表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

#4 神隠し ‐弐‐


顔のない人型たちが、じわじわと包囲網を狭めてくる。

その動きは緩慢(かんまん)だが、確実だ。逃げ道を塞ぎ、獲物を追い詰める。それは、狩りをする獣の本能に似ていた。


クロは琥珀(こはく)を背中に庇いながら、周囲を警戒する。

10体の使(つか)()。そして、琥珀という守るべき対象。


(……最悪だな)


クロは内心で悪態をついた。一人なら、多少無茶な戦い方もできる。だが、琥珀がいる以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。

最悪の場合、自分を犠牲にしてでも琥珀だけは逃がさねばならないと、覚悟を決めた。


その刹那(せつな)、最も近い位置にいた使い魔が、突如として牙を剥いた。異常に長い腕を(むち)のように伸ばし、クロの顔面を掴み取ろうと肉薄(にくはく)する。



「っ!」



クロは身を反らし、その攻撃を回避した。同時に、手に握った漆黒(しっこく)のナイフを迷いなく振るう。


刃が使い魔の腕を深々と切り裂いたが、使い魔は悲鳴一つ上げることなく、ただ無機質に黙って後退した。切断された腕の断面からは黒い霧が不気味に噴き出すが、その傷は驚くべき速度ですぐに再生を開始する。



「……再生能力持ちか。予想はしてたが面倒だな」



クロは忌々(いまいま)しげに舌打ちをした。

使い魔は低級とはいえ、『(かく)(がみ)』の力で作られた存在だ。簡単には倒せない。


そして、一体の攻撃を合図にするかのように、他の使い魔たちも一斉に牙を剥いた。四方八方から、異様に長い腕がクロを捕らえようと迫りくる。クロは咄嗟(とっさ)に琥珀の手首を強く掴み、自分の方へと引き寄せた。



「琥珀、俺にしがみつけ!」


「え、あ、はい!」



琥珀はクロにしがみつく。

クロは琥珀を抱えるような形で、使い魔たちの攻撃を回避し始めた。

右から伸びる腕を低く屈んで(かわ)し、左から迫る追撃を後方への跳躍で間一髪やり過ごす。だが、やはり一人分の重さを抱えている分、本来の俊敏(しゅんびん)さは損なわれ、どうしても動きに(にぶ)さが生じてしまう。



「くっ……!」



避けきれなかった腕がクロの肩を(かす)め、服を引き裂くと同時に、血が滲むような鋭い痛みが走った。



「クロさん!」


「喋るな、噛むぞ!」



クロは琥珀を抱えたまま、さらに跳躍した。使い魔の包囲網から強引に突破しようと試みる。


しかし、使い魔たちは執拗(しつよう)に追ってくる。無音で、静かに、確実に。

クロは赤い石畳を蹴り、歪んだ家の壁に飛び移った。壁は呼吸するように膨らんでいるため、足場になる。

そこを足場にして、使い魔の頭上に跳び降りる。



「くたばれ!」



落下の勢いを利用し、ナイフを使い魔の頭部に突き立てた。

確かな手応えと共に、使い魔の体は黒い霧となって霧散(むさん)していく。


一体、撃破。


だが、残りはまだ九体も存在しており、クロの呼吸は既に激しく上がり始めていた。


(……琥珀を守りながらじゃ、長期戦は無理だな)


地面に着地した瞬間、使い魔たちは学習したのか、今度は一斉に襲いかかってきた。



「……まずい!」



クロは咄嗟に琥珀を抱えて横に転がった。さっきまで彼らがいた場所には複数の腕が叩きつけられ、赤い石畳が粉々に砕けて破片が周囲に飛び散る。



「はぁ……はぁ……」



クロの呼吸が荒くなる。琥珀を抱えたままの激しい回避は、想像以上にクロの体力を削り取っていた。腕の中で、彼女が恐怖によって限界まで震えているのが伝わってくる。


(……このままじゃ、やられる)


クロは決断を迫られていた。

このまま戦い続けても、じり貧だ。いずれ体力が尽き、使い魔に捕まる。

ならば……。


クロはポケットから一枚の符を取り出し、意を決してその名を叫んだ。



猫又(ねこまた)!!」



その瞬間、クロの足元に、複雑な術式が浮かび上がった。

赤い光が地面を這い、円を描く。その円の中に、古代文字のような記号が次々と現れる。


それは召喚術式であり、その中心から立ち上る光の中から、一筋の小さな影が飛び出してきた。

現れたのは、普通よりやや小柄で、吸い込まれそうな黒色の猫。だが、その尻尾は二本に分かれている。


式神(しきがみ)猫又(ねこまた)


