2 動き出す想い
昨日までの雨が嘘のように、賢木町の空は夏の青空が広がっていた。
朝から行われていたヨシノおばあちゃんの葬儀も無事に終わって、何とか泣かずに見送ることができた。寂しくないって言ったら嘘になるけど。でも、大丈夫。少しずつだけどヨシノおばあちゃんのために、無理せず笑えるようになってきているから。
賢木町に来てから今日で一週間。本当にいろんな事があった。そのほとんどが、賢木町に来る前まで想像していたものとは、かけ離れていた。昔のようにカエデと遊んで、ヨシノおばあちゃんと他愛もない話しをして。そしてチョウジおじいちゃんの法要が終われば、またいつもの日常がやってくる。そんな風に考えていた。
カエデと二人で見た交流試合。夜の還魂祭。ヨシノおばあちゃんと猫のサクラの死。そして……。あたしには、まだ解決していない問題があった。ううん。答えはもう分かってる。ただ、それを確かめることができないだけ。もう少し時間があれば、何か方法があったのかもしれないけど、明後日にはあたしの進路を報告する登校日が控えている。今日にはもう帰らなきゃいけない。ここじゃなくて、今のあたしの生活がある、あの町に。
お母さんはまだやることがあると言って、もう少し賢木町に残ることになった。親戚の大人たちが話していた内容は、何となく聞こえていた。チョウジおじいちゃんもヨシノおばあちゃんも、そしてサクラもいなくなったあの家をどうするのか。たぶん、そのことだと思う。
あの家にはもう、誰も住む人がいない。無くなっちゃうのかな。それとも、あのマンションのように知らない家族が住んだりするのかな。それは嫌……。それだけはしないで欲しい。でも、どんなにあの家のことを思っても、まだ中学三年の子どものあたしにはどうすることもできない。頭ではあの家のことを考えながらも、あたしの足は確実に賢木駅へと向かって歩いていた。
とくに名産物もない賢木町では、この町ならではのお土産というものはなかった。だから、来たときと変わらない同じ大きさのバッグを抱えたまま賢木駅に到着した。
駅の前には、カエデとナツメ君が見送りに来てくれていた。
「カエデ……」
「何だか、あっという間だったね」
カエデはいつもと変わらない柔らかい笑顔で言った。ナツメ君は気を遣ってくれたのか、あたしたちとは少し離れたところで待っていた。そう言えば、ナツメ君と初めて会ったのもこの駅だったな。なんだか、遠い昔のことのように感じる。
「うん、そうだね」
「ねぇ、またいつか戻ってくるんでしょ?」
「いつになるかは分からないけど……うん、また来るよ。必ず」
「その時は連絡してね。いつでも待ってるよ」
「うん、ありがと」
あたしはそれ以上は何も言わないで、来たときと同じようにカエデに抱きついた。カエデはこういう子だから、きっと今度戻ってきたときも変わらずあたしを迎え入れてくれると思う。あたしは、カエデがいてくれてホントに良かったと思う。
カエデから離れて、あたしは真っ直ぐナツメ君のところへ向かった。
「ナツメ君、元気でね」
「おう……水樹もな」
どこか不器用なナツメ君の返事は、申し訳ないけどちょっとおかしかった。あたしはカエデに聞こえないように小声で、
「カエデのこと、よろしくね」
「なっ……何言ってんだよ! おま……そんなの水樹には関係ないだろ!」
「照れない、照れない」
恥ずかしさに顔を朱くするナツメ君は、本当に面白い。あたしはナツメ君の背中を叩いて、その背中をカエデの方へと押しやった。
「それじゃあ、二人とも。またね」
互いに手を振りながら、あたしは改札を通り抜けた。振り向けば、カエデは笑顔で大きく手を振っていた。その隣でナツメ君は、少しふてくされた様子で小さく手を振っている。よかった。二人のおかげで、あたしは笑って賢木町から出て行けそうだ。
肩からズレ落ちかけたバッグを抱え直して、あたしは線路の向こう側にあるホームへと向かう。ホームのすぐ隣には、いつも通ったあの長くて真っ直ぐ伸びた道が併走している。そのさらに奥には海老根川も見えた。
夕陽に照らされた海老根川は、キラキラと輝いていた。それが眩しくて、あたしは目を細めながら辺りを見渡した。町は確かに少しずつ変わっていっているけど、この景色は四年前に見た景色と同じだった。あたしにはそれが、ちょっと嬉しかった。
