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あの日、透明な想い  作者: 中澤ミサキ
四  独白
11/12

1  初めての出会いは



 疲れ果てるまで泣き続けたあたしは、気がつけば布団の中にいた。気怠い身体を起こして目を開くと、窓の外はどこか薄暗い。昨日の夜に降り出した雨は、強まることも止むこともなくまだ降り続いている。

 さんざん泣いたせいかな。目の辺りにはまだ微熱が残っている。たぶん、鏡を見たらひどい顔になってるんだろうな。まずは顔を洗わなきゃ。

「アカネ、起きたのね」

 顔を洗っている最中に、後ろからお母さんの声が聞こえた。あたしはタオルで顔を拭きながら、くぐもった声で「んんっ……」とだけ返事をした。

「起きたばっかりで悪いけど、今日のお昼過ぎからおばあちゃんのお通夜やるから。今日も制服着なさいね」

「…………」

 あれだけ泣いたのにも関わらず、次の日が始まれば昨夜の出来事は実は夢で、縁側に行けばいつものようにヨシノおばあちゃんが座っているんじゃないか。そんなことを心のどこかで願っていた。でも今日という時間は、確実に昨日と繋がってる。無かったことになんて、ならなかった。あたしは拭いていたタオルを強く顔に押しつけた。

 あたしの知らないところで、通夜の準備は着実に進められていた。あたしが泣いている時も、泣き疲れて眠っている時も確かに時間は流れている。その流れに沿うように、大人たちによって冷静に葬儀の準備は進めてられていた。こういうとき大人ってすごい、と思う。あたしは自分のことでいっぱいなのに……。

 制服に着替えてお母さんと一緒に会場へ向かうと、すでにいくつかの弔問客の姿があった。あたしはお母さんに言われるまま、おとなしく椅子に座った。それからしばらくして、葬儀社のスタッフが通夜の段取りの説明を始めたけど、耳には入ってきても頭の中までは伝わってこなかった。

 そうしてヨシノおばあちゃんの通夜が粛々と行われた。あたしはただぼんやりと、大きく引き伸ばされたヨシノおばあちゃんの写真を見つめていた。写真にはあたしの大好きな笑顔があった。皺の多い、くしゃっとしたあの笑顔。

「アカネ、あの写真知ってる?」

 隣に座っていたおかあさんが、小声で耳元に呼び掛けてきた。あたしは記憶にないと首を横に振った。

「あれはね、あなたが生まれたときに撮ったものなの。あの写真はおばあちゃんだけが切り抜かれてるけど、本当は膝の上に赤ちゃんの頃のあなたが抱かれているのよ」

「…………」

「おばあちゃん、良い笑顔してるでしょう? あの笑顔は、あなたのおかげね」

 写真の中のヨシノおばあちゃんは本当に幸せそうに笑っていた。そうさせているのが、自分にあると言われたとき素直に嬉しかった。ヨシノおばあちゃんに何もしてあげられていないと思っていたけど、自分がいるだけで笑顔にしていたことを知って、少しだけ救われた気がした。

 伏し目のあたしの前に、お母さんがすっとハンカチを差し出してきた。それを見て初めて、あたしは自分が泣いていることに気づいた。お母さんのハンカチは受け取らずに、ポケットから自分のハンカチを取り出して涙を拭った。少しずつだけど、厳かに流れる時間とともにヨシノおばあちゃんの死を受け止められるようになった。



 会場の外へ出ると、昨夜から降り続いていた雨は止んでいた。厚い灰色の雲はまだ賢木町の上空に広がっていたけど、わずかに見える雲間から陽の光が差し込んでいるのが見えた。

 通夜が終わったあと、あたしは一人、曾祖父のお墓の前に立っていた。雨に晒された墓石はまだ濡れていて、墓石の表面を滴る雨粒は泣いているようにも見えた。

 あたしは静かに手を合わせて目を閉じて、

「チョウジおじいちゃん。ヨシノおばあちゃんがそっちに行ったよ。おばあちゃんがいなくなって、やっぱりあたしは悲しくて寂しいけど……。でも、これからおじいちゃんとずっと一緒にいられるなら、きっとおばあちゃんは笑っていられると思う。あたしの好きなあの笑顔で。だから……」

 胸の前で合わせていた手をゆっくりと下ろして、目の前の墓石を見つめた。

「あたしは大丈夫。おばあちゃんが笑ってくれているなら、あたしはもう大丈夫。だから、おじいちゃん。おばあちゃんと仲良く、元気でね」

 どこにいても二人一緒に元気でいられますように。二人が笑顔でいられますように。前にヨシノおばあちゃんが夢見石にそう願ったように、あたしもまたそう願った。

 気がつけば空を覆っていた雲は遠くに見え、頭上にはうっすらと朱に染められた空が広がっていた。差し込む陽光に照らされて、胸元で夢見石が本来の輝きを取り戻していた。

 一呼吸してから、あたしは墓石から離れて静かに歩き出した。重苦しい足取りはなく、たぶん顔には今の空と同じように晴れ渡った表情が広がっている。

 どこかの家族かな。黒い服で統一された家族が、墓石の前で手を合わせていた。邪魔にならないよう、ゆっくりと背後を通り過ぎようとした。

「……うぅ、マサ……キ……」

 今にも消え入りそうな震える音は、わずかに輪郭だけが耳に届いた。その瞬間、あたしの心臓が大きくドクンと跳ね上がった。

「……えっ?」

 聞き覚えのある言葉に思わず振り返った。

 そこにはお母さんと同年代らしき女性が、流れる涙をそのままにハンカチで口を覆って嗚咽を堪えている。そして女性の前にある墓石にも、聞き覚えのある文字が刻まれているのが見えた。

