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#3 神隠し -壱-

いらっしゃい…

君には、この本が合いそうだね、、、

………

……

路地裏の事務所に、午後の光が差し込んでいた。


錆びた非常階段の隙間から漏れる太陽光は、埃の浮いた空気を残酷なほど鮮明に照らし出す。それは、この場所がいかに日常から切り離されているかを象徴しているようだった。壁には消えかけのポスターが一枚、剥がれかけのテープで貼り付けられている。


クロは、椅子の背もたれに深く身を預け、机の上に放り出した足の先を見つめていた。黒いブーツには、昨夜の雨で付いた泥がまだ乾ききっていない。



「……今日も静かだな」



その独り言は、湿った壁に吸い込まれて消える。外からは猫の鳴き声が微かに聞こえるが、それすらも遠く、まるで別世界の音のようだ。クロは右目を隠す前髪の隙間から、薄暗い事務所の天井を見上げた。天井には蜘蛛の巣が張り、そこに一匹の蜘蛛が獲物を待っている。


だが、その静寂は長くは続かなかった。

鉄製の重い扉が、悲鳴を上げるような音を立てて勢いよく開かれた。錆びた蝶番(ちょうつがい)が軋み、扉の下部が床を擦る音が事務所に響く。



「――すみません!」



息を切らした少女が、事務所の薄暗がりに飛び込んできた。

紺のブレザーに、少し乱れたチェックスカート。高校指定の鞄を握りしめるその指先は、白くなるほど強張(こわば)っている。焦燥(しょうそう)と不安が、彼女の顔に深く刻まれていた。額には汗が滲み、肩で息をしている。ここまで走ってきたのだろう。



「……誰だ」



突然の来客に、クロはそうつぶやくと、机の上から足を下ろし、身を起こす。フードの影から覗く左目が、少女を鋭く見つめる。

とても客商売をしているとは思えない態度だ。

少女は一瞬だけその目つきの鋭さに怯んだが、すぐに瞳に強い光を宿して前を向いた。



天音あまね 琥珀こはくです。高校二年です」



彼女は両手をぎゅっと握りしめ、頭を下げた。



「お願いします! 友達を、私の友達を見つけてください!」



震える声。だが、そこには虚飾(きょしょく)のない切実な祈りが込められていた。声が割れ、最後の言葉は掠れていた。泣き出しそうなのを必死で堪えているのだろう。


クロは無言で椅子から立ち上がり、目の前の少女を観察した。制服には皺がある。普段からきちんとした子なのだろうが、今日は余裕がないようだ。スカートの裾が少し汚れている。転んだか、何かにぶつかったか。そして何より、その目。赤く充血している。先ほどまで、泣いていたのだろう。

クロは少女を椅子に促し、話を聞くことにした。


♢♢♢♢♢


「……行方不明か」


「はい。友達の名前は、紫苑しおんって言います。昨日、学校の帰りに別れてから……いなくなっちゃって」



琥珀(こはく)は溢れ出しそうな涙を堪えながら、必死に言葉を繋ぐ。



「今日、学校に来てなくて……普段は、休む時は私に連絡くれるし、メッセージ送ってみても既読すらつかないからおかしいと思って、紫苑(しおん)のお母さんに連絡したら、"昨日から帰ってきていない"って……」



声が震える。琥珀は一度深呼吸をして、続けた。



「警察にも行ったんです。でも、"家出の可能性が高い"ってまともに取り合ってくれなくて。でも、紫苑(しおん)は絶対そんなことしません! 彼女は、そんな無責任な子じゃないんです!真面目で、優しくて、、…」



最後の言葉は、絞り出したかのようにか細い声だった。琥珀の目から、ついに涙が一筋流れ落ちる。

クロは視線を伏せた。


"帰り道で消える"——その現象は、妖術が蔓延(まんえん)し、怪異(かいい)が日常の裏側に張り付いたこの街では、決して珍しいことではない。だが、警察や公安(こうあん)が動かないという事実は、この事件が表層的には「怪異の影がない、何の特徴もない失踪」に見えることを意味していた。

目立った妖気の痕跡がない。目撃者もいない。物理的な争いの形跡もない。

しかし、家出などの自分の意志でないのなら、それは高度な技術を持つ怪異の仕業であることを示唆(しさ)している。



「……もっと詳しく話せ。昨日のことについて」



クロの言葉に、琥珀は顔を上げた。


♢♢♢♢♢


琥珀(こはく)が語る内容は、一見するとあまりにも「普通」の放課後だった。

特別な事件も、不審な影も、言い争いなどもない。帰り道で別れ、紫苑(しおん)は"いつもの道"で帰路についたという。寄り道をするような子でもないらしい。まるで、空気に溶けるように消えたかのようだ。


