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あの日、透明な想い  作者: 中澤ミサキ
三  還魂祭
10/12

3  優しい雨



 賢木町に来てから四日目の夜。アカネは夢を見ていた。

 それはいつも見る〈あの夢〉の始まり。

 身体がゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと海の底へ沈んでいくあの感覚。キラキラと陽の光を反射させていた水面は、徐々に遠ざかっていく。アカネの隣を抜けていた光も、やがて薄れて見えなくなる。辺りには何もない、ただ真っ暗な空間が広がる。

 やがてその何もない空間を抜けると、いつもの光景が見えてくる、はずだった。しかし、アカネの前に見えたのは、いつもとは違う光景だった。

 確かに、いつもの小学生くらいの女の子がそこに立っている。しかし、彼女の傍にはあの男の子の姿は見当たらない。

 女の子は泣いていた。相変わらず音はなく、その声がアカネの耳に届くことはない。だが、きつく閉じられた両眼からはぽろぽろと大粒の涙が零れているのが見えて、その子が泣いているんだと分かった。大きく開いた口からは、女の子の激しい慟哭が聞こえてくるような気がした。女の子はただ泣き続けるだけだった。胸に大きな猫を抱えたまま、泣き続けていた。

 アカネは女の子のもとへ駆け寄りたかったが、いつものように身体は動かない。どんなに歯を食いしばっても、足に力を入れても、頭で命令しても、自分の身体ではないように微動だにしない。まるで部屋の隅に置かれた人形のように、自分の意思で身体を動かすこともできず、ただじっと決められた方角を見ることしかできなかった。

 女の子は泣き続けた。まるで、映画のワンシーンが延々と繰り返されるかのように。数歩と離れていない彼女の前には、何かが転がっているのが見えた。しかし、それだけがほかの光景よりもぼんやりとして、濃い霧がかかっているかのようだった。

 いつの間にかアカネは泣いていた。女の子の感情がアカネにも移ったかのように、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。溢れる涙を拭うことも止めることもできず、目を見開いたまま流れ続けた。溢れる涙はアカネの瞳を覆い尽くし、目の前の光景がゆらゆらと歪んで揺れる。そして、やがて何も見えなくなり、その夢は静かに終わりを告げた。



 その日は、空を覆い尽くすような灰色の雲が広がっていた。昨日までの快晴が嘘のように夏の強い日射しは厚い雲に遮られ、賢木町全体に薄暗い影が落ちていた。

「あら、今日は雨が降るのかしら」

 庭に干されていた洗濯物を取り込みながら、水樹カスミは独り言のようにこぼした。

 カスミの隣では、同じようにアカネが洗濯物を取り込んでいる。縁側ではヨシノがサクラとともにその様子を眺めていた。

「せめて今日一日は持って欲しいわねぇ」

 今日は三日目となる還魂祭、最後の日だった。三日目は再び故人を送り出す〈送り火〉の日。緋桐神社で育てられた蛍が、海老根川に放生されることになっていた。

 還魂祭や夢見石と同様に、賢木町にはもう一つ古くから伝わる伝承があった。賢木町における蛍は、夜の闇に光るその緑の輝きで人の魂をあるべき場所へ導くと言われている。初日の〈迎え火〉では盛大な炎で故人の魂を導き、二日目の巫女神楽で故人と今を生きる人たちが楽しいひとときを過ごし、三日目には蛍の明かりによって故人の魂を元の場所へ送り出す。その一連の行いが還魂祭と称されていた。

 干していた洗濯物をすべて取り込み終えると、縁側に座って二人は衣服をたたみ始めた。アカネがちらりとヨシノに目を向けると、いつもと同じように膝には猫のサクラを乗せて、優しく背中を撫でている姿があった。