「鈴代……家……?」

 心臓はもう一度大きく跳ね上がった。それからは、小さな動悸があたしの不安を煽るように鳴り響いている。

「マサキ……鈴代家……鈴代、マサキ……」

 マサキ君の名前を口にした次の瞬間、あたしは走り出していた。どこからともなく涌き起こる焦燥は、全身にまとわりついて離れようとしなかった。それから逃げるように走り続けた。長い間、雨に晒された土はぬかるんでいた。ときどき足を絡め取ったけど、倒れそうになるのを堪えて走り続けた。昨日の夜、暗い夜道をヨシノおばあちゃんの家に向かって走っていた時のように。でも、やっぱり同じように、どうしようもなく襲ってくる不安は消えることはなかった。

 空にはついさっきまでと同じく、うっすらと朱色に染まっている。ほんの数分前までは、西から差し込む陽光はどこか希望の光にさえ思えていた。なのに今は、その同じ空は不安を煽るような朱で空を燃やして、遥か遠くから届く西日の輝きは僅かな希望を奪うように視界に映るすべてを真っ白に染め上げた。



 衝動的に走り続けたあたしは、膝に手をあて、大きく開けた口から苦しげに酸素を体内送り込んだ。かすかに残る力を振り絞って顔を上げると、見慣れた光景があった。真っ直ぐに伸びた見晴らしの良い道の脇に、ぽつんと立つ石。夕陽に照らされたそれは、どこか悲しげに長い影を作っていた。辺りには、白い肌の少年も年老いた茶トラの猫もいない。

「…………」

 静かに夢見石に手を置くと、ひんやりと冷たく僅かに湿っていた。それは少しずつ手のひらから腕を通って、激しく体中を駆け巡る血の流れを落ち着かせていった。

 あたしは夢見石に触れたまま、思い返していた。

 思えば、マサキ君と出会うのは決まって日が沈みかけたこの場所だった。どれだけ賢木町を歩いても、ここ以外でマサキ君の姿を見かけることはなかった。そして、マサキ君と出会うときは、そこにはいつも猫のサクラも一緒だった。サクラは人見知りはしなかったけど、何故かマサキ君に良く懐いていたっけ。

 目を閉じて少年と一匹の猫のことを思っていると、周りから聞こえていたあらゆる音が消えていた。

 ふと目を開けると、そこにはあの夢が視界に飛び込んできた。小学生くらいの男の子と女の子が、何かを話しているあの夢。これまで見てきた内容とまったく同じことが繰り返されている。二人は少しのあいだ何かを話すと、それぞれ別の方向へと歩き出す。夢はいつもそこで終わっていた。だけど、目の前の光景はそのまま別の光景へと切り替わった。

 今度は女の子が猫を抱えて泣いていた。一体何がそんなに悲しいんだろう。あたしには分からなかったけど、目の前の光景は確かにあたしの心を大きく揺さぶった。何かを訴えている、そんな気がしていた。

「あれ……ひょっとして、アカネちゃん?」

 ふいに声を掛けられて、あたしの目は元の視界を取り戻した。いつもの長い道、あたしの背丈より少し低い夢見石。振り返るとそこには、カエデの従姉のユリさんがいた。

「ユリ……さん」

「どうしたのアカネちゃん……。あ、ひょっとして夢見石に何か願い事してたとか?」

「あ……いえ、そういうわけじゃ……」

「いいって、いいって。そっかぁ、私も願い事すれば叶うかなぁ」

「お願いしたいこと、あるんですか?」

 ユリさんは整った美しい顔立ちに微笑みを浮かべた。その顔を見て、カエデの笑った顔にどこか似てるなと、ぼんやり思った。

「まぁね。でも……私はしない」

「え……どうしてですか?」

「う~ん。何だか夢を壊すようなこと言うようで悪いんだけど、夢見石ってホントは夢や願い事を叶えてくれる石じゃないんだよね」

 あたしはユリさんの言葉に少なからず驚いた。賢木町の誰もが、ヨシノおばあちゃんでさえ願った夢見石は願い事を叶えてくれないとユリさんは言った。

「ほら、この石ってうちの神社で管理してるでしょ。それで、その石にまつわる話もいろいろと聞いててね。その石はね、ホントは真石(まこといわ)って呼ばれてるの」

「真石……」

「うん、真石。その石に触れた人のあらゆる出来事を石が覚えててね。例えその人が何かを忘れてしまっても、その石が思い出させてくれる。本人すらも忘れてしまった、過去の真実を思い出させてくれるんだって。でも、理由は分からないけど、いつからかそれが夢が叶うみたいに言われるようになって、今の夢見石という名前に変わったんだって」