あたしは目に焼きつけるように、右から左へとゆっくりと視線を動かした。その中に、見慣れた石が見えた。そしてその隣には……。
「マサキ……君」
いつものように、マサキ君が夢見石の隣にいた。町を赤く染める夕陽の中にいても、マサキ君の白い肌は染まることなく、透き通って見えた。マサキ君はどこか少し寂しげな表情で、じっとあたしを見つめている。
あたしはマサキ君に届くくらいの声で、
「ねぇマサキ君。あたしね、この町に来る前からずっと悩んでた。今、中学三年生で、何もやりたいことが見つからなくて。周りの友だちは、行きたい高校や自分のやりたいことを見つけ始めてるのに……」
本当はマサキ君とはいろんな事を話したかった。いろんな事を聞きたかった。確かめたいことがたくさんあった。そのことだけが漠然と頭の中をぐるぐると渦を巻いている。
「そんな気持ちのまま、四年ぶりに賢木町に帰ってきて。いろんな事があったんだ。本当にいろんな事があった……」
本当だよ。それはもうひと言ではいい表せないくらい、たくさんあった。
「楽しいことも、悲しいことも、たくさんあった。その中で、ようやく分かった気がしたんだ。あたしは何をしたいのか、何ができるのか」
マサキ君は何も言わず、ただじっとあたしを見つめて、あたしの声を聞いてくれていた。どこか少し寂しげな表情のままで。
「あたし、やっと前へ進めるような気がする。変われそうな気がするんだ。あ、いや……ホントの事を言うと、具体的には分かってないって言うか……」
頭の中では、たくさんの言いたいことが、ぐるぐると渦を巻いている。それはいつまで経っても治まる気配はない。
「だけどまずは……うん。少し、髪を伸ばしてみようと思う」
――あたしは何を言っているんだ。
ダメ。頭がまともに働かない。自分の意思とは関係なく、口が思いつくまま言葉を吐き出している。頭も身体も、自分じゃないみたいだ。
少しだけ外にはねた横髪の先端を指先でいじりながら、口は勝手に動き続ける。
「髪を伸ばすことに何の意味もないかもしれないけど、そういった身近というか簡単なところから、ちょっとずつ変えていこうかなって」
――そうじゃない。
何も考えがまとまっていないのに、あたしの意思とは関係なく、言葉が勝手に出て行く。でも、そうと分かっていても、それを止める方法は分からない。
「ほら、見た目が変われば印象も変わるでしょ? 周りからの印象が変われば、少しずつ自分自身が変われるかもって」
――そういうことが言いたいんじゃない。
あたしは変わりたいのかな?
変わりたいと思うのはただのきっかけ。そうじゃない。
じゃあ、何がしたいんだろう? 何が言いたいんだろう?
今、マサキ君に何を言うべきなのか。
「そうやって自分は変われたんだって実感できたら、少しは前へ進めるんじゃないかって」
――違う。あたしが本当に言いたいのは……。
「あ、あのマサキ君。あた、あたし……は……」
遠くから何かが近づいてくる音が聞こえた気がした。でも、今のあたしには、それが何の音かなんて分からないし、気にしている余裕なんてない。
心臓の鼓動は激しく打ち続けて、耳鳴りのように鳴り響いた。体温はどんどん上がっていく。きっと顔は、それこそ火を噴きそうなくらい真っ赤に違いない。それはもう、みっともないくらいに動揺しているように見えているじゃないかと思う。
大げさでなく一大決心をしたあたしは、わずか五メートルほど前にいるマサキ君に向かって心の底から自分の意思で言葉を吐き出した。
「あたしは、マサキ君が――」
次の瞬間、あたしのすぐ後ろを、けたたましく大きな警笛を鳴り響かせながら快速電車が通り過ぎていった。のどが裂けるようなあたしの言葉と一緒に。
やっとの思いで、自分の意思で吐き出した言葉は見事にかき消されてしまった……。もしこの状況を誰かが見ていたら、きっと漫画を見ているように思えたかもしれない。あたしは、その漫画のような状況に言葉を失い、そんなあたしを見ているマサキ君は何も言わずに、ただじっとあたしを見つめている。
どれくらいの時間が流れたんだろう。五秒? 十秒? 一分?
