赤子泥棒
7階建てのマンションのエレベーターが5階で止まり、良く手入れがされた扉がスルスルと横滑りをして開く。
中に乗っていた女性は右手に丸々と膨らんだ買い物用ビニール袋を、左手には青いパッケージのベビー用紙おむつの包みを握ってエレベーターの箱からのっそりと出てきた。
エレベーターコーナーを出ると左右に各部屋へ繋がるコンクリートの道が伸びている。
女性は左側へ曲がって一番奥にある506号室へと向かった。
足取りは、まるで両足に足枷でも付いているかのように踏みしめるようで、しかしふらふらとしたものだ。
(早く帰ってあの子にミルクをあげなくちゃ。おしめは濡れてないかしら)
女性はマンションの部屋で1人で待つ我が子の事を考えると気が急いで足をもっと早く動かそうとするが、気持ちだけで足が速く動かない。
(ああ、早くしないと。あの子が待ってる)
俯いて歩いている女性の顔には苦悩と疲労の色しかない。
「あら坂田さん、お買い物?すごい量、大変ね」
早く部屋に戻りたい彼女にちょうど出てきた隣の部屋主婦が話しかける。
「はい。赤ちゃんがいると色々と物入りで・・・。失礼します」
坂田と呼ばれた女性は主婦の言葉に適当に返事をすると項垂れている頭をもう一段下げてそそくさと自分の部屋へ入っていった。
その坂田の姿を隣の部屋の主婦は気味が悪いといった表情で見送った。
坂田は玄関の扉を開けて部屋の中に入り、玄関からリビングまでフローリングの廊下が一直線に伸びている短い廊下を通り、リビングに買い込んできた荷物を投げ出して、ベビーベッドを覗き込む。
「ああ、ごめんなさいね。寂しかったわね。でも、お母さんが帰って来たからもう大丈夫よ」
坂田は、赤ん坊を抱き上げて頬擦りをする。
赤ん坊はぐっすりと眠っているようで、少し身じろぎだけしてその後は大人しく坂田の腕に抱かれている。
「坊やはとても良い子ね。こんなに良い子なんですもの、お父さんも喜ぶわ。お父さんがお仕事から帰ってきたらお名前も付けてあげましょうね」
坂田は昼間なのにカーテンを閉め切った薄暗い部屋で赤ん坊をベビーベッドに戻すと、買い込んできたベビー用品、ミルク等を整理し始める。
疲労が溜まり、肌もかさかさになっている顔に坂田は微笑を浮かべて整理を続ける。
待ちに待った子供が出来て、その世話をする。疲れるけれど、赤ん坊の為の事ならばそれも楽しく幸せなことだと感じる。
「ああ、私、子供が出来て幸せよ。あなた、早く帰ってきて」
坂田は仕事で帰ってこない夫を思い呟いた。
「ただいま」
高校から帰って来た正親は、広い玄関で靴を脱いで家に上がる。
玄関を上がると、母屋の端にある台所へ真っ直ぐと続く廊下がある。その長い廊下を歩いていると台所から母親が顔を出す。
「ちか君?おかえり」
古めかしい日本家屋には不釣合いな可愛らしい服を着た母親は正親の姿を確かめるとにっこりと笑い、すぐに台所に引っ込んだ。
正親は台所の手前にある階段から2階へ上がる。階段を上って右側が正親の部屋で左側が威知依の部屋だ。
妖しの威知依だが、神林家では一家族として扱われている。
正親の両親が威知依の姿を見ることができ、妖しに対して理解があるからだ。普通は威知依のように家族として生活をすること等ありえない。
その威知依の部屋から、どうにも威知依以外の妖しの存在感が感じられる。
正親は胡散臭さを感じて自分の部屋に鞄を放り込むと、威知依の部屋の扉をドンドンと叩いた。
「威知依!いるんだろう?何してるんだ?」
問答無用、とばかりに引き戸を開ける。
予想通り、部屋の中には威知依以外の妖しの女がいた。
しかも、しくしくと泣いている。何だかややこしい問題を抱えている雰囲気がいっぱいの妖しに正親はがっくりと肩を落とした。