 アカネはふと、サクラがいつからこの家にいるのか知らないことに気づいた。

「ねぇ、ヨシノおばあちゃん」

 アカネは手を休めることなくヨシノに尋ねた。

「サクラって、いつからこの家で飼うようになったんだっけ?」

 アカネの何気ない質問に、僅かにヨシノとカスミは表情を曇らせた。

「アカネ、急にどうしたの?」

 カスミは手を止めて、アカネの様子を伺うように訊ねた。

 少し考えるように俯いて、アカネは口を開いた。

「今朝ね、変な夢見たの。小学生くらいの女の子が、猫を抱えて大泣きしてて。その女の子は誰なのか分かんないんだけど……」

 アカネは静かに、今朝見た夢の内容を語り出した。

「今サクラを見て、その猫にちょっと似てたかもって。で、そういえば、サクラはいつからこの家にいたんだっけ、と思って……」

 カスミとヨシノは互いに神妙な面持ちで見合わせ、言葉を詰まらせた。二人の気まずそうな沈黙にアカネは首を傾げた。

「アカネ、あなたが……」

 カスミが重い口を開きかけたとき、ヨシノは静かに首を振った。そして、隣にいるアカネの頭を撫で始めた。

 アカネが振り返ると、そこにはヨシノの笑顔があった。でもそれはアカネの好きなくしゃっとした皺の多い笑顔ではなく、どこか寂しげな笑顔だった。

「ヨシノ、おばあちゃん……?」

 ヨシノは何も言わないまま、アカネの頭を優しく撫で続けた。開いた口を閉じ、カスミもまた何も言わずに衣服をたたみ始めた。

 聞いてはいけないことだったんだろうか。あたしとサクラには何かあるんだろうか。そんな風に思ったアカネもまた、それ以上は何も言わずに衣服をたたみ続けた。

 〈いつもの夢〉〈鈴代マサキ〉〈また明日〉〈踏切の警報音〉

 アカネが抱える謎に、新たに〈サクラ〉が加わった。

 たたみ終えた衣服を箪笥の中に納めながらカスミが言った。

「お母さん、買い物に出かけてくるけど。アカネもそろそろ出かける時間じゃないの?」

 気がつけば、居間の壁に掛けられた時計は、その針がもうすぐ五時を指そうとしていた。

「うん。今日は蛍も見たいから、帰りは遅くなるかも」

「天気あまり良くないから、気をつけて行くのよ」

「はーい」

 先程までの重い雰囲気はいつの間にか消え、そこにはいつもの空気が流れていた。アカネは「いってきまーす」と言うと、一人先に家を出た。カスミもまた支度が終わると、縁側にいるヨシノに声を掛けて出かけていった。

 縁側では、ヨシノが膝にサクラを抱えたままいつの間にか眠りについていた。それまで眠っていたサクラは目を覚ますと、まだ眠り足りないのか大きく欠伸をする。サクラが見上げると、そこにはヨシノの穏やかな寝顔があった。サクラはじっとヨシノの顔を見つめた後、身体を起こすとヨシノの膝から降りた。サクラの上に乗せられていたヨシノの手はこつんと音を立てて、床に落ちた。それからゆっくりとヨシノの小さな身体は傾き、鈍い音を立てて横に倒れ込んだ。それでもヨシノは起きることなく、その小さな目は閉じられたままだった。

 サクラは倒れたヨシノの頬に顔をすり寄せると、弱々しく小さな声で鳴いた。縁側を飛び降り、悲しげな表情で歩き出した。



 夜になっても厚い雲は空を覆ったままで、ずっと賢木町の上空に居座り続けていた。暗い夜がさらに暗く感じられ、いつ雨が降り出してもおかしくない状況だ。今日の空はどこか不安を煽っていたが、町を照らす温かいぼんぼりの橙がそれを払拭するかのように優しく灯っている。

 カエデたちが待つ緋桐神社へ向かうはずだったアカネは、約束の時間を過ぎても夢見石の横で座っていた。目の前を流れる海老根川を、ただぼんやりと眺めていた。辺りには明かりはほとんど無く、うっすらと道が見える程度だった。わずか十数メートル先にある川もほとんど見えず、流れる水の音だけが辛うじて静寂を妨げていた。

 カエデには悪いことをしたと思いつつも、アカネはどうしても三人で還魂祭の最後を楽しもうという気分にはなれなかった。

 賢木町に来てからアカネの抱える問題は増えていく一方だった。将来のこと、いつも見る夢のこと、マサキのこと、サクラのこと。やりたいことを見つけられなくて曇天続きだった気持ちを少しでも晴らせたらという、気分転換も兼ねるつもりで賢木町に戻ってきたアカネだったが、さらに頭を悩ませることとなった。遥か上空の厚くて暗い雲は、今のアカネの心境を現しているかのようだった。

 時折遠くで鳴る車のクラクションの音以外は、川の流れる音しか聞こえない。アカネはかすかに見える海老根川をただじっと眺めていた。

「水樹さん……?」

 膝を抱えて俯いていたアカネが顔を上げると、白い肌の少年が立っていた。暗闇に包まれたこの場所では、少年の白い肌はぼんやりと光っているかのようだった。それは少年をより儚げに見せた。