クロと契約している式神だ。

式神は、式神に選ばれた者のみが呼び出すことができる切り札的存在。



「これをやると体がしばらく(だる)くなるから使いたくなかったんだが……」



膝をつき、肩で息をしながらクロは苦々しく呟いた。

式神の召喚は、術者の霊力(れいりょく)を大量に消費する。だが、今は背に腹は代えられない。



「あいつらを全部倒せ」



主の命令を受けた猫又は、即座に使い魔たちへと向かって走り出した。

使い魔たちは、猫又の小さな姿を見て、明らかに(あなど)った様子だ。


だが、それが致命的な判断ミスだった。


猫又が跳躍した瞬間、その体が瞬時に分身し、一匹が二匹、二匹が四匹と、瞬く間に十六匹にまでその数を増やした。十六匹の猫又たちは音もなく使い魔に襲いかかり、その小さな体からは想像もつかない鋭い爪で使い魔の体を次々と切り裂いていく。


混乱する使い魔たちを尻目に、猫又たちは素早い動きで攻撃を回避しながら、流れるような連携で反撃を加えていく。一匹が頭部に飛びつき、別の個体が足を切り、さらに別の個体が内部から破壊する。わずか数十秒の間に、九体いた使い魔は半分以下にまで激減していた。



「……流石にいけるか」



クロは猫又の戦いを見ながら、小さく息をついた。


猫又の戦闘力は二級怪異に匹敵し、最大の特徴である分身能力を駆使すれば、多勢に無勢の状況も容易に(くつがえ)すことができる。



「使い魔どもは、もう大丈夫だ」



クロの言葉に琥珀は周囲を見回し、十六匹の猫又たちが音もなく使い魔を蹴散らしている光景を見て、目を丸くした。



「ね、猫……?」


「式神・猫又。俺と契約している式神だ」


「すごい……」



琥珀は感嘆の声を漏らしたが、クロの表情は依然として険しいままだった。



「……まだ終わってない。使い魔を倒したとしても、本体がいる」



クロが鳥居の門を見上げると、その奥の暗闇から、何かが這い出てくる不穏な気配が漂い始めた。低く、耳障りで、聞く者の精神を削るような不快な音が空間全体に響き始める。


『ギギギギギギ……』


聞いているだけで吐き気を(もよお)すような音。



「……来るぞ」



♢♢♢♢♢


最後の使い魔が霧散(むさん)した瞬間、世界はまるで静止したかのような錯覚に陥った。風が止まり、音が消え、空に浮かぶ二つの太陽の光がわずかに揺らぐ。


そして、鳥居の奥から、ゆっくりと黒い霧が形を成しながら姿を現した。霧は次第に三メートルを超える痩せ細った人のような姿を取ったが、それは到底人間とは呼べない、異形(いぎょう)としか形容できない代物だった。ぼろぼろの着物を(まと)い、顔は能面(のうめん)のように無表情。その目の部分には底知れない深い闇が宿っている。


『ギギギギギギギギ……』


不快な音が、空間全体に響き渡る。それは、声ではない。何かが擦れ合うような、金属が(きし)むような、そんな音。



「……『(かく)(がみ)』、か」



クロは最大限の警戒を払いながら、ナイフを構え直した。

式神の召喚による霊力消費で体は(なまり)のように重く、視界もぼやけ始めていた。

だが、まだ戦える。戦わなければならない。



猫又(ねこまた)、半分は琥珀(こはく)を守れ。絶対に、一歩も近づけさせるな。残りは俺と戦う」



命じられた通り、八匹の猫又が琥珀を囲む守備陣形を敷き、残りの八匹がクロの傍に控える。『(かく)(がみ)』が一歩踏み出すたびに、地面が微かに震え、空間の密度が増していくようだった。


クロは極限の状態の中で観察を続け、紫苑(しおん)の周囲だけ妖気(ようき)の濃度が異常に高いことに気づく。まるで彼女自身が妖気の発生源となっているかのようだった。


(やはり……『(かく)(がみ)』は、紫苑を"力の()(しろ)"としている)


クロの推測は正しかった。

(かく)(がみ)』のような一級怪異は、人間の信仰や恐怖を(かて)にする。自身の力を安定させるため、特定の人間を選び、精神を支配し、無理やり"信仰する者(信者)"に仕立て上げる。

