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あの日、透明な想い  作者: 中澤ミサキ
二  ただ真っ直ぐに
6/12

1  白球の行方



 太陽は真上から僅かに西へ位置し、夏の暑い日射しを降り注いでいる。その熱さを増すかのように、蝉の鳴き声が響き渡る。清々しいまでに晴れ渡った青空の下、海老根川の河川敷にある野球グラウンドには人集(ひとだか)りができていた。

 午後一時四十五分。賢木町とその隣に位置する大井町による、野球の交流試合が始まろうとしている。グラウンドの隅では、ケガをしないようにと念入りにストレッチをする参加者たちが姿が見えた。

 グラウンドの周りには、交流試合を見ようと五十人ほどの観客たちが集まっていた。といっても、そのほとんどは参加者の家族であったり職場の同僚だったりする。

 球場のように観客席があるわけではないので、観客たちはそれぞれ持ち寄ったビニールシートを敷いて、場所を確保していた。参加者たちの控えベンチも、それぞれ町が用意した仮設テントと折りたたみのパイプ椅子といった簡素なものだった。まるで小学校の運動会を思わせる光景だ。

 さらにその周辺には、かき氷やアイス、焼きそばなどの露店も出されていた。商店街同士による交流試合とはいえ、毎年ちょっとしたお祭り騒ぎとなっている。おそらく参加する父親の応援に来たと思われる子どもたちが、露店の前に列を作っていた。

 カエデはアカネが来るのを待ちながら、その賑わいを土手の上から眺めていた。

 暑い日射しから頭を守るために、少し大きめの麦わら帽子を被っている。時折吹きつける風がカエデの麦わら帽子を揺らし、そのたびにカエデは帽子のつばをつかんだ。

「カエデー!」

 遠くから聞こえる声に、カエデは振り返った。

 半袖のTシャツに膝上十センチほどのハーフパンツ姿のアカネが、手を振りながら駆け寄ってきた。

「ごめん、お待たせっ」

 息を切らしたアカネに、カエデは「ううん」と首を振った。

 カエデは肩に掛けていたトートバッグからシートを取り出すと、土手の斜面に広げた。シートに座ったアカネは首に掛けていたタオルを頭に被せて、夏の日射しを遮る。ポケットから懐中時計を取り出して時間を見ると、試合開始の二時まであと数分だった。

「そろそろ始まるかな」

 二人が河川敷の方へ目線を向けると、参加者たちがグラウンドへ集まりだしていた。参加者のほとんどが四十代の男性ばかりで、その中で唯一の十五歳のナツメは明らかに目立っていた。

 試合とはいっても、高校野球やプロ野球のようなぴりぴりとした空気はなく、参加者も観客も純粋に楽しむための試合という雰囲気だ。

 試合は通常の野球通り、九回まで行われる。ただし、同点でも延長戦はなく、どんなに点差が開いても七回コールドで試合終了にもならない。特殊なルールとしては、三回裏と六回裏が終了したときに十分の休憩が挟まれることくらいだった。これは、熱射病と参加者の年齢を配慮してのことだ。

 勝利チームには、相手チームが持ち寄った景品が貰えることになっているが、それでも試合の結果にこだわる人はいない。稀に高価な景品もあったが、それでも景品目当てで試合をする者はいなかった。昔から、参加者のほとんどが交流試合という名のお祭りを楽しんでいた。

 相手の大井チームのメンバーがグラウンドに散らばり、それぞれの守備についた。

 両チームとも特にユニフォームが用意されているわけではない。各自が思い思いの動きやすい服装で来ている。

 アカネが手にした懐中時計の針が午後二時を指すと同時に、審判の試合開始を告げる声が発せられた。



 今朝の天気予報では、気温は三十度近くになると言っていた。

 真夏の陽光が降り注ぐ中、両チームの選手たちはまさに滝のような汗をかいていた。

 試合は六回裏が終了し、二度目の休憩に入る。河川敷の野球グラウンドには、開始時からは想像もできないほどの、緊張感に覆われていた。

 現在二対二の同点。均衡状態を維持していた。これまでの交流試合では、乱打戦となる派手な試合か、得点差が大きく開く一方的な試合になるかのどちらかだった。

 しかし今年は違っていた。試合が始まった当初は、両チームとも例年通りの賑やかに相手チームとの会話も楽しみながら行われていた。だが、お互いに一歩も譲らない試合展開が続くと、次第に両チームとも試合に対する姿勢に変化が現れ始めた。