「おお、正親、いいところに来た。こいつがな、泣いて泣いて仕方がないんだ」
背を向けていた威知依が振り返って言う。
正親は、威知依の腕を引いて耳打ちする。
「おい、どこから連れて来たんだ。むやみに家に妖しを入れるなと言ってるだろう」
一応、泣いている妖しに気を使って小声で話す。
「オレが家に入れたんじゃない。いつの間にかあそこに座って泣いているんだ」
威知依は小さな声で答えて、チラと後ろを振り向いて泣き続けている妖しを盗み見た。
「話を聞いてやりたいんだが泣いてばかりいてどうにもならん。正親、ちょっと話を聞いてやってくれよ」
はっきり言って乗り気ではないが、ちらりと妖しを見ると泣きはらした目でこちらを見ていた。
そして、正親と目が合うとか細い声で、
「助けてくださいまし」
と言った。
家の中に入ってきている時点で妖しの手助けをする運命になっていたと考えるしかない。
また、正親は泣いて助けを求める者を追い出す様な薄情でもない。
正親は仕方が無いな、と呟き覚悟を決めた。
制服を着替え、威知依の部屋で妖しの女と向き合い話をする。
妖しは、よく見ると若く美しい姿をした女だった。
「赤ん坊を攫われたのでございます」
廿楽と名乗った妖しの女は、持っていた手ぬぐいの端で目頭を押さえて言った。
何でも、赤ん坊を寝かしつけ、洗濯をしている間に攫われたという。
「家の周りに人の匂いが残っておりました。きっとあの子は人に攫われたに違いありません。どうか、どうかわたくしの赤ん坊を探してくださいませ」
そう言うと廿楽は深く頭を下げた。
坂田は、真っ暗な部屋の中で目を覚ました。
ベッドに横になっても眠りが浅いらしく、すぐに起きてしまい、1・2時間おきに目覚めては眠る、という状態が夜明けまで続く。
ギシッとベッドを軋ませて寝返りを打ち視線を変えると、ベビーベッドが見える。
上半身を少しだけ起こしてベビーベッドを覗くと、愛しい我が子は夜泣きもせずにぐっすりと眠っているようだ。
坂田はにっこりと笑うと目を閉じて、また短い眠りの中へ入った。
気が付くと、真っ暗な場所に赤ん坊を抱いて立っていた。
足元をくすぐる感触に下を見ると草が脛辺りまで伸びていた。
「ここは、どこかしら?」
坂田は辺りを見回すが、何もない地平線まで続く草原。真っ暗な空には薄雲の先に見える欠けた月が浮かんでいる。
見た事があるようなしかし、覚えがない風景に坂田は不安を覚える。そして、先程ベッドに横になったまま赤ん坊の姿を見た事を思い出した。
「これは、夢なのね」
不安を感じ重くなっていた心は、「夢」という言葉で軽くなり、夜空の下の散歩をしようと思い立った。
「可愛い坊や、お月様を見るのは初めてよね?ほーらあれがお月様よー」
坂田は腕の中の赤ん坊をあやしながら月を指差す。
「今は欠けてるけど、その内まーるくなるのよ」
腕の中の赤ん坊は坂田の声に反応してあうあうと声を出した。
「可愛い坊や、お月様キレイね」
坂田は立ち止まり、欠けた月を見上げた。
夜風が坂田の髪をすくい上げる。微かな月の光が、元より不健康な坂田の顔を青白く照らしだす。
彼女は最近ではほとんど感じることがなかった爽快感を味わっていた。
「風がきもちいいわ。ねえ?坊や」
坂田は、踵を上下に浮き沈みさせ。赤ん坊をあやしながら夢の中で気持ちの良い散歩を続けた。
「あーああ、あうあう」
赤ん坊の声で坂田は、はっと目を覚ました。
ベッドから跳ね起きて赤ん坊を覗き込む。赤ん坊は泣いているのではなかった。
安堵した坂田は赤ん坊を抱き上げる。
時計を見ると、デジタルの数字が7時15分を表示していた。
「こんな時間。坊や、お腹が空いたから声を出したのね。ゴメンね、お母さん寝坊しちゃったわ」
