「姉だから」十年間も命を削ってきましたが、婚約者まで譲れと言われたので、家族と縁を切ります
「今日の魔力、少しちょうだい」
妹のミリアが、いつものように手を差し出した。
私はその手を握り、魔力を流す。
身体の中から、ごっそりと魔力が抜けていく。
指先が冷たくなった。
意識が一瞬飛んだ。
慌てて肘掛けに腕を突き、身体を支えた。
「もう少しだけ。明日は試験なの」
離しかけた手を、妹が握り直す。
(もう少し……か)
十年前は、本当に少しだった。
『お姉ちゃんなんだから、分けてあげて』
身体の弱かった妹を助けたくて、私は頷いた。
妹が元気になってからも、毎朝続けた。
授業があるから。試験があるから。先生に褒められたいから。
そうして、渡す量は増えていった。
「ありがとう、お姉様。先生にも言われたの。こんなに魔力の多い令嬢は珍しいって」
妹が部屋を出ていく。
私は少し休んでから、冷めた朝食に手を伸ばした。
――その夜、父の書斎に呼ばれた。
「アルベルト殿との婚約を、ミリアに譲ってほしい」
父の隣には、母とミリアがいた。
私の座る椅子は用意されていなかった。
「……私の婚約者を、ですか?」
「レイン侯爵家は魔術師の名門だ。魔力の少ないお前より、ミリアの方が相応しい」
魔力の少ない、お前。
今朝、私の魔力を受け取った妹は、当然のように父の隣に座っていた。
「エレナ。お姉ちゃんなんだから、妹の幸せを考えてあげて」
母が、いつもの言葉を口にした。
ミリアが申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめんね、お姉様。私も最初は断ったの。でも、お父様とお母様が、私の方が相応しいって」
「アルベルト様は、何と?」
「これから話す。ミリアほどの魔力がある娘なら、先方も喜ぶだろう」
アルベルト様には、まだ話してもいない。
私の気持ちも、完全に無視だ。
「……嫌です」
三人が私を見た。
聞こえなかったのだろうか。
それとも、私がそう言うとは思わなかったのだろうか。
「アルベルト様との婚約は、譲りません」
「何を言っている。お前には別の相手を探してやる」
新しいドレスも、一つしかないお菓子も、妹に譲ってきた。
母と出かける約束だって、ミリアが泣けば留守番になった。
次はお前の番だと言われ、その次も譲った。
でも、アルベルト様は。
別の誰かを用意してもらえば、それでいい人ではない。
「私は、あの方が好きなんです」
「ミリアだって好きなのよ。お姉ちゃんでしょう?」
母は困ったように眉を下げた。
聞き分けのない子を、なだめる顔だった。
「では、私の気持ちはどうなるのですか」
「お前が我慢すれば、丸く収まる」
父は、ためらいもせずに言った。
ミリアが嬉しそうに母を見る。
もう決まったと思ったらしい。
十年間、そうだった。
私が頷けば、みんな笑ってくれた。
それが嬉しくて、苦しくても頷いてきた。
「……分かりました」
「ようやく分かったか」
「では、皆様とは今日限りで縁を切ります」
「何?」
「家族だから、姉だから。そう言われて、ずっと譲ってきました。でも、もう嫌です」
「家族を捨てるつもりか!」
机を叩く音に、肩が跳ねた。
反射的に謝りそうになる。
私は両手を握りしめた。
「その『家族』の中に、私はいるのですか!?」
「……」
「私に我慢させることしか考えてくださらないのなら、もう家族ではいられません」
「待って、お姉様」
ミリアが立ち上がった。
「ごめんなさい、ミリア。でも、私は――」
「明日の分は、どうするの?」
一瞬、何の話か分からなかった。
妹は自分の手を差し出していた。
「魔力よ。明日、試験だって言ったでしょう?」
私が家を出ると聞いて、この子が心配したのは、それだった。
「もう渡しません」
「困るわ!」
「自分の力で、試験に臨んでください」
差し出された手を取らず、書斎の扉へ向かう。
「出ていくなら、侯爵家との縁談もなくなると思え!」
足が止まった。
胸が痛んだ。
けれど、ここで振り返れば、私は明日も妹の手を握る。
「アルベルト様には、私からお話しします」
私は、自分で扉を開けた。
◇
自室へ戻り、着替えと少しの貯金を鞄に詰めた。