分からないけど、あたしとマサキ君のあいだに降りた沈黙は、ほんの短いあいだのようにも、ものすごく長いようにも感じられた。時が止まるとは、まさにこのことだ。
そうして、ようやく冷静さを取り戻したころ、自分の置かれた状況に思わず吹き出してしまった。笑った。可笑しくて、可笑しくて、みっともないくらい大きな声で笑った。
ここが田舎町でよかった。今ここには、あたしとマサキ君の二人きり。他に誰もいない駅。電車は昼間でも三十分に一本という小さな駅。人の通りも少ない。そのおかげで、今のあたしを変な目で見る人は誰もいない。
笑いすぎて涙が出てきた。自分でも気づかないうちに、みっともないくらいに、泣いた。笑い声はいつの間にかどこかへ消えていて、それはただの泣き声になっていた。
答えを聞くのが怖かったあたしは、電車がこなかったとしても、自分の思いをきちんと言葉で伝えられたかどうか分からない。伝えられなかったことが悔しいのか、伝えられなくてほっとしているのか。自分の思いがどこにあるのか、どこを向いているのか。
かき消された言葉と想い。あたしは自分で何と言ったのかさえ分からなくなった。そんな自分にまた、涙が溢れてくる。
赤ちゃんは言葉を喋れないから、だから代わりに泣くのよ。
何がしたいのか、何を言いたいのか。
それを周りにいる大人たちに伝えるために泣くの。
でもそれは大人だって同じこと。
急にお母さんの言葉を思い出した。
あぁ、そうか。
――言葉にならない想いは涙になるんだ。
ヨシノおばあちゃんが亡くなった夜もそうだった。何も言えなくて、何もできなくて、泣いた。
あたしは今、言葉にならない想いを伝えようとしているんだ。かき消された言葉を伝えようとしているんだ。そう思ったら、もう、止まらなかった。たくさんの想いが次から次へと溢れては、頬を伝ってこぼれ落ちた。あたしは、ただ、泣くことしかできなかった。
ヨシノおばあちゃんが亡くなった夜、これでもかというくらい泣いたのに、今はそれ以上に泣いているような気がする。あのときは、一生分の涙を流したようにも思えたのに。
そっか。涙が人の想いなら、涸れることなんてないんだ。人はきっと、生きている限り誰かのことを想うはずだから。
ぽたぽたと、駅のホームに落ちる涙がぼんやりと視界に入ってきた。夕陽は西の空に沈みかけて、空も町も目に映るすべてを茜色に染まっていた。あたしと同じ名前の色に。
夏の暑い日射しに照らされ続けていたホームは、夕方の今でも少しだけ熱をはらんでいる。涙の粒を吸収して、それが確かにそこにあったという証だけが残った。まるでこの町が、あたしを受け止めてくれているような気がして嬉しかった。
夕方の少し冷えた風が、駅のホームを穏やかに駆け抜けていく。あたしの頭を優しく撫でてくれているようで、心地よかった。
あたしは、ヨシノおばあちゃんの形見となった夢見石のネックレスを、両手でぎゅっと強く握りしめた。強く願った。
――一粒でもいいから、どうかこの想いがマサキ君に届きますように。
これはあたしの初恋だ。四年前は気づかなかった、初恋なんだ。
あのとき、この気持ちに気づかないままあの事故が起きた。いつものように遊んで、いつもと同じ夢見石があるあの場所で別れて。あたしが踏切で待っているときに、あの事故は起きた。
踏切の警報音が鳴り止んだとき、何かが転がる音がして。あたしが振り向いたら、マサキ君が猫を抱えたまま、たくさんの血を流して倒れていた。マサキ君を撥ねた車は土手の下へと転がり落ちていた。マサキ君の腕から逃れた猫を抱き上げて、ただ泣くことしかできなかった。