坂田は台所でミルクを作って持ってくる。
赤ん坊を抱き、ミルクを与えると、ゴクゴクと勢いよく飲んだ。
「こんなにお腹が空いてたのね。ごめんね、坊や」
ミルクをあっという間に飲み干した赤ん坊はゲフッとゲップをするとまだ足りない、と言うように、あーあーと声を出す。
「足りなかったの?坊やはよく食べるわね。きっとすごく大きな子になるんでしょうね」
坂田は嬉しそうに微笑みながら、またミルクを作って与えた。
ミルクを2本分飲みあげた赤ん坊は満足したのか特大のゲップを出すとにっこりと笑った。
「お腹一杯になったのね。ふふ、今日はとても良い日になりそうね。久しぶりにぐっすり眠れたしね」
坂田はそういうと赤ん坊を一度寝かせ、顔を洗いパジャマを脱いで服を着る。
遮光カーテンの間から日の光が入ってきているのを見て、天気が良い事を知った坂田はカーテンをシャッ音を立てて開く。
予想通り天気が良く、太陽の光が部屋一杯に入ってきた。
しかし、長く日の光を浴びていると、どうにも気分が悪くなってきた坂田は、カーテンを閉じてしまった。
「日の光が強いわ。今日は暑くなるのかもしれないわ」
坂田は少しだけカーテンを開けて、洗濯機を回しながら掃除をする。
また、いつもと変わらない一日が始まる。
「あの人は、ちゃんと休みを取っているかしら?」
坂田は掃除機をかけながら仕事で帰ってこない夫の事を思った。
もうどのくらい夫の顔を見ていないだろうか。携帯電話にかけてもほとんど留守番電話で話もできない。
「掃除が終わったら電話をかけて伝言を残すことにしよう。子供が出来たことを知ったら、あの人も喜んでくれるはずよ」
正親が赤ん坊探しを手伝うと言うと、廿楽は深く深く頭を下げて礼を言った。
「探すと言ってもどうやって探したらいいんだろう?」
警察に妖しの赤ん坊探しを持ちかけても相手になってもらえるはずもない。悪くすると、からかっているとして怒られるか頭がおかしいと思われてしまう。
「おい、あんたの家を見せてくれないか?」
黙っていた威知依が廿楽に詰め寄って尋ねる。
「はい、ようございますよ。今からでございますか?」
「いや、飯を食ってからだ。腹が減っては戦はできぬ、と言うからな」
威知依は腹の虫をぐうっと鳴らして笑った。
「それもそうでございますね。では、わたくしは一度家に帰って夜になりましたらお迎えに参ります」
廿楽はそういうとゆらりと立ち上がり押入れに向かって歩いていく。
「おい、どこへ行くんだ?」
「家へ一度帰ります。では、また夜に」
正親の問いに廿楽は簡単に答え、頭を下げて押入れを開けるとすうっとその中へ入って行きピシャンと閉めた。
あっけに取られた正親は立ち上がり、押入れを開けてみる。
しかし、そこは下段に布団、上段に少しの荷物が置かれている見慣れた押入れがあるだけだった。
「面白いな、この押入れはあの女の家に続いているんだな」
「面白くなんかない。全く、なんで押入れから出入りが出来るんだ?これが終わったら塞がないと」
正親は押入れを勢いよく閉めた。
夕飯を食べ終え、威知依の部屋で待っていると、案の定押入れから廿楽が現れた。
身奇麗な濃紺の着物に着替え、乱れていた髪の毛を綺麗に結い上げて、かなりの美女ぶりを発揮している。
「お迎えに参りました」
廿楽はうっすらを微笑を浮かべて言った。
「その押入れから行く気?」
正親の問いに廿楽は答える。
「はいそうでございます。ここはわたくしの家の近くへ続いております。わたくしの後に着いて来てくださいませ。道を外れますとどこへ出るか分かりませんので、お気をつけくださいませ」
廿楽はそういうと押入れの中へ入る。その後ろに正親、威知依と続いた。
真っ暗な道を廿楽が持つ提灯の灯りを頼りに5分程歩くとカサカサと草を踏みつける場所に出た。
