2 約束
河川敷をあとにしたアカネは、昨日と同じ、海老根川と線路に挟まれた道をヨシノの家に向かって一人歩いていた。
これまでアカネは、一日一日を何となく過ごしてきた。朝起きて学校へ行き、退屈な授業に欠伸をして、放課後にはクラスの友達と遊びに行き、夜になれば夕飯を食べながらテレビを観る。
そこには特別な何かはなく、大きな波風が立つこともなく、でも、それなりに楽しみながら過ごしてきた。そんな平凡な毎日に退屈を感じることもあったが、決して大きな変化や刺激を求めているわけではなかった。
だからだろうか。アカネは自分が将来どうありたいのかなんて考えた事もなかった。
でも、今日の交流試合はそんなアカネに、確かに小さな刺激を与えた。ただ観ていただけなのに、アカネの中でほんの少し何かが動いた。
現実から目を逸らすように、アカネの机の中には白紙の進路希望の用紙が入っている。
まだこの先に高校の三年間があるといっても、今の中学生活も気がつけば残りは約半年。始まるときは長いと思っていた三年間も、終わりが近づけば短く感じた。このまま高校に進学してもあっという間に、ただ三年という時間が過ぎ去ってしまうだけなんじゃないか。中学と同じ、何事もない平凡な三年間を繰り返すだけなんじゃないか。そんな風なことを何度も思い起こしては、それから逃げるように考えをやめてを繰り返してきた。
つい先程まで行われていた交流試合。誰にも予想できなかった、夏の暑さにも負けない白熱した試合展開。第一印象からは想像できなかったナツメの真剣な表情。
どちらも、カエデに誘われなければ見ることも知ることもなかった。
今日のように、ほんの少しだけいつもと違うことをするだけで、ほんの少しだけ何かが違ってくる。どんな些細なことでもいい。最初の一歩が見つかれば今の自分から変われる、そんな気がしていた。
アカネは昨日と同じ朱い空の下、昨日と同じ道を、昨日と同じ歩幅で歩いていた。
気がつけば、アカネの前に夢見石が見えてきた。そして昨日と同じく、そこには茶トラのサクラとサクラを撫でる少年の姿があった。
「マサキ君」
名前を呼ばれた少年は、サクラを撫でていた手を止めた。
「水樹さん、また会ったね」
マサキは柔らかく微笑んだ。
「いつもここに来てるの?」
「うん……ここに何かあったような気がしてて……」
「落とし物でもしたの?」
マサキはゆっくりと首を振った。
「……なんて言ったらいいのかな。ここで何かをしたような気がするんだ」
「何かをした? う~ん……誰かと遊んだ。何かをここに埋めた。何かを見た。誰かと約束した。え~と、あとは……」
「約……束……?」
指折り数えながらアカネが挙げた言葉の一つに、マサキは反応した。ひと言こぼすと、そのままマサキは口を閉じて少し辛そうに手で頭を抑えた。約束、約束……。その単語がマサキの頭の中で反芻して鈍く響きだした。
「マサキ君? 大丈夫?」
「うん……ごめん、大丈夫。何か引っかかるものがあったんだけど……やっぱり分からなかった」
「そっか」
上手く説明できない自分を恥ずかしげに、マサキは苦笑いをした。
「ごめんね、僕そろそろ行かないと」
マサキは足下にいるサクラを撫でた。
「うん。それじゃまた……」
そのとき、ふとアカネの前に何かが見えた。それは目に見えるものではなく、アカネにしか見えない、いつだったか見たことのある情景が。
「マサキ君!」
アカネに背を向けて歩き出していたマサキは足を止めた。
とっさにマサキの名前を呼んだものの、なぜそうしたのかは分からなかった。次に続く言葉が出てこない。
「水樹さん、どうしたの?」
「うん。えっと……その……」
アカネは動揺した。何を言おうとしたのか、何を言うべきか。頭の中でさまざまな単語が浮かんでは消えていく。そして、最後に浮かんだ単語をとっさに声にした。
「還魂祭っ!」
「え……?」
「そ、そう。還魂祭。明日から始まるでしょ。友達と一緒に行く予定なんだけど、よかったらマサキ君も一緒にどうかなって……」
マサキは少し困ったように眉を下げて考え込んだ。
「あ、無理とか嫌だったらいいよ」
「ううん、そうじゃないよ……。行けるかどうか分からなくて……」
返答に困った様子で、マサキは言葉を濁らせた。
「友達とは明日の六時に、緋桐神社の前で待ち合わせしているから。その、気が向いたら……」
「……うん、分かった」
「そ、それじゃあ、また明日」
マサキ君が来るかどうかまだ分からないのに、何で〈また明日〉なんだろう。
動揺と恥ずかしさとがアカネの顔を紅くさせた。とっさに出た言葉とはいえ、なぜ自分がマサキを誘おうとしたのか分からなかった。
早口に会話を終わらせると、アカネはサクラを抱いたままマサキの前から逃げるように駆け出した。
一秒でも早くマサキから遠ざかりたかったが、線路を渡ろうとしたところで踏切が降りてきてアカネの足を止めた。アカネは大きく息を吸い、盛大なため息をついた。ほんの少し、落ち着きを取り戻した。
鳴り響く踏切の警報音が、やけに耳について離れなかった。やがてそれは大きくなり、アカネの思考を奪った。そしてまた、ふいに何かの情景が目の前に広がった。ついさっきの情景と違うものの、どこかで繋がっている気がした。
それが何か分かった。
いつも見ている〈あの夢〉だ。小さな男の子と女の子の姿。
それに加えて、頭から離れない三つのキーワード。
〈また明日〉〈踏切の警報音〉〈マサキ君〉
不思議とそれらが繋がっているように思えた。共通点は何一つない。それでもアカネは、確信に近いものを感じ取っていた。でもそれは、何かを思い出そうとして思い出せない、白い靄がかかったようにはっきりとはしなかった。
――どこかで聞いたことがある気がしたんだ、君の名前。
何かを思い出すということは、何かを忘れているということ?
あたしは、マサキ君に会ったことがある?
マサキ君は、あたしのことを知っている?
あたしとマサキ君は、何かを忘れてる?
沈みかけた夕陽の残照は、町も空も視界に入るすべてを朱く染め上げていた。昨日と同じ夕陽のはずなのに、今のアカネには不安を煽られているように思えた。
電車が通り過ぎて警報音が止むと、ゆっくりと踏切が上がった。しかしアカネの耳には、いつまでも警報音が鳴り響いて思考を妨げ続けていた。