それから、アルベルト様にいただいた手紙も。
屋敷を出ようと廊下を歩いていると、書斎から母の声が聞こえた。
「放っておきなさい。どうせ、すぐに帰ってくるわ」
追いかけてくる足音は、ひとつもなかった。
門を出て、辻馬車を呼ぶ。
行き先は決めていた。
「レイン侯爵家へ、お願いします」
遅い時間に訪ねるのは失礼だと分かっていた。
それでも、父より先に伝えたかった。
私が、あの人との婚約を望んでいることを。
屋敷に着くと、使用人がすぐに中へ通してくれた。
応接室へ入ったところで、膝が折れかける。
「エレナ!」
駆け寄ってきたアルベルト様が、私の腕を支えた。
「どうしたんだ。その荷物は?」
「夜分に、申し訳ありません」
「まずは座ろう。話はそれからでいい」
ソファに座らされ、肩に毛布を掛けられた。
温かいお茶が運ばれてくる。
アルベルト様は、私が一口飲むまで待っていた。
「父が、私ではなく妹と婚約していただきたいと申しております」
向かいに腰を下ろした彼の表情が変わった。
「ミリア嬢に?」
「はい。魔力の多い妹の方が、侯爵家に相応しいからと」
カップを置こうとして、受け皿にぶつけてしまった。
小さな音が、やけに大きく響く。
「私は、お断りしました。でも、父は……」
「私も断る」
顔を上げた。
アルベルト様は、まっすぐに私を見ていた。
「私はエレナと婚約したのであって、ミリア嬢と婚約した覚えはない」
「でも、家を出てきてしまったんです。父は、それなら縁談もなくなると」
「君のお父上が何と言おうと、私の気持ちは変わらない」
ほっとして、息が漏れた。
「……エレナ?」
「はい?」
「これを使うといい」
差し出されたハンカチを見て、初めて自分が泣いていることに気づいた。
ああ、私。
ここへ来るまで、ずっと怖かったのだ。
「お見苦しいところを……申し訳ございません」
「そんなことはいい。君は、どうしたい?」
急かさずに尋ねられた。
私はハンカチを握り、膝の上へ視線を落とした。
「……あなたの婚約者で、いたいです」
「よかった」
アルベルト様も、深く息をついた。
「私だけがそう思っていたら、どうしようかと思った」
いつも穏やかなあの人の指が、ぎゅっと組まれていた。
怖かったのは、私だけではなかった。
「私が、あなたを妹に譲りたいと思うわけがありません」
「うん。ありがとう」
そこで初めて、彼が笑った。
私も、涙に濡れた目で笑った。
◇
落ち着いてから、家であったことを話した。
妹に魔力を渡していると言うと、アルベルト様の顔が曇った。
「今も続けているのか?」
「はい。毎朝」
「ミリア嬢は、もう元気だろう?」
「授業で使うんです。足りなくなったら困るからって」
アルベルト様は、しばらく黙っていた。
「君がいつも疲れていたのは、そのせいか」
お茶会の途中で席を外したことがある。
庭を歩いていて、休ませてもらったことも。
そのたびに、私は自分が情けなかった。
「体力がないだけです。昔からですから」
「魔力を渡し始める前も?」
答えようとして、口を閉じた。
子どもの頃は、庭を走っていた。
木登りをして、母に叱られたこともあった。
いつからだったのだろう。
階段の途中で、息を整えるようになったのは。
「……覚えていません」
アルベルト様は私の手を見た。
カップを包んでいても、まだ指先が冷たい。
「医師を呼んでもいいか。魔力による不調に詳しい人がいる」
「今からですか? でも、私はいつもこうですし」
「いつも苦しいなら、なおさら診てもらおう」
その言葉に、返事ができなくなった。
母には、よく言われた。
お前は昔から疲れやすいのだから、仕方ないでしょう、と。
仕方ないことでは、なかったのだろうか。
呼ばれた医師は、私の手に触れ、顔色を確かめた。
魔力を渡す量を聞かれ、妹がもういいと言うまでだと答える。
「途中で、気分が悪くなることは?」
「あります。でも、少し休めば動けます」
「そのことは、ご家族に?」
「最初の頃に。妹の方が大変なのだからと、言われました」
医師が顔を上げた。
何かを言いかけて、それから静かに頷いた。
「今夜は休んでください。魔力の譲渡は、すぐにやめましょう」
「やめても、大丈夫なのでしょうか。妹の身体は」