「マサキ君……」

 マサキは驚いた表情から、すぐにばつが悪そうなそれに変わった。

 静かに立ち上がったアカネは咎めるように真っ直ぐマサキを見つめると、くすっと笑った。小さな子を叱るような優しさを含んだ声で、

「盛大な遅刻だね。もう還魂祭、終わっちゃうよ?」

「……ごめんなさい」

 伏し目がちで謝るマサキに、アカネは小さく息をついた。

「うん、許す」

 それから二人は何かを話すわけでもなく、ただじっと海老根川を眺めた。長い沈黙。川の流れる音と、少し湿気を含んだ風が鳴らす草の擦れる音だけがそこにあった。その暗く静かな空間に、小さく緑色の光が明滅しながらゆらゆらと飛ぶのが見えた。

「あっ、蛍だ!」

 一匹の蛍が不規則な動きで飛んでいた。儚くてどこか頼りなく思えるその光は、自分の存在を主張するかのように、確かに輝いている。

「きれいだね」

「うん、そうだね」

 二人は簡素ながらも素直な感想を口にした。

「神社の蛍がこっちまで飛んできたのかな?」

 アカネたちがいる場所から上流に遡ったところに緋桐神社はある。そこで放たれた蛍の内の一匹が、川に沿ってここまで飛んできたのかもしれない。アカネはそんなことを考えつつ、暗闇の中を飛ぶ幻想的な光を目で追っていた。

「あたしね、少し前からよく同じ夢を見るんだ」

 アカネは独り言のように話し始めた。

「いつも同じ内容。小学生くらいの男の子と女の子が何かを喋ってるんだけど、あたしには何にも聞こえないの。でも二人は楽しそうに話してる。きっと仲が良いんだろうね」

 マサキは蛍を眺めたまま、静かにアカネの声に耳を傾けていた。

「で、話が終わると二人は別々の方向に歩き出すの。夢はいつもそこで終わり」

 いつの間にか、アカネの前には二つの光が舞っていた。一匹がもう一匹の後を追うように、明滅しながら飛んでいる。

「でも今日は少し違う夢を見たの。その女の子が猫を抱えて泣いてて……ただずっと泣き続けてる……」

 静かに聞いていたマサキの表情が緩やかに変化した。マサキの目は少しずつ大きくなり、何かに驚いている様子だった。じっと蛍を見つめているアカネは、マサキの変化に気づかないまま続けた。

「あたしね。その男の子と女の子は、昔のあたしとマサキくんじゃないかって。夢の中では二人の顔はよく見えないんだけど、それはあたしがそのことを忘れているからなんじゃないかって」

 アカネは少し照れた風に言った。

 つい数日前、マサキと出会ったときに二人ともどこかで会ったことがあるような気がしていた。四年間、賢木町を離れていたアカネがあったことがあるとしたら、それはまだ賢木町にいた頃。小学生の頃だ。夢の中の男の子と女の子も、ちょうどそれくらいの背格好だ。

「何てね、そんなことないか。何言ってるんだろうね、あた……」

 アカネが苦笑いしながらマサキの方へ振り返った、その瞬間。

 空を覆い尽くすような白い光が、風が吹いたように二人の頭上を駆け抜けていった。それは一瞬の出来事だった。白い光はその一瞬だけ強く輝いたのに不思議と眩しさはなかった。まるでその時だけ暗い空が真っ白に塗り替えられたようだった。アカネは何故かその光に懐かしさと温かさと、そして寂しさを覚えた。

 突然のことに呆然としていたが、次第に驚きと興奮でアカネの動悸は激しくなった。しばらくして我に返ったアカネは辺りを見渡した。しかし、何事もなかったかのように元の暗い空間と静寂だけが広がっている。先程の光はその欠片すらも見当たらなかった。