紫苑は今、強力な精神干渉を受け、無意識のうちに『(かく)(がみ)』へと力を注ぎ込み続けているのだ。逆を言えば、彼女が正気に戻り、その供給が断たれれば勝機はある。


『ギギギギギギギギギギギギ……!』


激しい音と共に、『(かく)(がみ)』の体から膨大な漆黒の妖気が溢れ出した。周囲を覆い尽くすほどの黒い霧に、クロは圧倒的な実力差を肌で感じ取った。本能が全力で逃げろと警鐘(けいしょう)を鳴らすほどの重圧。

だが、彼は一歩も引かずに鋭く命じた。



「猫又、行け」



八匹の猫又たちが、音もなく一斉に『(かく)(がみ)』に向かって跳躍した。


♢♢♢♢♢


放たれた八匹の猫又(ねこまた)たちが、鋭い爪を閃かせて『(かく)(がみ)』へと肉薄(にくはく)した。しかし、その爪が捉えたのは実体ではなく、流動する不気味な黒い霧に過ぎなかった。


『ギギギギギギ……』


(かく)(がみ)』の体からは、まるで意志を持つかのように無数の触手が爆発的に伸び、空中を舞う猫又たちを捕らえようと(うごめ)く。猫又たちはその卓越(たくえつ)した身体能力で回避を繰り返すが、触手の数は留まることを知らない。

ついに、一匹の猫又が逃げ場を失い、触手の餌食(えじき)となってしまう。捕らえられた猫又の体は、抵抗も虚しく徐々に黒い霧に侵食され、『(かく)(がみ)』の一部へと取り込まれていく。



「くっ……」



クロはナイフを握り締め、隙を見て捕らわれた猫又へと地を這うように接近した。

漆黒の刃が触手を切り裂き、辛うじて猫又を解放することに成功する。

解放された猫又はふらふらとクロの元へ戻ってきたが、その体の一部は依然として霧に侵食され、形を崩していた。

だが、式神に痛みの概念はない。ダメージを受けても、動けるうちは命令を遂行し続ける。猫又は、再び敵を見据えて構えを取る。


(……まずいな。このままじゃジリ貧だ……)


クロは焦燥感(しょうそうかん)を募らせていた。


(かく)(がみ)』の"侵食(しんしょく)"。触れたものを徐々に霧に変え、取り込む。


物理的な攻撃を(おも)とする猫又の爪や牙では致命傷を与えることができない。クロのナイフであればダメージを与えられるだろうが、この触手の群れの中に飛び込んで接近戦を挑むのは、死に直結するあまりにも危険な()けだった。

その間にも、『(かく)(がみ)』の攻撃は続く。触手が、四方八方から伸びてくる。

猫又たちは回避を続けるが、徐々に追い詰められていき、一匹、また一匹と、触手に捕まり始めた。



「このっ……!」



クロはナイフで触手を切断し続ける。だが、切っても切っても、新しい触手が生えてくる。


(……きりがない!)


戦いが長引くにつれ、クロの体力もまた限界を迎えようとしていた。膨大な霊力の消費と激しい立ち回り、そして式神の維持という三重の負荷が、彼の肉体を確実に(むしば)んでいく。呼吸は荒く乱れ、視界はさらに混濁(こんだく)し、足元さえおぼつかない。そんな一瞬の集中力の欠如(けつじょ)を、『(かく)(がみ)』は見逃さなかった。


『ギギギギギギギギギギギギ……!』


不快な音が一段と高く響き渡り、『(かく)(がみ)』の触手が、さらに増殖する。

その数は数百、数千本にまで及び、もはや回避など不可能。

全ての猫又がなす術なく霧の中に消え、残されたクロに触手が襲い掛かる。



「っ……!」



クロは横に跳んで回避しようとしたが、疲労した体は思うように動かない。


触手が、クロの足を掴んだ。



「くっ……!」



クロは咄嗟にナイフでその触手を切断した。

だが、次の触手が襲いかかる。

それも切断。

また次の触手。

また切断。

クロは必死に抵抗を続ける。

しかし、触手の数はまるで無限。

対して、クロの体力は有限だ。


クロの右腕に触手が巻きつく。

切断する前に、別の触手が左腕を捕らえる。

さらに別の触手が胴体を拘束する。



「……くそっ……!」



必死に抵抗するものの侵食は容赦なく進み、右腕の感覚が失われ、ナイフを握る力さえ奪われていく。


(……せめて……琥珀(こはく)だけ……でも……)