 両チームとも三回までのスコアボードには数字の0が続いていた。そしてついに四回表に賢木チームが待望の一点を得ると、その裏で大井チームが一点を取り返し、再び同点に。五回表で賢木チームに得点が加わると、六回裏で大井チームが再び追いついた。

 均衡した試合運びになった大きな要因は、両チームのピッチャーにあった。賢木チームは、〈チーム内で一番若い〉という理由だけで選ばれた周防ナツメ。大井チームは三十代後半の甲子園出場経験者の元高校球児。この二人の活躍で、過去のような派手な試合展開にはならなかった。

 やがて二人の好投は両チームに良い緊張感を生み、今では単なるお祭りとは誰も思っていなかった。ソロホームランや鮮やかなダブルプレーなどの、これまでの交流試合では見られなかった好プレーがいくつか生まれた。

 選手たちの緊張感は、やがて試合を見ていた観客たちにも伝わり、暑い日射しの中、誰もが夏の日射しに負けないほどの熱い歓声を送っている。

「ねぇ、カエデ。交流試合って、毎年こんなに凄かったっけ……?」

「ううん。違ったと思う……」

 嫌いではないが、とくに野球というスポーツに思い入れがないアカネとカエデでも、予想外の展開に少しずつ試合に見入っていった。

 第一印象でナツメのことを快く思っていなかったアカネだったが、今は少しだけ見直していた。大人たちが談笑しながら取り組んでいた試合に、ナツメは最初から真っ直ぐに試合と向き合っていた。

「芯が強くて何に対しても真っ直ぐ……か」

「えっ、何?」

 周りの歓声に聞き取れなかったカエデは、アカネのつぶやきを聞き直した。

「ううん、何でもない」

 アカネは慌てて首を振った。

 カエデは「そう?」と言い、再びグランドの方へ目線を戻した。

 カエデの手には、汗が染みこんだハンカチが握られている。そして目線の先には、ベンチで水分補給をしているナツメの姿があった。

 ハンカチに染みこんだ汗は、きっと夏の暑さのせいだけじゃないんだろうなと、アカネは思った。



 空を仰ぐように、ナツメはペットボトルに入った栄養ドリンクを喉へ流し込んだ。

 夏の暑さと試合の熱さとで火照った身体が胃の中から急激に冷やされ、それが全身に伝わっていくのを感じた。

「ナツメ、お前やるじゃないか」

「いや、そんな……」

「いやいや、たいしたモンだよ」

「今までこの交流試合で、こんなに均衡した展開なんてなかったよな」

 大人たちは笑いながらナツメの肩を叩いては、次々とナツメの活躍を褒め讃えた。

「向こうのピッチャーもたいしたヤツだな」

「なんでも、高校時代に甲子園に出場したことがある、と言ってましたね」

「なぁに、ナツメも負けちゃいねぇさ」

 かつてない好試合に、大人たちは高揚感を抑えきれないでいた。

 試合が始まった直後は、息子が小学生になった、この前カミさんに怒られたなどの、他愛もない会話がなされていた。しかし今は、誰もがこの試合に集中して、残された三回をどうするかを真剣に考えていた。