「今も治療に必要なのか、妹さんは改めて診察を受けるべきです。ですが、あなたが倒れるほど渡し続けていい理由にはなりません」
アルベルト様が、私の肩の毛布をかけ直した。
私はそれ以上、妹のことは口にしなかった。
翌朝。
誰かに起こされる前に、目が覚めた。
昨夜のことを思い出す。
寝台の端に座って、少し待った。
扉は開かない。
魔力をもらいに来る人はいなかった。
着替えて廊下へ出ると、アルベルト様が待っていた。
「よく眠れた?」
「はい。……あの」
「どうした?」
「朝って、こんなに身体が軽いものなんですね」
彼の足が止まった。
私は二、三歩先まで進んでから、振り返る。
たったそれだけのことが、嬉しかった。
「まだ、疲れていないんです」
アルベルト様は笑わなかった。
私のところまで来ると、そっと背中に手を添えた。
「これからは、それが当たり前になるんだ、エレナ」
◇
朝食のあと、昨夜の医師が魔力の測定器を持ってきた。
水晶に手を置くと、目盛りが上がっていく。
途中で止まると思っていた。
針は上がり続け、一番上で動かなくなった。
「……壊してしまいましたか?」
「いいえ。測れる上限を超えています」
医師が、私の手を水晶から離した。
「これほどの魔力をお持ちだったのですね」
「私が?」
思わず聞き返した。
「私は、魔力が少ないのではないのですか」
「毎朝、大量に渡した後に測れば、残りは少なくなります」
年に一度の測定を思い出す。
父と母は、いつも妹を褒めていた。
それに比べてお前は、と言われた。
その日も、朝には妹の部屋へ行っていた。
「……渡す前に測ったことは、一度もありません」
アルベルト様が、ゆっくり息を吐いた。
「君がミリア嬢に渡した分まで、君と妹を比べる材料にされていたのか」
胸の奥が痛くなった。
私は、あの測定が嫌いだった。
妹が褒められるたび、一緒に喜ばなければと思っていた。
それでも、父がこちらを見るのが怖かった。
少しでも魔力が多ければ。
もっと役に立てれば。
あんな顔をされずに済むのに、と。
「では、私は……出来損ないでは、なかったのですか」
「エレナ」
アルベルト様の声に、顔を上げる。
「君をそう呼んだ人が、間違っていたんだ」
手を見下ろした。
十年間、何度も役立たずだと思った自分の手だった。
医師が椅子を寄せた。
「魔力の量とは別に、お伝えしなければならないことがあります」
その声に、私は背筋を伸ばした。
「魔力が回復しても、身体への負担がすぐになくなるわけではありません。あなたは十分に休まないまま、毎日、大量の譲渡を繰り返してきた」
「……はい」
「これ以上続ければ、命に関わります」
アルベルト様が、私の隣で身じろぎした。
私は、すぐには言葉の意味を飲み込めなかった。
「眠れば、戻るものだと」
「魔力は戻っていたでしょう。ですが、そのために身体を酷使していたのです」
少し休めば、また動けた。
だから平気だと思っていた。
動ける間は、まだあげられるのだと。
「私は、命を削っていたのですか」
医師が頷いた。
「まずは身体を休めましょう。今やめれば、回復を目指せます」
膝の上で、指が震え始めた。
昨日も、もう少しと言われて渡した。
あのまま家にいれば、今朝も同じことをしていた。
「……出てきて、よかったんですね」
「ああ」
アルベルト様が、すぐに答えた。
「来てくれて、本当によかった」
背中を丸めると、涙が膝に落ちた。
誰も、泣きやみなさいとは言わなかった。
◇
その日の午前、ミリアは魔法の試験を受けていた。
「フレイム!」
杖の先に、小さな火が灯った。
指先ほどの炎は、すぐに消えた。
教室が静まり返る。
いつもなら、的を炎で包めるはずだった。
「……もう一度、お願いします」
許可を得て、杖を振る。
結果は同じだった。
「今日は、調子が悪いようだね」
「違うんです。姉が、今朝の魔力をくれなくて……」
口にしてから、ミリアははっとした。
教師の採点する手が止まった。
「お姉さんから、毎朝魔力をもらっているのか?」
「……いいえ。何でもありません」
「君の魔力として提出された測定値も、お姉さんからもらった後のものか?」
ミリアは頷きかけ、慌てて動きを止めた。