「あそこがわたくしの家でございます」
足元ばかりを見ていた正親が廿楽の声で頭を上げると目と鼻の先にぽつんと平屋が1軒建っていた。
平屋の周りには、自分の領域を示すようにぐるりと柵で囲まれている。
柵の中には平屋と井戸と整えられた小さな庭、柵の外は遮る物が何もない草原と少し欠けた青白い月だけだった。
広い広い草原の中に小さな庭付きの平屋が一軒あるというのは、とても異様であり寂しい。
「何だか寂しいところだな」
威知依がポツリと呟いた。
「わたくし達が子供を育てる場合はこのような場所が良いのです」
「ふーん」
廿楽の答えに威知依は興味無さそうに答えた。
無言でざくざくと草原を踏みしめて家に着くと彼女は家の中に案内せずに井戸がある庭へと案内した。
「ところで、子供が攫われたのはいつの事ですか」
「二日前でございます」
正親の問いに廿楽が答え、井戸の前で止まる。
「ここで洗濯をしていたのです。縁側の戸は開けていたのですが、部屋の中は死角になっており見えないのです」
井戸の横に立ち家を見ると、たしかに戸が邪魔をして部屋の中を見ることはできない。
威知依は、開け放たれている縁側に駆け寄り、身を乗り出すようにして部屋を覗き込み、ふーん、と声を出す。
「縁側の向こう側は玄関なんだな」
「はい、そうでございます」
縁側の向こう側は玄関になっており、開け放たれた玄関から真っ暗な草原を望むことができる。
昼間は風に揺れる草の緑と空の青が見えるのであろう。
「いつもこうやって玄関は開けた状態?」
玄関から縁側まで視界を遮る物など何も無い部屋の様子に正親は、無用心では?と思う。
「いいえ。あの時はこうなっていたのでございます。普段は玄関は閉めております」
威知依と正親の横に移動してきた廿楽が答える。
「家の状態は、赤ん坊が攫われた時とほとんど同じにしてあります」
行李が3つしかない6畳間にポツンと小さな布団が敷いてあり、掛け布団がめくれ上がっている状態が、いかにもそのままです、という状態である。
「ここはわたくしが子を育てる為に特別に都合した場所と家でございます。モノ払いの呪いをしておりますので、わたくしが招き入れない限りよそ者が入ってくるはずがないのです。そういう事情でございますので、玄関を開けたまま赤ん坊から目を離しても大丈夫であろうと思っていたのです」
廿楽は着物の袖口で目尻を押さえてクスンと鼻を鳴らした。
「上がらしてもらうぞ」
「どうぞ」
威知依は一応沓脱ぎ石の上で靴を脱ぎ家の中へ入る。
そして、敷かれたままの布団に顔を近づけて匂いを嗅いでみるが、赤ん坊の匂いも人間の匂いは残っていなかった。
フンと勢い良く鼻から息を出した威知依は脱いだ靴を持って玄関へと向かった。
「おい、どこに行くんだ?」
「玄関の向こうに行ってみるんだ」
正親の問いに威知依はニっと笑って答えた。
「僕も行くよ」
正親は家の周りをぐるりと半分回って玄関の方へと向かう。玄関にたどり着く前に先へと行く威知依の背中が見えた。正親は走って威知依に追いつき、肩を掴む。
「1人で行くなよ」
「何だ正親、怖いのか?」
威知依はニヤっと悪戯っぽい顔で笑って正親を見上げた。
「違う!呪いがかけてある空間だぞ。下手にうろついたら帰れなくなるかもしれないだろ」
「ははは、そういうのを怖いって言うんだぞ」
威知依は笑いながら先へと進む。
時折風が吹いて二人の髪や服と遊んで通り抜けて行き、正親は夜の散歩に心地良い気持ちになっていた。
はっと気になり廿楽の家を振り返ると、彼女の家は夜の闇に紛れて見えなくなっていた。つまりは、それだけ離れたということだ。
「どんどん離れていくけど、こっちに何かあるのか?」
「別に、何もないぞ」
「はぁ?」