 両チームが身体を休めつつ、真剣に作戦を練っていると、グラウンドにいた審判が十分の休憩が終わったことを告げた。

 大井チームが再び守備につく。その顔つきは賢木チームと同じく、真剣な面持ちになっていた。

「いいねぇ。向こうも俺たちと同じらしい」

「ここまできたら、誰も負けてもいいなんて思っていませんね」

「あぁ、とことんやるしかないだろ」

 賢木チームは円陣を組んで、大きな声で気合いを入れた。

 その声に観客たちから、盛大な歓声が沸き起こった。

 ナツメはふと、客席を見渡した。試合が始まった当初は五十人ほどだった観客が、いつの間にか優に百人を超えていた。いや、もっとかもしれない。グラウンド周辺はもちろん、土手やその上の道にまで人で溢れていた。誰もが、この好試合に注目していた。

 ナツメは観客の中にカエデの姿を探したが、見つけることはできなかった。

 最後の休憩が終わり、緊迫した試合は七回表を迎える。



 賢木チームの攻撃は残念ながら得点に結びつくことなく終わった。だが、七回裏に大井チームに一点が入って一歩リードすると、八回表で賢木チームがすかさず追いつき、再び三対三の同点となった。

 試合はついに最後の九回。たとえ一点でもリードできればかなり有利になる。しかし賢木チームの最後の攻撃は、大井チームの好守備に阻まれ追加得点が得られないまま終わってしまった。

 そして迎えてた九回裏。ランナー一人を二塁に置いた状態でアウトは二つ。バッターボックスには、甲子園経験者でこの試合ではピッチャーを務めている元高校球児が立っていた。

 交流試合のルールとして、同点でも延長を行わないことになっている。そのため、すでに攻撃が終えた賢木チームに勝利はあり得ない。引き分けか負けかのどちからだ。

 その状況下で、今回好試合の立役者である二人による最後の対決となった。

 夏の太陽は西へと遠ざかり、空はほんのりと朱く染まり始めていた。日射しは弱まっても河川敷の熱気は冷めることはない。

 休憩を挟みつつも、緊迫した試合展開に両チームともすでに満身創痍だった。参加者の中で一番若く、体力もあるはずのナツメでさえ、疲労の色は隠しきれない。

 歓声は衰えることなく、さらに大きくなっていた。その中で、アカネとカエデは静かにマウンド上のナツメを見守っている。

 ナツメの投げた第一球は、ストライクゾーンを僅かに外れた。

「ねぇ、カエデ」

「何? アカネちゃん」

 二人は言葉を交わしながらも、目線はマウンド上から逸らすことはなかった。

「もう最後だね」

「うん」

「ナツメ君、応援しないの?」

「え? してるよ……?」

 言葉の意味が分からず、思わずアカネを見た。

 ナツメの第二球目は相手のバットにかすり、ボールはキャッチャーの遥か後方へと飛んでいった。1ストライク1ボール。

「そうじゃなくて。声、掛けなくていいの?」

「声……? 周防君、ガンバレって?」

 アカネは小さく首を振った。

「ナツメ君。名字じゃなくて、名前で」

「名前で? どうしたの、アカネちゃん?」

 アカネは目線をグラウンドに向けたまま続けた。

「正直言うと分かんない。何となく、かな……」

「…………」

「周りはこんなだけど、その方が声が届くんじゃないかって」

 ナツメの第三球目は、汗でボールが滑った。危うく後方へ抜けていきそうになるところを、キャッチャーが身を挺してそれを防いだ。1ストライク2ボール。

 カエデがマウンドに目線を戻すと、Tシャツの裾でボールと自身の手の汗を入念に拭き取っているナツメの姿があった。

「私、声そんなに大きくないよ。それでも届くかな?」

「……ごめん、分かんない」

 言い出しておきながら、アカネは自信なさげに目を伏せた。自分でも、なぜこんな事を言い出したのかよく分からないでいた。

 第一印象は最悪だったのに、今ではナツメに対する印象は変わっていた。カエデに対しても交流試合に対しても、不器用ながらも真っ直ぐなナツメの姿勢がそうさせているのかもしれない。