教師は採点表を伏せた。
「今後の成績は、自分の魔力で受け直した試験で判断します。ご両親にも説明しましょう」
ミリアの手の中で、杖が震えていた。
試験のあと、学校の医師による診察も受けた。
かつての病気は治っており、治療のために魔力を補う必要はないと告げられた。
◇
三日後。
私は、侯爵家の客室でお茶を飲んでいた。
窓の外では、庭師が花壇の手入れをしている。
何もせずに眺めていると、落ち着かなかった。
「私に出来ることは、ありませんか」
様子を見に来たアルベルト様に尋ねる。
「帳簿の書き写しでも、お掃除でも。これだけお世話になって、何もしないのは」
「医師から、休むように言われているだろう」
「でも、昨日も休みました」
彼は隣に座った。
「今日は?」
「……休むほどのことを、していません」
言ってから、手元を見る。
毎朝、魔力を渡す。
そうすれば、少し休んでも叱られなかった。
今は、何もしていない。
「何かをしないと、ここにいる理由がなくなってしまいます」
アルベルト様は、しばらく黙っていた。
それから、私のカップへお茶を注ぎ足した。
「私は、君がいてくれると嬉しい」
「……それだけで、いいのですか」
「ああ」
返事は短かった。
その後に頼み事が続くのを、私は待っていた。
けれど、何もなかった。
彼は自分のカップを持ち、窓の外を眺めた。
「あの花壇、もう少ししたら白い花が咲く。君が好きだと言っていた花だ」
「覚えていてくださったんですか」
「君が庭へ来るたびに見るからね」
五年間のことを思い出した。
疲れた私を休ませてくれるとき、彼はいつもあの花壇の近くを選んだ。
私は申し訳なくて、うまくお礼を言うことばかり考えていた。
「咲いたら、一緒に見てもいいですか」
「もちろん」
今度は、すぐに信じられた。
私はカップを両手で包んだ。
◇
翌日、実家から面会を求める手紙が届いた。
アルベルト様は、封を切る前に私へ渡してくれた。
「会いたくなければ、断っていい」
手紙には、帰ってこいと書かれていた。
ミリアが困っている、とも。
学校で魔力の譲渡を話してしまい、自分の魔力で試験を受け直すよう言われたらしい。
私を診た医師からは、父と母にも診断書を送っていた。
魔力の譲渡をやめ、療養する必要があること。
続ければ、命に関わること。
もう、知らないはずはなかった。
「一度だけ、会います」
手紙を畳み、私は顔を上げた。
「戻らないと、自分で伝えたいです」
「分かった。私も同席していいか?」
「……お願いします」
一人で言わなければいけないと思っていた。
でも今は、アルベルト様にそばにいてほしかった。
翌日の午後。
応接室に入ってきた父は、座るなり言った。
「エレナ。もう気は済んだだろう。帰るぞ」
母とミリアも、父の隣に座った。
妹は私を見て、それからアルベルト様を見た。
「お姉様だけ、ずるいわ。私が大変なときに、アルベルト様と一緒にいるなんて」
「療養のために滞在してもらっています」
アルベルト様が遮った。
「診断書は、お読みになりましたね」
「もちろんです。こちらでしばらく休めたのなら、もう十分でしょう」
父が答えた。
私は膝の上で握っていた手を、ゆっくり開いた。
一度、息を整えてから口を開いた。
「まだ、休むように言われています」
「家でも休める」
「魔力は渡せません」
父が黙った。
ミリアが、身を乗り出す。
「次の試験まででいいの。先生が、今のままではクラスも変わるって。私、ずっと一番だったのよ?」
その声には、泣きそうな響きがあった。
私は反射的に、何とかしてあげたいと思った。
いつものように。
でも、手は動かさなかった。
「先生に、私から魔力をもらっていたと話したのでしょう?」
「仕方ないじゃない。急に何も出来なくなったんだもの」
「それなら、また私から魔力をもらって試験を受けても、あなたの力にはならないわ」
「黙っていれば分からないわ!」
ミリアの声が、部屋に響いた。
アルベルト様を見るなり、妹は顔を伏せた。
「……お姉様は、今までどおりにしてくれればいいのよ」
父が咳払いをした。
「エレナ。妹に恥をかかせたいのか」
「他人の力を自分のものと偽る方が、恥ずかしいのではありませんか?」