正親の問いに、威知依は振り返らずに答え、それを聞いた正親は足を止めて威知依の襟首を掴んだ。
「何か目的があって歩いているのかと思ったのに。大体なんで、こっちに歩いて来たんだよ。家からだいぶ離れてしまったじゃないか」
「オレはこっちに来たいから来たんだ。勘違いしてたのは正親じゃないか。オレに当たるなよなー」
威知依は襟首を掴んでいる正親の腕を振り払うと下から正親の顔を睨んだ。
威知依と正親の身長差からいくとどうしても威知依は正親を見上げることになってしまうからだ。
二人は、しばらくそのまま睨み合っていたが、物音を聞きつけた威知依の長い耳がひくっと動いたので状況が変わった。
「隠れろ」
威知依は小声で言うと草の中に身を隠した。正親も同じようにしゃがみこんだが、どうしても頭が見えてしまうので、うつ伏せになるしかなかった。
息を殺して耳を澄ますと遠くで草原の草を踏みしめる足音と人の声が聞こえる。
声が何を言っているのか、男なのか女なのか正親には判断など出来なかった。
しかし、威知依の耳には聞こえているだろう。そう思った正親は、静かに威知依が動くまで待っていた。
どれくらい地面に張り付いていたのだろうか、正親と威知依はむっくりと立ち上がった。
「何だったんだ?」
「人間の女だった。坊や、坊やって何かに話しかけてたぞ。それから、電話がどうとかとも言ってたな。あの人は今日も電話に出なかった。いつ帰ってくるのかしらって」
「口調から見て女の人だろうな」
「人がわたくしの赤ん坊を盗んだのでございます。今、人がいたのですね」
いつの間にか背後に立っていた廿楽が無表情に正親を見上げて問う。
「え、あー、そうみたいですよ。な、威知依?」
「お!?おお、そうだな。いたぞ、人が。女だった。そうだな、正親?」
声は淡々としているが、廿楽の美しい顔には怒りの色がはっきりと現れている。
迫力に押された正親と威知依はたどたどしく問いに答えることしかできなかった。
「人は、この地に入って来たのですね。そして、出て行ったのですね」
正親の胸元を両手で握り締めて廿楽が迫る。
人がいたかどうかもわからなかった正親だが、鬼気迫る表情で詰め寄る廿楽の問いに首を何度も上下に動かし頷いた。
「わたくしの子は、この先に!」
呟きを言い終える前に、廿楽は風に乗って夜空へ舞い上がる。夜空を見上げると、時折キラキラと光る細長い体をくねらせて小さくなっていく龍の姿があった。
月の青白い光に照らされた龍の姿を正親と威知依はぼんやりと眺めていた。
「あの女、龍だったのか・・・」
威知依が呟く。正親は無言で頷くが、はっと何かに気づいたように威知依の顔を見る。
「威知依、追いかけるぞ!」
「なぜだ?いいじゃないか、好きにさせれば」
「あっちで騒ぎを起こしたら大変じゃないか。それに、僕たち、どうやって帰るんだよ」
「来た道を戻れば帰れるだろう?」
威知依は耳の穴に小指を突っ込んでポリポリと掻きながら上の空だ。
「いいから、追うんだよ!」
正親は少し怒った様に言い放つと廿楽が消えた方向へと走り出した。
正親はザクザクと草を踏みつけて走る。
しかし、龍の速度に人が追いつけるわけもなく、走っているとだんだん廿楽が飛んでいった方角がわからなくなってくる。
「お前は、その足であの女に追いつくと思ってるのか?」
背中に翼をつけた威知依が正親の頭の上から笑いながら話しかける。
そして、正親の背中から腕を回し胸の前で手を握ると背中の翼を大きく羽ばたかせ、正親を抱えて夜空に舞い上がった。
「正親は、走るのが遅いなあ。あれじゃあ、あの廿楽っていう女には一生追いつかないぞ」
「お前ら妖しは飛べるから速いんだよ」
正親は、自分の足が遅い事は棚に上げて言った。