クロの視界が、暗くなり始める。

その時。



「やめてええええ!」



琥珀の絶叫が、この境界(きょうかい)の世界を震わせた。

その瞬間、『(かく)(がみ)』の動きが、一瞬だけ止まった。


静まり返った世界で、鳥居の下から、弱々しい声が聞こえた。



「……こ、はく……?」



紫苑(しおん)の、掠れた、しかし確かな声が聞こえてきた。


♢♢♢♢♢


紫苑(しおん)!」


琥珀(こはく)は叫ぶ。

琥珀の必死の呼びかけに、紫苑の瞳にわずかな光が宿った



「こはく……なんで……ここに……」


「紫苑を助けに来たの! だから、お願い、戻ってきて!」



琥珀の声に、紫苑は困惑した表情を見せた。



「でも……私は……ここにいるって……神様に……」


「嘘! 紫苑はそんなこと言わない!」



琥珀は涙を流しながら、叫び続けた。



「紫苑は、いつも私を支えてくれた! いつも一緒にいてくれた! 私の大切な、大切な友達なの! だから……お願い! 帰ってきて!」



その言葉が、紫苑の心に届いた。



「……こはく……」



紫苑の目から、涙が一筋流れた。



「……私……怖かったの……みんなの期待に応えられるか……将来のことも不安で……そしたら……この神様が、全部忘れさせてくれるって……」


「大丈夫。大丈夫よ。だから、一人で抱え込まないで。私がいるから。ずっと、一緒にいるから」



琥珀の言葉に、紫苑の表情が変わった。虚ろだった目が、徐々に光を取り戻していく。



「……こはく……ありがとう……」



紫苑の言葉に、『(かく)(がみ)』の動きが完全に止まり、体を構成する霧が、激しく揺らぎ始める。

紫苑の意識が戻ったことで、『(かく)(がみ)』の力は急激に分散し始めた。

クロを拘束していた触手の力が、弱まる。


(……今だ……! 琥珀を連れてきて、正解だった……!)


(俺一人じゃ、彼女を正気に戻すことはできなかった……!)


琥珀の必死の呼びかけが、紫苑を正気に戻した。親友だからこそ届く言葉があった。

クロは、残された全ての力を振り絞る。


まだ、わずかに動く左手。

その手で、ナイフを握り直す。

体を前に倒し、触手を引きちぎる勢いで前進する。



「……うっ……!」



激痛が走る。侵食された部分が、引き裂かれる。

だが、構わない。



「琥珀!紫苑を!」



クロの叫びに、琥珀は即座に反応した。

クロは、琥珀が鳥居まで行けるように『(かく)(がみ)』の注意を引き付ける。

琥珀は猫又(ねこまた)たちに守られながら鳥居まで走り、紫苑に向かって手を伸ばす。



「紫苑、手を!」


「うん!」



紫苑も手を伸ばす。


二人の手が、繋がった。


琥珀は全力で紫苑を引っ張る。

紫苑の体が、『(かく)(がみ)』の呪縛(じゅばく)から引き離されていく。


『ギギギギギギギギギギギギギギギギギギ……!!」』


(かく)(がみ)』の不快な音が、悲鳴のように響く。

紫苑が完全に解放された瞬間、『(かく)(がみ)』の体が急速に縮小し始めた。

霧が薄くなり、輪郭(りんかく)がぼやけている。その姿は見るからに弱々しい。


『……ギギ……ギギギ……』


(かく)(がみ)』は、琥珀と紫苑を恨めしそうに見つめ、鳥居の奥へと逃げていく。



「……てめぇ、…まて………!」



逃走を図る『(かく)(がみ)』を追いかけようとしたクロだったが、ダメージと霊力枯渇で一歩も動けず、膝をつく。


『ギギギギギギ……ギギギ……』


不快な音が、遠ざかっていく。そして、完全に消えた。

直後、境界が崩壊を始める。『(かく)(がみ)』が逃げたと同時に、この境界の世界を維持していた力も失われたのだ。


二つの太陽が急速に消えていく。赤い石畳が透明になり、元の十字路のアスファルトが透けて見え始めた。

歪んだ家々が、まるで幻だったかのように消えていく。

鳥居の門も、段々と薄れていく。



「……境界が、崩れる……」



クロは呟いた。

世界が、元の姿に戻ろうとしている。

空間全体が光に包まれ、クロの視界が真っ白になった。



♦♦♦♦♦



気づけば、三人は十字路にいた。夜の闇が街を包んでいる。

先ほどまでの歪んだ世界は、跡形もなく消えていた。



「……戻って、これたんですね」



琥珀(こはく)が、信じられないという表情で呟いた。



「……ああ。『(かく)(がみ)』が逃げたことで境界が崩れて、元の世界に戻された。もう、あの世界に引きずり込まれることはない。少なくとも、『(かく)(がみ)』が力を取り戻すまでは」