 あたしはユリさんの話しを、ただ黙って聞いていた。

「たぶん昔の人が、忘れていた何かを思い出したことがきっかけで、願い事が叶った、前に進めるようになった。そんなことがあったのかもね」

「忘れていた何かを思い出して、願い事が叶う……前へ進める……」

 ユリさんの話しを確認するかのように、言葉を繰り返した。

「そう。でも私は、やっぱり自分の願い事は自分の力でなんとかしたい」

「強いんですね、ユリさんは……」

 あたしは率直な感想を口にした。それを聞いたユリさんは、口を大きく開いて明け透けに笑いながら「そんなことないよ」と言った。

「ホントのことを言うとね、この前の還魂祭の舞だって直前まで逃げ出したいって思いはあったんだから」

「そうなんですか!?」

 ユリさんの思いがけない告白に、あたしはまた驚いた。見ていた観客を惹きつけて離さなかったあの舞を舞っていた人が、前日の夜まで一人であれだけ練習していた人が、そんな事を考えているなんて想像もできなかった。

「でもね、途中で止めるなんてできなかった。止めることはいつでもできるけど、続けることはその時にしかできないって。ある人にね、そう言われたの。だから止めずに済んだだけ……」

 ユリさんは自分の手のひらを見つめながら、たぶん誰も知らないその心境を話してくれた。その顔はすごく穏やかで、口元は僅かに笑みが浮かんでいる。

 それでも……。やっぱりユリさんは強い人だと思う。例え誰かに言われたからといって、続けるかどうかは最終的には本人が決めること。そして、続ける道を選んだユリさんはやっぱりすごい。素直にそう思った。だからこそ、あれほどまでに人々を感動させる舞ができたんだと。

「ごめんね。何だか恥ずかしいこと言っちゃったね」

「いえ……」

 ユリさんは恥ずかしさをごまかすように笑った。

「夢見石に願い事をすることは、私は悪いこととは思わないよ。何かにすがるって事は、それだけその人が必死なんだと思うし。でもその必死さがあれば、自分の力でなんとかなると私は信じたいな」

「ユリさん……」

「大丈夫、アカネちゃんならできるよ」

 ユリさんはあたしにエールを送ると、緋桐神社へと歩き出した。ユリさんの後ろ姿を見送りながら一人考えた。


――本人すらも忘れてしまった、過去の真実を思い出させてくれるんだって。


 それが本当なら、よく見る〈あの夢〉は、あたしが忘れている〈何か〉なのだろうか。そう言えば、あの夢を見るようになったのは確か、四年前。ヨシノおばあちゃんから夢見石のネックレスを貰ってからのような気がする。この小さな夢見石が、あたしに何かを伝えようとしているのかな。

 夢の中の小学生くらいの男の子と女の子。どこかで会ったことがあるような気がしていた、あたしとマサキ君。マサキ君に懐いていたサクラ。猫を抱いて泣き続ける女の子。

 ふいに遠くから踏切の警報音が鳴り出した。その音は規則正しく鳴り響く。遠くから聞こえてくるはずのその音は、次第に大きく、耳鳴りのようにあたしの頭の中でも鳴り始めた。やがて、賢木駅に向かって遠くから電車がやってくるのが見えた。時折、車輪を軋ませながら三両編成の短い電車は、だんだんとこちらに迫ってくる。

 轟音とともに通り過ぎたとき、後ろで何かが転がるような鈍い音が聞こえた。

 辺りには誰もいないはずの道に、確かにその音はあたしの耳に届いた。ゆっくりと後ろを振り返ると、猫を抱いた男の子が倒れていた。男の子はぴくりとも動かない。男の子の体から鮮明な赤い血が流れ出している。猫は何とか男の子の腕から逃れると、近くにいた女の子に抱きかかえられた。女の子は動かない男の子を見て、大声で泣き出した。


――そうだ、あたしはこれを知っている。


 今のあたしには、女の子の顔も、女の子が抱える猫もはっきりと見えていた。女の子の泣き声が確かに聞こえていた。これまで出口の見つからなかった迷路に光が差し込んだようだった。

 なぜあたしとマサキ君は、どこかで会ったことがあるような気がしていたのか。

 なぜマサキ君とはいつもここで出会うのか。

 なぜサクラはマサキ君に懐いていたのか。

 なぜマサキ君は姿を現さなくなったのか。

 夢の中で男の子と女の子がどんな話しをしていたのか。

 そのすべてが、今のあたしには自然と受け入れることができた。胸元の小さな夢見石を握りしめながら、あたしはこれまで忘れていた〈何か〉を思い出した。五日前、マサキ君との初めての出会いは、再会だったんだ。



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