「マ、マサキ君! 今の見た? 光がこう……ばぁって広がって! 蛍の群れ……じゃあないよね。ねぇ、今の何だったん……」

「水樹さん」

 興奮したように身振り手振りで話すアカネを遮るように、マサキはアカネを呼んだ。その表情はどこか、戸惑いと悲しさが混ざっている。

「……マサキ君?」

 マサキはゆっくりと右腕をあげると、一点を指さした。

 アカネはマサキが指さす方向へ振り向いたが、そこには何もなかった。長い道が夜の影に吸い込まれるように伸びているだけだった。

 そのとき、アカネの足に何かがれる感触があった。アカネの足下には、猫のサクラがアカネの靴を引っ張るように掻いていた。

「サクラ?」

 アカネはいつものように抱き上げようと両手を伸ばすと、サクラはそれから逃れるように歩き出した。

「どうしたのサクラ?」

 アカネの声に応えることなく、サクラはゆっくりと歩いた。数歩ほど歩いては立ち止まり、アカネを呼ぶように振り返って鳴いた。

「ねぇ、マサキ君。何もな……い……?」

 アカネが振り返ったその場所には、マサキの姿はなかった。暗い夜でもその白い肌が際立っていた少年は、いつの間にか夜の闇に溶け込んだかのように消えていた。

「……マサキ君?」

 アカネの動悸はおさまらなかった。それは驚きや興奮の動悸から、訳もなくただ不安を煽る動悸に変わっていた。

 マサキが指さした方向は、サクラが向かっている方向と同じ。そしてその先に思い当たるのは一つだけ。アカネがよく知る大好きな場所。

 アカネは理由のない不安に襲われながら駆け出した。前を歩くサクラを素早く抱き上げて走り続けた。時折つまずいては転びそうになるのを必死に堪えながら、それでも速度を落とすことはなかった。動悸は踏切の警報音のように鳴り響いている。何度も歩いた真っ直ぐに伸びた道は、どれだけ走っても出口にたどり着けないかのように、目の前は暗い闇だけが続いていた。



 息を切らしたアカネはヨシノの家にたどり着いた。

 乱れる息をそのままにアカネが玄関を開けると、何足もの大人たちの靴によって三和土(たたき)が埋め尽くされていた。

 アカネは慌ただしく靴を脱いで奥へと進んだ。奥からぼそぼそと声が漏れ聞こえくる。アカネは声が聞こえてくる部屋の襖を勢いよく開けると、そこにはつい先日集まっていた親戚一同の姿があった。

 確かに部屋の明かりはついていが、どこか薄暗く、少しだけ空気が重く感じられた。部屋の隅からはすすり泣くような声も聞こえてくる。そんな部屋の中心に敷かれた布団で眠るヨシノの姿。その光景と肌が感じ取る空気の重たさが、何を意味しているのかを直感的に理解した。

「アカネ……」

 カスミは立ち上がると、アカネのもとへと歩いた。

「アカネ、おばあちゃんね……」

 カスミの声が聞こえていないかのように、アカネは一歩一歩ヨシノのもとへと近づいていく。ヨシノの隣まで来ると、アカネは力が抜けたようにその場に座り込んだ。

「ヨシノ、おばあちゃん……?」

 アカネが振り絞って出した声はか細く震えていた。

「なんで……? 今日のお昼に、一緒に縁側で話してたのに……」

 ヨシノはいつもと同じ、穏やかな寝顔をしていた。ただ違うのは、どんなに呼びかけても身体を揺すっても、もう目を覚まさないということだけ。

 アカネがヨシノの顔に触れようと震える手を伸ばそうとすると、それまで抱きかかえられていたサクラが飛び降りた。サクラは眠るヨシノの頬に顔をすり寄せると、そのまま身体を丸めてヨシノと同じように目を閉じた。眠っていること証明していたサクラのお腹も、しだいにその動きを小さくして、やがてそれは静かに止まった。

「サクラ……?」

 アカネは目の前の光景をどこか精巧な作り物のように思えた。震える手はそれ以上進まず、ヨシノの頬に触れるのを拒んでいた。触れた瞬間に、目の前の現実を認めなければならないような気がしていた。

「おばあちゃんって、いくつだったっけ?」

「今年で九十二歳のはずよ」

「特に病気や事故ってわけでもなかったんだし、大往生と言ってもいいんじゃないのかな」

「いつものように縁側で眠って、そのまま……だったんでしょ?」

「おじいちゃんの最後の法要が終わって、どこか安心したのかもな」

「今日って還魂祭の送り火の日なんでしょ? なんだかおじいちゃんが、おばあちゃんを連れて行ったみたいに思えるわね……」

 小さな声で交わされる言葉はアカネの耳にも届いていたが、今のアカネにはその言葉に何の意味も含まれていない。ただ、ぼそぼそと音が鳴っているだけだった。

 アカネは無言のまま立ち上がると、重い足取りで歩き始めた。縁側まで来ると、これまでヨシノがそうしていたように縁側に座って庭を見つめた。その顔にはあらゆる表情や感情が抜け落ちていた。部屋から漏れる明かりに照らされた小さな庭は、暗い空間にその輪郭だけを浮かび上がらせる。