クロの声は、極度の疲労でかすれていた。



紫苑(しおん)だったな。もう、変な本は読むなよ」


「……はい。すみませんでした」



紫苑は深く頭を下げた。



「謝る必要はない。ただ、これからは、一人で抱え込むな。お前には、琥珀がいるだろ」



クロの言葉に、紫苑は琥珀を見た。

琥珀は、涙を流しながらも、満面の笑みで紫苑を見つめていた。



「……うん。ありがとう、こはく」


「うん!」



二人は抱き合った。

クロは、その光景を見ながら、小さく笑った。



「……じゃ、俺は帰る」


「あ、待ってください!」



琥珀が慌てて声をかけた。



「本当に……本当にありがとうございました! クロさんがいなかったら、紫苑は……」



琥珀の目に、再び涙が浮かんだ。



「依頼をこなしただけだ」



クロはそう言うと、フードを深く被り直す。



「それに、お前が諦めなかったから、紫苑は戻ってこれたんだ。お前の声が、紫苑を取り戻した。俺一人じゃ、どうにもならなかっただろうな」



その言葉に、琥珀は驚いた表情を見せた。



「……あの、そして、依頼料のことなんですが」



琥珀がおずおずと言った。



「怪異討伐の分も、お支払いしたいんです。あれだけ危険な戦いをしてもらって……」


「いや、人探しの分だけでいい」



クロは即答した。



「俺が受けたのは人探しの依頼だ。戦闘は、そのついでだ。余計な金はいらねえよ」


「でも……」


「いいって言ってんだろ」



クロは少し強い口調で言った。



「高校生から大金もらうほど生活に困ってねーよ。金は大事に使え。それに……」



クロは少し視線を逸らした。



「……お前が、友達のために必死になる姿を見て、少しだけ本気(マジ)になっちまっただけだ。別に、金のためじゃねえ」



そのつぶやきは、二人には聞こえなかった。



「じゃあな」



クロは手を振り、ふらつきながら夜の闇に消えていった。

琥珀と紫苑は、その背中を見送った。



「……優しい人だね、あの人」


「うん……本当に」



二人は顔を見合わせて笑った。

そして、手を繋いで家路(いえじ)につくのだった。


♢♢♢♢♢


クロは、二人から完全に見えなくなったのを確認してから、震える手でポケットから携帯を取り出した。

登録されている数少ない連絡先の中から、一つを選んで発信する。

数回のコール音の後、相手が出た。



《もしもし、クロ? そっちから電話してくるなんて珍しいやないか》



玖壱(くいち)の声だ。



「……報告だ。一級怪異『(かく)(がみ)』と遭遇した」


《……は?》



一瞬、電話の向こうで沈黙が流れた。



《一級怪異……アンタ、無茶しすぎやろ。怪我は?》


「……問題ない。相手は"()(しろ)"を失って逃げた」


《ちょ、ちょっと待ち。"依り代"って……》


「本を媒体(ばいたい)に高校生を精神支配して力の源にしてた。そいつを解放したら弱体化して逃げた。あとは任せる」



クロは簡潔に状況を説明した。



《……わかった。一級怪異が野放しは放っとけへん。あとは公安の方で調査する》


「ああ。切るぞ」


《待ち、クロさん。無理せんと、ちゃんと休みや。また明日にでも顔出すさかいな》


「……ああ」



クロは短く答えて、電話を切った。事務所に向かってふらつきながら歩き出す。

体が重い。意識も朦朧(もうろう)としている。



「少し休んでから、事務所まで帰るとするか……」



♦♦♦♦♦



翌日。


クロは、事務所のベッドで丸一日眠り続けた。

式神の召喚と、限界を超えた戦闘。そして、体の侵食。

その代償は、あまりにも大きかった。


目を覚ました時、体中が痛かった。特に、侵食された部分は、まだ完全には回復していない。



「……くそ、やっぱり使うもんじゃねえな、あれは」



クロは呟きながら、ゆっくりと起き上がる。机の上には、一通の封筒が置かれていた。

人探しの分の依頼料と、琥珀(こはく)からのお礼のメッセージが添えられている。



【本当にありがとうございました!おかげさまで私も紫苑(しおん)も元気です!また何かあったら、お願いします(_ _)】



クロは、そのメッセージを読んで、小さく笑った。



「何かって、、もう厄介ごとは勘弁だぜ…」



