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#8 黄昏時

黄昏時(別名「逢魔時」)とは、昼と夜の境目で、この世と異界の境界があいまいになる時間帯(主に夕方)を指す。

………

……


その日の依頼は、郊外の古い屋敷の調査だった。依頼主の話では、夜になると屋敷から奇妙な音が聞こえるという。だが、実際に調べてみると、それは老朽化した屋敷の(きし)む音と、屋根裏に住み着いた野良猫の仕業だった。怪異(かいい)ではなく、ただの自然現象。よくある話だ。


クロは依頼主に報告を済ませ、報酬を受け取った。時刻は既に夕方、黄昏時(たそがれどき)。太陽が西の空へと沈みかけ、空は茜色(あかねいろ)と紫が混じり合った不思議な色に染まっている。


クロは最寄りの駅まで歩いて戻ることにした。この辺りには寺が多く、いくつもの寺が立ち並ぶ寺通りを抜けていけば、駅まで近道できる。クロは慣れた足取りで、寺通りへと向かった。


寺通りは、その名の通り古い寺が立ち並ぶ道だ。石畳が続き、所々に石灯籠(いしとうろう)が置かれている。普段なら参拝客の姿もある場所だが、この時間帯になると人の姿はほとんどない。


クロは寺通りへ入り、歩き始めた。石畳を踏む足音が、静かに響く。古びた寺の山門(さんもん)が続き、その向こうには境内(けいだい)の木々が見える。黄昏の光が、寺の屋根を照らし、影を長く伸ばしている。



だが、しばらく歩いていると、ふとした違和感を覚えた。


クロは足を止め、辺りを見回した。石畳の道。両側の寺。石灯籠。全て、先ほどと変わらないはずだ。だが、何かが違う。その「何か」が、クロにはすぐには分からなかった。



「……気のせいか」



クロは首を軽く振り、再び歩き始めた。疲れているのかもしれない。最近、立て続けに依頼をこなしていたからな。そう思いながら、クロは歩を進めた。


しかし、違和感が(ぬぐ)えない。


むしろ、歩けば歩くほど、その違和感は強くなっていく。クロは再び立ち止まり、今度はじっくりと周囲を観察した。


道。寺。石灯籠。空。全て、先ほどと変わらない。だが、決定的に何かが違う。クロは目を細め、その違いを探った。


そして、気づいた。


人の気配も、車の音も、鳥の鳴き声も、全く聞こえない。完全な静寂。まるでこの世界から音が消えてしまったかのような、不自然な静けさだった。黄昏時とはいえ、これは静かすぎる。


クロの背筋に、冷たいものが走った。これは、ただの静けさではない。何か、根本的に異常な状態だ。



「まずいな…」



クロは呟いた。周囲を見渡すと、景色はさらに奇妙に見えてきた。寺の輪郭が、どこかぼやけている。石灯籠の影が、妙に濃い。そして空の色が、茜色でも紫でもない、名状しがたい色になっている。


クロは自分がどこにいるのか、理解し始めていた。


境界(きょうかい)だ。


現世と、あちら側の境界。怪異が(うごめ)く世界と、人間の世界の狭間(はざま)。昼と夜の境目であるこの時刻は、現世とあちら側の境も曖昧になる。そんな時刻に、寺通りという霊的な場所を歩いていたことが、境界への入口を開いてしまったのだろうか。


クロは深く息を吐いた。落ち着け。まだ完全にあちら側へ行ったわけではない。境界は、その名の通り境目だ。まだ戻れる可能性はある。


だが、このまま先へ進んだら。


クロの本能が激しく警告を鳴らした。進むな。これ以上先へ進んだら、二度と戻れなくなる。そんな確信が、クロの全身を駆け巡った。


本当に危険な場所では、本能が警告を鳴らす。


この寺通りは、もう現世の寺通りではない。境界の中にある、似て非なる場所だ。このまま進めば、どこへ辿り着くのか。想像したくもない。



「……引き返すか」



クロは決断した。このまま先へ進むのは危険すぎる。来た道を戻る。それしかない。


クロは振り返り、来た道を見た。そこには、先ほどまで歩いてきた石畳の道が続いている。だが、その道もまた、どこか不安定に見えた。まるで、いつ消えてもおかしくないような。


時間がない。なんとなくそう感じた。


クロは走り出した。全力で。後ろを振り返らず、ただひたすらに来た道を駆け抜けた。石畳を蹴る足音が、異様に大きく響く。寺の山門が、次々と後ろへ流れていく。だが、それが本当に動いているのか、それとも自分が動いているだけなのか、もはや分からなかった。


息が上がる。足が疲れを訴える。だが、クロは止まらなかった。止まったら、この境界に(とら)われて、二度と現世へは戻れなくなるかもしれない。


周囲の景色が、徐々に変化していく。ぼやけていた寺の輪郭が、少しずつはっきりとしてくる。石灯籠の影も、自然な濃さに戻っていく。そして空の色が、茜色へと変わっていく。


そして、ふと気づいた。


人の気配がある。


前方に、参拝客らしき人影が見える。無事に現世に戻ってこれたのだろう。

クロは走るのをやめ、その場に立ち止まった。息が荒い。全身が汗で濡れている。



「……危なかった」



クロは呟いた。もし、あの時引き返す決断をしなかったら。もし、違和感を無視して先へ進んでいたら。今頃、クロはどこにいたのだろう。


考えたくもない。


空を見上げると、黄昏はもう終わりかけていた。星がきらめき始め、夜が訪れようとしている。クロは少し時間はかかるが、別の道から帰ることにした。


♢♢♢♢♢


その夜、事務所に戻ったクロは、ソファに横になった。今日の出来事を反芻(はんすう)する。

昼と夜の境目であるあの時刻、霊的な力が集まる場所。何かの拍子で境界(きょうかい)へ足を踏み入れてしまった。


幸い、すぐに気づいて引き返すことができた。だが、もし気づくのが遅れていたら。もし、違和感を無視していたら。

クロは軽く頭を振った。考えても仕方がない。


直感が働かない時は、違和感を頼ったほうがいい。本当に危険な場所では、本能が警告を鳴らす。


怪異探偵として生きていく以上、こうした危険は避けられない。だが、その危険を察知する力を磨くことはできる。



黄昏時(たそがれどき)、別名「逢魔時(おうまがとき)」。昼と夜の境目かつ、現実世界と異界が繋がる境目。


これからは、黄昏時に寺通りを歩く時は、より注意を払う必要がある。いや、そもそもその時刻では、なるべく霊的な場所には近づかないほうがいい。

Wright/__です。

本作品を読んでいただき、ありがとうございます。


今回の話は、実体験をもとにした内容になります。

体験したのは中学生の頃で、これをきっかけに心霊関連の話に興味を持つようになりました。

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