは、こんな、言い伝えでした。
この湖は、海につながっている
だから、湖には時々海の貝殻が混ざっている
海から遠く離れてしまった貝殻は海を恋しがって、風がふく先にある海を想って歌うのだよ
――と。
✽
ある年の春に男の子と女の子が、その湖の町で生まれました。
同じ年に生まれた男の子と女の子は、たいそう仲が良く、いつも一緒に遊んでいました。
二人が遊ぶのは、湖のほとり。
お花を摘んで、追いかけっこをして、二人は楽しく遊びました。
そして遊び疲れると、二人一緒にそこに並んで腰をおろして、湖の唄を聞くのでした。
二人には聞こえるのです。
不思議な不思議な言い伝えの、海を恋しがって歌う貝殻の唄声が。
ふたりは、とてもとても幸せでした。
海を恋しがる貝のうたはとても哀しいけれど、二人で聞く貝の唄声は、二人だけのひみつ。
男の子は、唄をかんじている時の、女の子のおだやかな笑顔がすきでした。
女の子は、唄をきいている時の、男の子のやさしい目がすきでした。
夜遅くまでその唄をきいて、その姿をお月様に見られていても、平気でした。
二人は、二人だけのひみつをもてることが、とてもとても幸せだったのです。
✽
やがて、二人がもうすこし大きくなったとき、小さな小さな国は、ほんのささいないざかいから、隣の国の、大きな大きな国と戦争になりました。
男の人達は、みんな戦争に行きました。
女の子のお父さんも戦争に行きました。
男の子のお兄さんも戦争に行きました。
男の子と女の子の友達も、戦争に行きました。
でも、だれも帰ってきませんでした。
小さな小さな国には、大人の男の人はいなくなってしまいました。
✽
そして、ある春の日のこと。
とうとう、男の子が戦争に行くことになりました。
もう、この小さな小さな国には、男の子くらいの年の子しか、男の人は残っていなかったのです。
女の子よりもさきに、ひとつ大きくなった男の子は、大人の男の人として扱われたのです。
女の子は泣きました。
泣いて泣いて、目が真っ赤になるまで泣きました。
でも、ある時、泣くのをやめました。
いよいよ、男の子が戦争に行くのだという日が迫って来たときでした。
女の子は湖にむかって走りました。
湖に着くと、女の子はスカートの裾を持ち上げてしばり、水の中に入りました。
腰をかがめて、必死になって、湖の底に手を伸ばしました。
てのひらで、底の砂の中を何度も何度もかき回し、探りだしました。
跳ね上がった水で、女の子の服は直ぐに水浸しになりました。
それでも構わずに、女の子は、一生懸命に湖の底の砂の中を、手で探りました。
何時間もの長いあいだ、女の子は湖の水に浸って、手をかき回し続けました。
春とはいえ、まだ湖の水はとても冷たく、女の子の手も足も、まるで氷のように冷え冷えと凍てついてきます。
それでも女の子は、湖の中で、砂をかき回していました。
ようやく、女の子の手の動きがとまりました。
湖から出された女の子の手には、小さな貝が握られていました。
それは、湖には決して住むことのない、海辺に生きる巻貝の貝殻でした。
貝殻を、そ・・・と耳に寄せると、聞こえてきます。
男の子といつも一緒に聞いていた、あの、海の唄声です。
✽
女の子は、湖から出ました。
空はしらじらとあけはじめていました。
いよいよ、今日、朝一番の列車に乗って、男の子は戦争に行くのです。
女の子は走り出しました。
小さな手のひらに貝殻を握って、一生懸命走りました。
長いあいだ、湖に浸っていた身体は、もう氷と変わらないくらい冷たくて、足を動かすのも大変なほどでした。
けれども、女の子は走りました。
男の子が乗るはずの列車の待つ駅に飛び込むと、いままさに、男の子はのりこもうとするところでした。
――まって!
女の子は叫びました。
――これを持って行って!
呼び止められた男の子は、踵をかえして、女の子のところに駆け寄ってきました。
そしてその手のひらに、小さな貝殻が握り締められているのをみると、小さな声で、言いました。
――ありがとう。
男の子は哀しい目で、静かに貝殻を受け取りました。
そしてくるりと女の子に背中を向けると、そのまま振り返らずに、列車の方に走っていってしまいました。
男の子を乗せた列車は走り出しました。
黒い煙は、まるで死神の吐く息のようです。
女の子は、ずっとずっと見送っていました。
男の子を連れ去った列車が見えなくなるまで、見送っていました。
✽
男の子が戦争にとられて行ってしまっても、戦争はなかなか終わりませんでした。
女の子が住んでいた湖のある町にも、戦争はやってきました。
女の子は、ずっとこの町に残っていたかったけれど、お母さんやおばあさんにきびしく言われて、一緒に逃げました。
逃げた先は、とても暗くてさみしい、石造りの高い建物がひしめく街でした。
女の子は、そこでくらいくらい戦争が終わるのを待ちました。
何年も何年も待ちました。
戦争が終わるのを待つ間に、女の子は、女の子ではなくなりました。
女の子から少女に、少女から娘に、娘から女の人になりました。
そして、やっと戦争は終わりました。
あんなにも長いあいだ戦争をしていたのに、小さな小さな国も、大きな大きな国も、どちらも勝てませんでした。
でも、女の人には、どちらが戦争に勝ったのか負けたのかなんて、どうでもいいことでした。
急いで、湖の町に帰りました。
美しかった町は、ぼろぼろになっていたけれど、あの湖のだけは、姿をかえずに、ちょこんとそこにありました。
✽
女の人は、湖で、貝殻の男の子の帰りを待ちました。
町の人々は、女の人に、言いました。
もう、あの貝殻の男の子は帰っては来ないよ。
貝殻の男の子のことは忘れて、あなたはあなたで幸せにおなり――と。
でも、かつて女の子だった女の人は、わらって首を横にふるばかりでした。
けれどもその笑顔は、とてもさみしい笑顔でした。
ある夕暮れどきのこと。
女の人は、いつものように湖のほとりを散歩していました。
むかし、女の子だった頃にそうしたように、腰をおろして、湖をながめました。
でももう、どんなに風をまっても、湖は歌いません。
男の子がいないから。
海を想って唄う貝殻をもった男の子が、いないからです。
それでも、女の人は、この湖のほとりで風にあたるのがすきでした。
風にあたって、男の子との思い出と、おしゃべりするのがすきでした。
だからこの日も、女の人は、湖からの風をまちました。
けれども今日は、どんなにどんなに待っても、風が吹きません。
女の人は、かなしくなりました。
貝殻のきもちが、わかったような気がしました。
男の子が戦争にとられて行っていなくなってから、女の人は、はじめて声を出して泣きました。
✽
陽は沈んで、月がのぼり、湖面にその姿が写し出されるころになっても、女の人は泣き続けました。
膝を抱えて泣く女の人は、ふと、ぽちゃんと湖の湖面が跳ねる音を聞きました。
顔を上げました。
聞こえたのです。
男の子と一緒に聞いた、貝殻のうたを。
女の人は、立ち上がりました。
ふりかえると、そこには、見知らぬ男の人がたっていました。
けれどもその男の人の目は、とてもやさしかったのです。
女の人は、おだやかにほほえみました。
男の人と女の人の影が、並んで湖のほとりに腰をおろしました。
その様子を、お月様だけが見ていました。