 アカネの小さな背中を見た母親のカスミは、そっとアカネの隣に座った。

「あたしね、ヨシノおばあちゃんの笑った顔が好きだった。あのくしゃっとした、皺の多い笑顔が好きだった……」

 アカネは数日前のヨシノを思い出しながら穏やかに話し始めた。

「だからあたしも……おばあちゃんが、安心して逝けるように、笑顔で見送ってあげなきゃって……」

 アカネは僅かに声を震わせながら、途切れ途切れに言葉を続けた。伏せられた瞳は乾いていて虚ろだった。

「でも、できなかった……。笑うなんて、できない。どんな顔したらいいのか、分からないよ……」

「アカネ……」

「あたしは、ヨシノおばあちゃんから、たくさん、いろんなことしてもらったのに……。なのにあたしは、何もしてない……。まだ何も、してあげられてない……」

 アカネの頭に何かがふわりと降りた。カスミは、ヨシノが何度もそうしたようにアカネの頭を優しく撫でた。

「そんなことない。だってアカネは今ここにいるじゃない。こうして、おばあちゃんのことを思ってる」

 カスミはアカネの頭を撫でながら静かに目を閉じた。

「ねぇアカネ。おばあちゃんがその夢見石に何を願ったか、聞いた?」

 アカネは胸元で小さく揺れる夢見石を見た。石はヨシノのことを悲しんでいるかのように、深く沈んだように暗い色をしていた。


――家族のみんなが元気でありますように。


「おばあちゃんには、アカネがこうして生きてくれているだけで十分なんじゃないのかな。たとえ平凡でも、毎日を元気に過ごしてくれるだけで……」

 アカネは何も言わないまま、カスミの手のひらから伝わる温もりに、ヨシノのそれを重ねていた。小さくて皺が多くて、でも、とても温かいあの手に。

「知ってた? おばあちゃんね、あなたが生まれたとき凄く喜んでたのよ。それはもう、親の私やお父さんよりも。初めての曾孫ということもあったかもしれないけど。すごく、すごく喜んでた……」

 カスミの声はどこまでも優しさに満ちていて、アカネの心を落ち着かせた。

「赤ちゃんって、よく泣くでしょう? どうしてだか分かる?」

 アカネはカスミが何を言おうとしているのか分からなかった。答える代わりに、じっとカスミの目を見つめて次の言葉を待った。

 カスミは小さく微笑みを浮かべると、話を続けた。

「赤ちゃんは言葉を喋れないから、だから代わりに泣くのよ。何がしたいのか、何を言いたいのか。それを周りにいる大人たちに伝えるために泣くの。でもそれは大人だって同じこと。赤ちゃんよりも、いろんなことを知っていて考えることができて、言葉や行動で示すことができるから泣かずに済んでいるだけ」

 カスミの言葉に、アカネは少しずつ見えてきた。自分に今できることが何なのか、今やるべきことが何なのかを。

「でもねアカネ。だからといって、あなたが今、泣かないでいようとする必要はないの。無理して笑顔で、おばあちゃんを送ろうとしなくていいの。誰かのために笑顔を見せられるのは素敵なことだけど、誰かのために泣いてあげられるのも大切なことよ」

 アカネは今自分にできることが分かった。それはこの世でどんなものよりも正しくて、真っ直ぐで、純粋で。今のアカネにできる、唯一のこと。

 アカネの頬に一筋の光が走った。

「だからねアカネ。ヨシノおばあちゃんのために、泣いてあげて」

 アカネの二つの瞳からぽろぽろと大粒の涙が流れた。小さな子どものように泣きじゃくった。どんなにきつく目を閉じても溢れる涙は抑えられず、大きく開かれた口からは言葉にならない嗚咽と嘆きだけを吐き出し続けた。

 泣きながらアカネは、幼い頃、泣くたびにヨシノに頭を撫でてくれたことを思い出した。転んで膝を擦り剥いたとき、男の子とケンカして負けたとき、学校で飼っていたウサギが死んだとき。どんなときもアカネが泣いていると、決まってヨシノは優しく頭を撫でてくれた。アカネにとって、ヨシノの手はとても温かくて不安や悲しみを取り除く魔法の手だった。


 ヨシノおばあちゃん、ごめんね。

 泣くことしかできなくてごめんね。

 何もしてあげられなくてごめんね。


 ううん、違う。そうじゃないよね。


――ヨシノおばあちゃん、今までありがとう。


 その日の夜、アカネはここにいる誰よりもヨシノのことを想って泣き続けた。アカネの慟哭は、ヨシノが生涯暮らし続けた賢木町の空へと吸い込まれていった。アカネの悲しみを受け止めた空は、それを雨に変えて賢木町へ降り注ぎ始めた。細い雨は穏やかなさざ波のような音を立てて賢木の地に降り続いた。それは、これまでアカネが生きてきた中で一番優しい雨だった。



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