「でも……届かなくても伝わるんじゃないかな」

「アカネちゃん……」

 ふいに鈍い金属音が響くと、鋭く低く飛んだボールは一塁線から大きく外れた。観客からは安堵とも落胆とも言えない声が洩れた。

 ボールカウントは2ストライク2ボール。

 審判から新たなボールを受け取ったナツメは、大きく深呼吸した。

 野球経験者ではないナツメには、球種はストレートしかない。カーブやシュートといった変化球を投げる技術は持っていなかった。それでも。コントロールと球威が良かったため、ここまで好投ができていた。しかし、この最終局面でそれも鈍りつつある。

 ナツメは右手で、縫い目に合わせてしっかりとボールを握り直す。

 歓声は最高潮に達していた。その中にあっても、ナツメは集中力を欠くことはないように見えた。

 ナツメをじっと見つめていたカエデは、ゆっくりと静かに瞼を閉じた。両手でハンカチを握りしめるカエデの姿は、アカネにはまるで祈るように見えた。

 大きく息を吸ったカエデはきつく目を閉じて、

「ナツメ君! 頑張れぇぇぇっ!!」

 周りの歓声にも負けないほどの大きな声。付き合いが長いアカネも驚くほどの大きさだった。それは、カエデが生まれて十五年のあいだで一番大きな声だ。

 二人にはその声がナツメに届いたのかどうかは分からなかった。

 ナツメは、ふと顔を上げて意を決したように大きく振りかぶる。

 ナツメの右手からキャッチャーミットに向かってボールが投げ出された。

 それは、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに向かっていった。



 夕陽が地平線に触れる頃には、河川敷の熱気もすっかり下がっていた。僅かに残った微熱を風が拭い去っていく。

 プロの試合にも劣らないほどの盛り上がりを見せた交流試合は、大歓声に包まれたまま幕を下ろした。

 0と1の数字が並んだスコアボードには、九回裏の場所に白いチョークで1と×が書き込まれている。

 試合が終了した瞬間には、観客から大歓声が涌き起こった。そして、両チームには健闘を讃える拍手が送られた。

 どちらのチームにも同じ笑顔があった。そこには勝敗を超えた、純粋に野球を楽しんだ人たちの姿があった。互いに手を取り、肩を組み、大の大人たちが子どものように笑っていた。

 ただ一人、ナツメの顔にだけは笑顔はなかった。悔しさに歯を食いしばるわけでもなく、力及ばず負けたことに涙するわけでもなく。ただ全力を出し切ったあとの、まったく飾り気のない素の表情があった。

「ナツメ、よくやったな」

 一人がナツメの頭を荒々しく撫でながら言った。

「まったくだ。まさかこんな試合になるなんてなぁ」

「相手ピッチャーもそうだが、お前の功績でもあるな」

 チームの大人たちは、一同にナツメの奮闘に賛辞の言葉を贈った。

 ナツメは照れながらも、戸惑いを隠しきれなかった。

「カエデの言ってたとおりだったね」

 その光景を眺めていたアカネは言った。

「え……?」

「芯が強くて真っ直ぐって……」

 グラウンドではいつの間にか、ナツメの胴上げが始まっていた。それはまるで勝利投手を祝うかのようにも見えた。

「ほら、行っておいでよ。ナツメ君のところに」

 アカネは両手でカエデの背中を押し出した。

「え、ちょっとアカネちゃん?」

「いいから、いいから」

 アカネは手をひらひらと振りながら、やや強引にカエデを送り出した。カエデは一つ頷くと、グラウンドにいるナツメのもとへと歩き出した。

 長い胴上げが終わり、ようやく降ろしてもらえたナツメはカエデの姿に気づいた。

 アカネには二人がどんな言葉を交わしているのかは分からない。だが、時折見せる二人の照れくさそうな笑顔を見て、安堵の息をついた。

「さてっと……」

 すっくと立ち上がり、両手を挙げて大きく伸びをした。

 二人に声を掛けることなく、アカネはそのまま河川敷を離れた。



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