第9話 逃走再び
『魔法の応用』の中に、物を浮かせる魔法というのがあった。
基礎編で学んだ火や水などの自然現象を再現するものではなく、ただ対象に魔力を纏わせて『浮け』と念じるだけという、基礎も何もあったものではない魔法だ。
どうして応用編に掲載されているのか疑問に思っていたところ、魔法を扱うためのベースができている者だけに教えたかったから、と欄外に記されていた。
『基礎編もマスターできないような魔力操作技術では絶対に無理』ということらしい。
「あっぶな……!」
そのまま無策に受け止めると下敷きになって僕まで怪我をしそうだったので、ジュリを少しだけ浮かせてふわりと抱き止めた。
本当に浮かせるだけの魔法なので、家具を動かしたい時くらいしか使い道はなかったのだが、何でも習得してみるものだ。
「何てことするんですか、怪我じゃ済みませんよ!?」
「あ……」
思わず大きな声を上げてしまったが、突き落とした女子は怒鳴られてようやく、自分が何をしようとしたのかわかったようだった。
しかし彼女が泣きだそうが知ったことではない。
「ジュリ、怪我は?」
「えと、大丈夫です……」
ゆっくり床に降ろして立たせると、大きな怪我はしていないようだった。
「よかった……」
ジュリの無事が確認できたところで大きく息を吐いた僕は、彼女を背に隠して階段の上を見上げた。
「だ、誰よあなた」
犯行現場を見られた女子たちは、突然現れた僕を見て一歩後ずさった。
おや、もしかしてクラスメイトだと気付かれていない。そういえばさっき眼鏡を外したんだった。
通報覚悟だったけど、これは都合がいい。
「ただの通りすがりです。男子の上階への移動は禁じられていることは知っていますが、言い争うような声がしたものでつい」
全部わかっているぞと余裕ぶって微笑んでみせると、女子たちは青ざめた。
――その時、屋内に続くドアのノブが微かに回ったのが見えた。
「あなたたちは、エーレンベルク様の同室になった彼女を妬んで階段から突き落とした。間違いありませんか?」
扉の向こうの相手に聞こえるように、今しがた起きた出来事をわざと説明する。
「そっ」
「それは本当?」
女子たちが言い返すよりも早くドアが開き、凛とした声が聞こえた。
「ミーシア様!?」
「本当かと聞いているの。答えなさい」
そこに立つのは、今まで彼女たちに見せていた優しく完璧な淑女ではなく、上に立つ者の威厳を携えた女王だった。
一瞥されると遥か上から見下ろされているような気分になる。
「答えられないの? ではジュリに聞きましょう」
すっと視線が動く。目が合ったジュリは肩を震わせた後、小さく頷いた。
「……はい。こちらの方が助けてくださいました」
すると、ミーシア嬢の視線が一瞬だけ険しくなった。ものすごく怖いけどがんばれ僕。
「そう。つまりあなたがたは、私の実習を邪魔したかったということね?」
「ち、違います!」
「ジュリは私と同じグループよ。その彼女に、意図的に怪我を負わせようとした。邪魔する以外の何だというの?」
すごいぞミーシア嬢、口喧嘩では勝てそうにない。思わず拍手しそうになったが堪えた。
「ミーシア様、いつもおそばにいる私たちよりも、そんな平民と見知らぬ男の言うことを信じるのですか!?」
おお、反撃した。命知らずだ。こちらにも心の中で拍手を送る。
「平民だとか、そんなことで本来の実力を評価しようとしない者よりは信用に値するでしょうね」
「そんな……」
そういえば、ミーシア嬢は口調こそ偉そうだが、他人の身分を蔑むようなことは一言も言わない。
公爵家としてのプライドは持っていても、それを傘に着るようなこともしない。むしろ嫌っていそうな雰囲気が垣間見える。
「このことは学校とあなたがたのお家にしっかりと報告します。二度と私に近づかないでちょうだい」
「ミーシア様!」
「まだ何か? 私はそちらの二人に用があるの。早く行きなさい」
女子たちはそれ以上何も言えず、結局はこれ以上ミーシア嬢を怒らせないように黙って立ち去るしかなかった。
足音が完全に聞こえなくなったところで、ミーシア嬢は改めて僕を見下ろした。
「良いタイミングでしたよ、エーレンベルク様」
「ふん、見計らっていたくせに」
そう、ミーシア嬢ならきっと、到着して早々にジュリがいなくなったら探すだろう。周囲に聞けばどこに行ったかもすぐにわかるはずだ。
なのでドアの向こうにいるのはミーシア嬢だとほぼ確信していた。
万が一違っても、目撃者が増えるだけなので構わないという打算もあったが。
「今日このホテルにいるということは、一年で間違いないのね。まったく、どこに隠れてたんだか。ジュリ、彼と知り合い?」
「え? えと……」
険悪な雰囲気に挟まれ、ジュリは僕とミーシア嬢の顔を交互に見る。
「初対面ですよ。散歩していたら偶然通りかかったんです」
話し声を聞いてしまったのは本当に偶然だ。信じてほしい。
「そう。ごめんなさい、ジュリ。私のせいで危険な目に遭わせてしまって」
「ミーシア様のせいではありません!」
「違うの。……私のせいよ」
ミーシア嬢は妙にしゅんとして、長いまつげを伏せた。僕は二人の顔を交互に見て、ピンと来た。
「いくら公爵家だって、寝室ではゆっくり休みたいですもんね」
「え?」
ジュリはきょとんとしている。
「普段エーレンベルク様の周りにいるのは、『完璧な淑女』の信奉者でしょう? 自分が選ばれなかった腹いせに相手に危害を加えようとするくらいです。そんな人間がそばにいたら、おちおち寝言も言えませんよ。胸の上で手を組んで、身じろぎ一つせず寝てるとでも思っていそうじゃないですか」
「……」
冗談めかして言ったのに、ミーシア嬢は否定しなかった。
それに比べて、良くも悪くもジュリは貴族の常識に染まっていない。
公爵家に敬意を払うべきだとは思っていても、ミーシア嬢のことを変に神格化しておらず、一人の人間として接している。
「そうよ、ジュリを選んだのは、その方が気楽だったからよ。……寝言は言わないけど」
「ええと……。光栄です、そんな風に思っていただけていたなんて」
えへへ、とジュリは照れくさそうに顔を綻ばせ、釣られて僕も笑ってしまった。
と、僕は不意にあることに気付いて、話の流れとまったく関係ないことを訊ねた。
「すみません、今何時でしょうか」
「急に何? 五時半を過ぎたところだけど……」
ミーシア嬢が自分の腕時計で確認した時間を聞いて、僕は慌てた。しかし顔に出してはいけない。
「長居しすぎました。やむを得ない事情があったとしてもレディーが泊まる部屋のそばをうろつくのは歓迎されないでしょうから、もう行きますね!」
「またあなたはそうやって!」
「えっ、まさか」
僕は踊り場の手すりに軽やかに足を掛け、
「ごきげんよう!」
ジュリの小さな悲鳴を背後に聞きながら躊躇いなく飛び降りた。わあ、思ったより高くて怖い。
地上に接する直前に、物を浮かせる魔法を使って無事に着地すると、脇目も振らず全速力で正面入口に向かって走った。
「ああ、もう! また逃げられた! ジュリ、あいつの名前を聞いた!?」
「い、いえ! 私は何も……」
遠くからそんな声が聞こえ、またしてもミーシア嬢からの印象が悪くなってしまったが、気にしている場合ではない。
スノウ様を起こしに行く時間が迫っていた。