草原の夢を見ていた坂田は気分良く目を覚ました。
まだまだ夜中だったが、草原の夢がとても楽しかったので不快感はなかった。
ベビーベッドで眠っている赤ん坊は夜鳴きもせずにぐっすりと眠っている。
喉の渇きを覚えた坂田は、キッチンへと向かう。
冷蔵庫からミネラルウォーターを出し一口飲む。冷たい水が全身に浸透するようで気持ちが良かった。
ふと時計を見ると、まだ夜中の0時を回ったばかりだった。
0時ならば夫も電話に出るかもしれない、と思い立った坂田は電話機の受話器を手に取り、夫の携帯電話へと電話をかけた。
「あなた、元気にしているかしら?」
呼び出し音を聞きながら坂田はつぶやく。
長い呼び出し音の後、留守番電話のアナウンスが始まった。
坂田は一つため息をつくと伝言を入れることなく電話を切った。
コードレスホンの受話器を持ったままベッドルームへ戻り、赤ん坊を覗き込む。
「今回は呼び出し音が長かったわ。もしかしたら次の電話では出るかも知れない」
いつもは2・3回の呼び出し音ですぐに留守番電話のアナウンスになるのだ。今回は、電話に気づいた時には留守番電話になっていたので取らなかったのかも知れない。
坂田は再度夫の携帯電話へ電話をする。
長い呼び出し音が続く。
その内いつもは大人しく眠っている赤ん坊がぐずり始め、呼び出し音が留守番電話のアナウンスに変わる頃は泣き出してしまった。
『・・・・ピーという発信音の後にお名前とご用件をどうぞ』
アナウンスがそう告げ、ピーという電子音が鳴る。
激しい赤ん坊の泣き声をBGMに坂田は留守番電話に伝言を残す。
「あなた、子供が生まれたの。名前を一緒に考えましょう?忙しいかもしれないけど、一度帰ってきて。お願い、帰ってきて、坊やも待ってるわ」
悲痛な叫びにも似た伝言を残し電話を切った坂田は、受話器をベッドに放り投げて泣きじゃくる赤ん坊を抱き上げる。
「ああ、どうしたの?いつもはこんなに泣かないのに。お母さんの電話の声がうるさかったのかしら?ああ、どうしよう」
どんなに揺すっても宥めても赤ん坊は泣き止まず声は大きくなる一報だった。
赤ん坊の声が大きいからか、家具の薄いはめガラスにひびが入った。
「あああ、どうしたらいいの?こんなに泣くなんて初めてだわ。あなた、あなた、早く帰ってきてちょうだい」
坂田は火が付いたように泣き叫ぶ赤ん坊をあやしながら目に涙を浮かべて帰らぬ夫を思った。
赤ん坊をあやしながら部屋の中をウロウロとしていると、リビングに着物姿の女性ー廿楽ーが立っていた。
「きゃああ、あなた、誰なの?何処から入って来たの?」
坂田は目一杯叫んだが、廿楽は顔色一つ変えずに冷たい目で坂田を見ていた。
「わたくしの赤ん坊を返して頂きます」
廿楽は美しい声に刺すような感情を乗せて坂田に向かって言った。
「な・何を言っているの?坊やは私の子よ!」
「本当にお前の子ですか?その子はわたくしがお腹を痛めて生んだ子です。お前の子ではありません」
「この子は私の子よ!あの人との間に出来た子なのよ!!」
坂田は、泣き叫ぶ赤ん坊を抱きしめたまま座り込んだ。
そんな彼女を目指して廿楽の素の足がフローリングの上を音を立てず滑るように一歩一歩と近づく。
「あなた、あなた、あなた!!助けて、変な人が私から赤ん坊を取り上げようとする!」
廿楽が声を発してから泣き止んでいた。
赤ん坊が泣き止んだ事さえ気付いていない坂田は、赤ん坊を懐に抱きかかえて帰らぬ夫へと助けを求める悲鳴を上げる。
「あなた、あなたー、助けて!!」
叫び続ける坂田を廿楽は真上から冷たい目で見つめていた。
『哀れな女』
声に出さずとも、廿楽が心の中でそう呟いているのははっきりと分った。
「その子はわたくしの子、返して頂きます。お前は真実を思い出しなさい」