そう言いながらも、その表情は穏やかだった。


その時、事務所の扉が開いた。



「もしもし、クロさん。生きてはるかー?」



聞き慣れた声。玖壱(くいち)だ。


玖壱は事務所に入ってくると、クロの疲れ果てた様子を見て、キツネ面の下で笑ったようだった。手には食料品が入った袋をぶら下げている。見舞いの品だろう。



「電話で聞いた時は耳疑ったわ。まさか本当に一級怪異と単独で戦ったとはな」



玖壱は腕を組んで、クロを見下ろした。



「アホやなぁ。一級怪異相手に一人で戦うなんて。死にたかったんか?」


「うるせえ。偶発的(ぐうはつてき)にそうなっただけだ」


「結果オーライで済む話やないで。アンタ、体ボロボロやないか」



玖壱の口調は軽いが、その中には本気の心配が滲んでいた。



「次からは、ちゃんとうちに連絡せえや。頼ってくれてええねんで」


「……考えとく」



クロは素直に頷いた。流石に、今回死にかけたのは事実だ。

玖壱は少し安心したように息をついた。



「それで、電話で聞いた時は耳疑ったわ。『(かく)(がみ)』……厄介な怪異やな」



玖壱の口調が、わずかに真剣になった。



「普通、一級怪異が顕現(けんげん)するには相応の条件が必要や。今回の件、どうも臭う。なんでいきなり、あんな怪異がこの街に現れたんやろな」


「……知らねえよ。それを調べるのがおまえらの仕事だろ」


「せやな。うちらの仕事や」



玖壱は(ふところ)から手帳を取り出し、何かメモを書き始めた。



時雨隊(しぐれたい)で調査することにするわ。まずは、被害者の子に詳しい話を聞かせてもらう必要がある。どこで本を買ったんか、他に誰かが同じような本を持ってないか、そういうのを全部洗い出さなあかん」



玖壱は手帳を仕舞い、クロに向き直った。



「一級怪異が野放しになってる状況は、放置できへん。弱体化してるうちに、居場所を特定して討伐する。それまでに、また力を取り戻されたら厄介やからな」


「……頼んだぞ」


「任しとき。時雨隊、なめんといてな」



玖壱はキツネ面越しに笑った。



「アンタはしばらく、大人しく休んでや。また怪我が治ったら、飯でも行こうや」



その言葉を残して、玖壱は事務所を後にした。

クロは、玖壱の後ろ姿を見送りながら、小さく息をついた。



「……時雨隊、か。あいつらなら、なんとかするだろうな」



クロは再びベッドに倒れ込んだ。まだ、体が動かない。しばらくは休養が必要だろう。


一級怪異は、一人で戦える相手じゃない。

次に同じような状況になったら、素直に玖壱に連絡しよう。


クロはそう心に決めて、目を閉じた。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽


事件報告書


事件名  S9-247号 一級怪異『(かく)(がみ)』遭遇・鎮圧事案


発生場所 K市 住宅街 十字路


怪異名  (かく)(がみ)


等級   一級指定怪異


特記事項 行方不明者の捜索を行っていた探偵が遭遇。

     行方不明であった高校生一名は無事救出された。

     怪異は力の依り代を失い撤退。

     ※隠し神本体は逃走。再出現の可能性あり。

      早急な討滅又は封印が求められる。


追記   隠し神は、人間の認識を操作し、物語の世界に引きずり込む

     能力を持つ。

     特定の人間を力の依代として精神支配し、その信仰心を利用して

     力を増幅させる。

     今回の事例では、被害者が古本に記された物語を読んだことが、

     発端となった。

     依り代を失った隠し神は弱体化しているが、完全には消滅していない。

     再び力を蓄える可能性があるため、早急な対処が必要。


追記2  本件を受け、公安怪異対策課・時雨隊による『隠し神』顕現経緯の

     調査を開始。

     被害者への聞き込み調査および古本の入手経路の特定を実施予定。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

Wright/__です。

本作品を読んでいただき、ありがとうございます。


実体験をもとにした話とかも書いてみたい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