そういえばあの猫、あれからあたしが無理を言ってヨシノおばあちゃんのところで飼ってもらうことになったんだっけ。猫好きのマサキ君が守った、年老いた茶トラの猫。
時間や記憶と一緒に、あたしの初恋は止まっていたんだ。それが、四年経った今になって動き出した。やっと動き出した。だから気づけたんだ。
マサキ君はずっと、寂しげな表情を含んだ笑顔のままだった。
ひとしきり泣いたあたしは、少しずつ冷静さを取り戻した。
あたしは指先で涙を拭いながら、
「ねぇ、マサキ君……」
ついさっきまでさんざん泣いたのに、今では自分でも驚くくらい穏やかで清々しい気持ちだった。四年分の想いを吐き出したからかな。
「また、明日ね」
また明日会おうね。それは四年前にマサキ君と交わした最後の言葉。
マサキ君は、幼い頃に見せてくれた少し大人びた優しい微笑みを浮かべていた。その目には初めて見る一筋の涙があった。
あたしは、叶わない約束を口にした。
約束は果たされたらそこで消えて無くなるけど、果たされなかったら永遠に残るんじゃないかって。何となくそんなことを考えていた。
あのときの約束は四年越しに叶ってしまった。だからもう一度、同じ約束をしたかった。何でもいいから〈残るモノ〉が欲しかった。
あたしはきっと、これから少しずつ変わっていく。でも、何もかもが変わってしまうのはちょっと怖いし、ちょっと寂しい。だから、ほんの些細なものでもいいから欲しかったんだと思う。変わらないもの。無くならないもの。ずっと変わらずに、そこに残ってくれるものが。それが、これからのあたしの支えになってくれるんじゃないかって思えたから。
あたしが住んでいたマンションには別の家族が暮らしている。小さい頃よくお菓子を買ったアベマキ商店はやがてなくなる。大好きだったヨシノおばあちゃんとサクラはもういない、そして……。
でもあたしは、確かにここにいる。今こうして笑って、泣いて、生きている。生きているなら前に進むしかない。進まなきゃいけない。過去は引きずるためにあるんじゃない。進むことに疲れたとき、振り返るもの。振り返ったとき、それが昔と変わらずそこにあると安心する。そして安心したらきっと、また前へ進むことができる。
あたしにはまだ、自分の将来は見えないし、何がやりたいかなんて分からない。
けど……うん、もう大丈夫。
いつの間にか賢木駅のホームに停車していた電車に、あたしは乗り込んだ。振り返るとそこには、もうマサキ君の姿はなかった。代わりに、少し気が早い一匹の蛍が夕闇の中をふわふわと飛んでいた。陽は沈んでなくて辺りはまだ明るいのに、自分は確かにここにいるんだと、優しくも力強い緑の光を輝かせていた。それから空高く飛んでいき、やがて見えなくなった。
あたしはつい一週間前に、賢木町へ来たときと同じように電車の中で目を閉じた。泣き疲れたこともあって、すぐに眠ってしまった。でも、いつものあの夢はもう見ることはないと思う。
何度も見てきた、男の子と女の子が登場するあの夢。
色があるのかどうかも分からない、音のない不確かなあの世界。
女の子が猫を抱えて泣くこともない。
――だってあたしは、もう前に進めるから。
〈終〉
今回の話で、この物語は終わりになります。
至らないところが多々ある話にも関わらず、
くじけずに最後までお付き合いいただいた方には感謝いたします。
ありがとうございました。
ご意見・ご感想はいつでもお待ちしております。
気兼ねなく書いていただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。