「生意気を言うな。周囲はミリアを天才だと思っているんだぞ」
知っている。
一番近くで、聞いてきた。
その隣で、私は何度も自分を恥じてきた。
「私のことは、魔力が少ないとおっしゃっていましたね」
「それは、測定の結果がそうだったからだ」
「ではなぜ、そんな私から魔力を奪おうとなさるのですか」
父が口を閉じた。
「妹に渡した後に測っていたから、少なかったんです。ミリアが使っていた魔力は、私が毎朝渡していたものでした」
母が目を伏せた。
誰も、初めて聞いたような顔はしなかった。
「分かっていて、それでも私に渡せとおっしゃるのですね」
父は答えなかった。
代わりに、声を和らげた。
「ならば、話は簡単だ。お前にそれだけ魔力があるのなら、また分ければいい。以前よりも多く分けられるだろう」
隣で、アルベルト様が息を吸った。
私は小さく首を振った。
「命に関わると、書いてあったはずです」
「深刻に考えすぎだ。現に、お前は生きているではないか。多すぎるというなら、次から減らせばいい」
「誰が、その量を決めるのですか?」
父が言葉に詰まった。
「今までは、ミリアがもういいと言うまででした。私が気分を悪くしても、少し休めば大丈夫だと」
「だから、今度は気をつければ――」
「私は、十年間もそうしてきたんです」
自分の声が震えた。
私は一度、息を継いだ。
「もう、やりません」
母が、父の袖を引いた。
「あなた。その言い方では、エレナが意地になってしまうわ」
それから、母は私に微笑んだ。
「ごめんなさいね。あなたがそんなに疲れているなんて、知らなかったの」
その言葉を聞いて、少しだけ胸が緩んだ。
知らなかったのなら。
今、分かってくれたのなら。
「だから、帰ってきてちょうだい。婚約のことも、もう無理は言わないわ。あなたがアルベルト様と結婚すればいいでしょう?」
父も頷いた。
私はアルベルト様を見た。
彼は、母に向き直った。
「私たちの婚約は、二人で続けると決めています。エレナを帰らせる条件にはなりません」
母の笑顔が止まった。
「ですが、婚約を続けられるのなら、もう不満はないでしょう? 家に戻って、これまでどおりミリアの面倒を見てちょうだい」
私は、母の顔を見つめた。
「……魔力を渡さなくても、帰ってきてほしいですか?」
母はすぐには答えなかった。
私は待った。
さっきの謝罪を、信じたかった。
「エレナ。家族でしょう。そんなふうに、何もかも嫌だと言わないで」
胸の奥が、すうっと冷えた。
何もかも。
たった二つ、嫌だと言った。
好きな人を譲ること。
身体を壊すほど魔力を渡すこと。
それさえ、この家族の中では許されない。
「お姉様、お願い」
ミリアが立ち上がった。
私の前に来て、手を差し出す。
「今日の魔力、ちょうだい」
見慣れた手だった。
私の指が、わずかに動いた。
十年間の癖は、まだ残っていた。
私は自分の手を、膝の上に戻した。
「もう、あげません」
「でも、私はお姉様の妹よ!」
「ええ。だから十年間、あげてきたの」
ミリアが唇を噛んだ。
「私が困っても、平気なの?」
私は妹を見た。
昔は、元気になってほしかった。
庭を一緒に走れるようになった日には、嬉しくて、二人で母のところへ駆けていった。
あの日の気持ちは、嘘ではなかった。
「平気ではないわ」
ミリアの顔が明るくなる。
「だったら――」
「でも、あなたを困らせないために、私が倒れてもいいとは、もう思えないの」
妹の手が、ゆっくり下がった。
「今ある魔力で、出来ることを覚えてね」
私は立ち上がった。
アルベルト様も隣で立った。
「エレナ!」
父の声に、身体が強張る。
私は足を止めた。
それでも、座り直さなかった。
「本当に家族を捨てるのか。親に向かって、そんな仕打ちをして!」
父も母も、私を見ていた。
謝れば、まだ許してやる。
そう言われている気がした。
「私にしてきたことを、悪かったとは思っていらっしゃらないのですね」
誰も答えなかった。
「私は、もう帰りません」
声は、思っていたよりはっきり出た。
「これからは、自分の身体を大切にします。誰と一緒にいるかも、自分で決めます」
父が何かを言いかけた。