廿楽の美しく冷たい声で坂田は頬を殴られたような気分だった。
「真実・・・思い出す・・・」
坂田は真上にある廿楽の顔を見上げる。
「真実・・・?」
「そう、真実。お前の真実。その子はわたくしの子。わたくしの家からお前が攫った子。お前に子があったのか、よく思い出してみなさい」
「・・・私の子・・・」
「そう、お前の子。お前が抱いている子はお前が腹を痛めて生んだ子?」
坂田は腕に抱いている赤ん坊を見る。
赤ん坊は大きな目を開いて坂田を見ていた。
「きゃああああああ!な、何、コレは私の子じゃない。私が生んだ赤ん坊のはずがない!!」
坂田は赤ん坊を放り出し、フローリングに頭を擦り付けてイヤイヤをする子供のように頭を振りだした。
投げ出された赤ん坊は、廿楽が起こした小さなつむじ風によって吹き上げられ廿楽の腕に抱かれている。廿楽は2日ぶりに抱く我が子の顔を撫でて愛しそうな表情で見つめた。
廿楽の白く細い手で撫でられた赤ん坊の額には小ぶりの角があり、頬半分から首にかけては鱗がびっしりと張り付いている。
どうみても人間の、坂田の子供とは思えない。
「変に育ってしまったところはないようだね。良かった」
廿楽がほっと一息ついた時、背後でバサバサバサと大きな翼を羽ばたかせて威知依と正親リビングに現れた。
「おお、何やら別の家の中にたどり着いたぞ」
威知依はリビングに正親を下ろすと薄暗い部屋を見回して言った。
正親はと言うと、背中を向けている廿楽に声をかける。
「ここはどこですか?」
「わたくしの赤ん坊を攫った人の家です」
淡々とした声で廿楽が答える。
くるりと正親を振り返った廿楽の腕には、しっかりと赤ん坊が抱かれていた。
「赤ん坊、見つかったんですね」
「ええ、おかげさまで」
廿楽はにっこりと笑って見せた。
その笑顔は薄紅色の花が開いた時のように美しかった。
正親もつられてにっこりと笑った。そして、廿楽の腕の中の赤ん坊を覗き込む。
小さな角が2本あり、頬から首にかけてびっしりと鱗がある赤ん坊は、どう見ても人間の赤ん坊ではなかった。
美しい廿楽の子供である、可愛らしい顔を想像していたが、予想は外れてしまった。
「ところで、この女はなぜこんなところでうずくまっているんだ?」
威知依が坂田を見て言う。
廿楽は赤ん坊を抱きなおすと、小さなうめき声を発しながらうずくまっている坂田を見下ろした。
「かわいそうな人なのです」
「かわいそう?」
聞き返す正親に廿楽は頷く。
「はい・・・。さあ、帰りましょう。あなた様方の家までお送りいたします」
廿楽は正親と威知依の顔を交互に見ると、何も無い空間を指で上下に引っ掻いて穴を作った。
ぽっかりと口を開けた別空間へと繋がる穴の先には、青い月の光に照らされる草原が見えた。先ほどまで3人がいた場所だ。
正親と威知依は床にうずくまる坂田に目をやる。
3人の声は届いていないらしい。頭を内側に丸め込み細い両腕で抱え込み、子供を生むくらいに若く健康な女性とは思えないほどに痩せている背中が小刻みに震えている。
「泣いているのか?」
威知依が小さな声で正親に聞く。
「わからない、でも、泣いているのかもしれないな」
全く状況も事情もわからない正親は、見たまま思ったままに答えた。
「この人は子供が出来なかったのでございます。それが原因で旦那様が他所に別の妻を作ってしまいました。そして、その別の妻に子供が出来たのでございます」
廿楽が言う。
「聞いたのですか?」
正親の問いに廿楽は首を振る。
「この部屋中に呪いの言霊が充満しております。その言霊が聞こえるのです」
「そうか・・・」
正親には全く聞こえない呪いの言霊だ。威知依には聞こえているのかと思い、彼を突いてみる。
「オレには聞こえん」
という返答が返ってきた。
「わたくしたちがいたからと言って、この人の問題が解決するわけではございません。さあ、帰りましょう」
廿楽はそういうと正親と威知依を後ろから急かして不自然に口を開けている穴をくぐらせた。
「明日には決着が着きますよ、きっと」
廿楽はそう坂田の背中にそう言うと穴の中に入った。
穴の口は閉じ、空間の裂け目は無くなった。
廿楽の言葉は予言だったのだろうか。
明日の決着のために、思い出したくない事がらが坂田の脳裏と心に押し寄せていた。
坂田が望み、幸せな家庭を築こうと誓って結婚した坂田とその夫だったが、なかなか坂田に子供ができない事から夫の心は坂田から離れていった。
次第に仕事で遅くなる、出張だと言っては別の女の所へ通うようになった。
坂田としては、子供ができない自分に非があると思い夫を責めることができず、一人で産婦人科へ相談に行ったりしていた。
そうこうしていると、夫は全く家に寄り付かなくなってしまった。
仕事で残業だ接待だと言っては真夜中に帰ってきたり、出張だと言っては外泊することが多くなった。そして二カ月ほど前からほとんど家に帰って来なくなった。
坂田もさすがに腹を立て夫の愛人宅を知る為に仕事帰りの夫の後をつけた。夫は坂田がつけている事には全く気付かず、真っ直ぐに女の家へと向かった。
坂田は難なく愛人の家を突き止め、それからしばらく愛人を監視した。そして、あることに気付いた。
愛人は夫の子供を身ごもっている。
坂田はその事を知った時、完全な敗北感を味わった。
ーー私には出来ない事があの人にはできたーー
大きな敗北感と悲しみを抱えてマンションに帰った坂田は、夫との幸せな生活が営まれた部屋で昼夜問わず彼女は泣き続けた。
「私に子供が出来たならば、あなたは私から離れなかった?私に子供が出来たならば、あなたは帰って来る?」
毎日呪いの様に一つの文句を呟いて、幾日過ぎただろうか。部屋の中をウロウロとしていたと思ったら、小さな一戸建ての家の前に立っていた。
開け放たれた玄関は、坂田を手招きしているかのように彼女の目に写った。
フラフラとおぼつかない足取りでその家の玄関から中を覗くと、誰もいない。
ガランとした空間に小さな布団が敷かれ、こんもりも盛り上がっていた。
家の中に無断で上がりこんだ坂田は、小さな布団を覗き込むと、赤ん坊が眠っていた。
誰もいない家に赤ん坊が1人。
神様の贈り物、私の子供はこんなところにいた。
病んだ坂田の心に神かそれとも悪魔か分らない、もしかしたら坂田自身だっのかもしれない何かが囁いた。
『これであの人は帰ってくるわ。この子は私の子供』
坂田は迷いもしなかった。
赤ん坊を抱き上げるとさっさと家を離れた。家の外は何処までも続く青い草原だった。
ーーキレイな草原ーー
思った瞬間、坂田はリビングにポツンを突っ立っていた。
その腕には、赤ん坊をしっかりと抱いていた。
それから2日間、坂田は夫の携帯電話に何度も何度も電話をし続けた。
しかし、夫と会話をすることはできなかった。
思い返すと本当に可笑しな出来事だ。坂田はぼんやりとした意識の中で思った。
なぜ急にリビングから草原へと移動したのか、全く説明ができないし、わからない。
坂田はリビングの床に足を伸ばして横になった。
床は堅く体が痛かったが、疲労感が強く起き上がることができなかった。
あの女の人は何だったのだろう?私が抱いていたあの化け物のような赤ん坊は何だったのだろう?女の人が言っていた決着とは何だろうか?夫が帰ってくるのだろうか?
坂田は色々なことを考えながらそのまま眠りについた。
翌日、坂田の夫が離婚届に判を押してもらう為にやって来た。
しかし、坂田はリビングで息も絶え絶えの状態で倒れていたという。