私は最後まで聞かず、頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
扉へ向かう私を、アルベルト様が追い越す。
開けてくれた扉を、私は自分の足で通った。
◇
応接室を出たあと、しばらく廊下で立ち止まっていた。
膝が震えていた。
アルベルト様は何も聞かず、隣にいてくれた。
「……言えました」
「ああ」
彼の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
だから、前を向いたまま続けた。
「もう、戻りたくありません」
「ああ。戻る必要なんかない」
それを聞いて、ようやく足を動かせた。
客室に戻ると、冷めたお茶が残っていた。
片づけようと手を伸ばしかけて、やめる。
「少し、休んでもいいですか」
「もちろん」
私はソファに座った。
今度は、何もしないことを謝らなかった。
◇
半年が過ぎた。
療養を終えた私は、王立魔術院で働き始めた。
魔力を測ってくれた医師の紹介だった。
魔力は多くても、使い方は一から覚えなければならない。
出来なかったことが出来るようになるのが、楽しかった。
疲れたら休む。
無理なことは、無理だと言う。
それは魔法を覚えるより難しかったけれど、少しずつ出来るようになった。
ミリアは、自分の魔力に合ったクラスへ移ったと聞いた。
父と母からは、帰宅の催促と、私の結婚について話し合いたいという手紙が届いた。
どちらも、お断りした。
もう、他人だ。
それ以降、実家から届いた手紙は、封を切らずに返送してもらっている。
私とアルベルト様は、春に結婚する。
いつ結婚したいかと、彼が私に尋ねてくれた。
私は、春がいいと答えた。
「エレナ」
仕事帰り、魔術院の門の前で呼ばれた。
アルベルト様が待っていた。
「今日も、来てくださったんですか」
「夕食に誘おうと思って。疲れていない?」
「大丈夫です。今日は、最後まで魔法陣を描けたんですよ」
「それはぜひ詳しく聞きたいな」
嬉しくなって、隣に並ぶ。
彼が歩く速さを合わせてくれた。
「何を食べたい?」
「アルベルト様のお好きなもので」
答えてから、彼を見る。
アルベルト様は笑いながら、私の次の言葉を待っていた。
「……いえ。広場のお店の、焼きたてのパンが食べたいです」
「では、そこへ行こう」
それだけで、行き先が決まった。
私は少し笑ってしまった。
「どうした?」
「食べたいものを言うだけで、いいんだなと思って」
「うん。私もあの店は好きだ」
門を離れかけたところで、ふと気になった。
「アルベルト様。どうして、私だったんですか?」
彼がこちらを向く。
「魔力が少ないと聞いていた頃から、ずっと優しくしてくださいましたね」
「君といると、楽しかったから」
答えは、思ったより簡単だった。
「覚えているかな。庭で私が、植えたばかりの球根を掘り返そうとしたこと」
「芽が出たか確かめたいと、おっしゃったときですか?」
「そう。君に笑われた」
思い出して、口元が緩んだ。
「だって、毎日掘っていたら、花も落ち着いて咲けません」
「今と同じ顔で、そう言ったんだ」
アルベルト様が私を見る。
「そのあとも、君と話したくなった。次に来る日が、楽しみになった」
役に立った覚えのない日のことを、あの人は覚えていた。
ただ一緒にいて、笑っていた日のことを。
「……私もです」
私は彼に向き直った。
「あなたに会う日が、楽しみでした。家を出た日も、あなたと離れるのだけは嫌だったんです」
今なら、言えた。
「私、あなたと一緒にいたいです」
アルベルト様は目を見開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「私もだ。エレナ」
彼が歩き出そうとする。
私は、その袖をそっと引いた。
「あの。もう一つ、お願いしてもいいですか?」
「もちろん」
私は、彼の目を見た。
「手をつないで、歩きたいです」
アルベルト様の頬が、少し赤くなった。
「……私も、そうしたかった」
差し出された手を、私は握った。
温かな指が、そっと握り返してくれた。
「食事のあとも、このまま一緒に帰りたいです」
「よろこんで」
私は、その手を少し強く握った。