クロは琥珀の話を聞きながら、脳内で情報を整理していく。


紫苑は真面目な生徒。成績は上の中。部活動はしていない。友人関係も良好。家庭環境にも問題はない。家出をする理由は見当たらない。



「……最後に、変なことはなかったか? 些細なことでもいい」



クロの問いに、琥珀は一瞬、記憶の底をさらうように沈黙した。目を閉じ、昨日の光景を思い出そうとする。通学路。夕日。別れ際の会話。



「……あ」



彼女の肩が、微かに跳ねる。何かを思い出した表情だ。



「昨日、紫苑が言ってたんです。"最近、帰り道が変な感じがする"って」


「変?」



クロの眉が、わずかに動いた。フードを被り直し、琥珀の方へ身を乗り出す。



「はい。"同じ道なのに、時々、違う場所にいる気がする"って。街灯の数が違ったり、曲がり角の先が、知っている景色と微妙にズレているような……そんな、変な感覚だって」



クロの脳内で、警鐘(けいしょう)が鳴り始めた。

空間認知の歪み。日常風景の微細な変化。そして、それが"帰り道"という特定の場所で起こっている。



「それ、いつからだ」


「一週間くらい前から、だと思います。最初は疲れてるのかなって、二人で笑ってたんですけど……でも、紫苑、だんだん真剣な顔になっていって……」



琥珀の声が小さくなる。



「"私、約束したんだった"って。そう言ってました」



クロは無意識に、右目を隠す前髪に触れた。

一週間という蓄積。帰り道という限定的な空間。そして、空間認知の微細なズレ。

これは、境界(きょうかい)の侵食だ。

怪異(かいい)が現世に顕現(けんげん)する前兆として、空間の"歪み"が発生する。それは通常、数時間から数日で完成し、怪異が実体化する。だが、一週間もかけてゆっくりと侵食していくケースは(まれ)だ。


まるで、じっくりと獲物を選んでいるかのよう。



「……他に何か。そいつの最近の様子で、気になることは」



琥珀は必死に記憶を辿る。



「あ……そういえば、紫苑、最近よく本を読んでました」


「本?」


「はい。古い本で……都市伝説とか、そういうのが載ってる本」



都市伝説。伝承。怪異譚(かいいたん)

それらは、怪異にとって"(かて)"となる。人々の認識、恐怖、時には信仰心など。それらが怪異を強化し、現世への顕現(けんげん)を容易にする。



「その本、名前は?」


「わかりません……でも、古本屋で見つけたって言ってました。表紙がボロボロで、題名も読めないくらい古いやつだって」


「内容は?」


「神隠しの話とか……あと、"また明日"っていう境界に迷い込んだ子供の話とか。詳しくは聞いてないんですけど、紫苑、すごく真剣に読んでて……」



クロの思考が加速する。

境界。神隠し。子供。そして、一週間という期間。

パズルのピースが、少しずつ()まり始めていた。だが、まだ完全ではない。決定的な情報が足りない。



「琥珀。紫苑と最後に別れた場所、案内できるか」


「はい! お願いします!」



琥珀の表情に、一筋の希望が灯る。

クロは立ち上がり、フードを深く被った。腰に差したナイフが、微かに霊的な振動を伝えてくる。まるで、これから起こることを予感しているかのように。



「じゃあ、行くぞ」



事務所を出る前、クロは一瞬だけ立ち止まった。


(万が一にも、今回の事件の犯人が『八尺様(はっしゃくさま)』などの零級(ゼロきゅう)指定怪異だったら手の打ちようがないが……)


一瞬、最悪の可能性が頭をよぎり、背筋を氷の指でなぞられたような戦慄(せんりつ)が走る。

だが、クロはすぐにそれを否定した。


零級(ゼロきゅう)——それは「災害」そのものだ。個人の力で対抗できる存在ではない。公安の戦闘部隊が総力を挙げても、討滅(とうめつ)どころか鎮圧(ちんあつ)できるかどうか。怪異の種類にもよるが、零級が現れたならば、周囲の人間は露骨(ろこつ)に精神汚染を受け、街全体に異常が現れる。



「……行くぞ」



クロは扉を開け、もうじき日が暮れる街へと足を踏み出した。



♦♦♦♦♦



夕焼けが、住宅街の影をナイフのように長く伸ばしていた。

太陽が西の空に傾き、街全体がオレンジ色に染まっている。その光は美しくもあり、不気味でもあった。まるで、世界が別の何かに変わろうとしているかのような、そんな錯覚を覚える。



「ここです」



琥珀(こはく)が立ち止まったのは、ごく普通の十字路だった。

錆びかけた電柱。一台の自動販売機。瓦屋根の古い民家。学校から駅へ続く最短ルートでもあり、住宅地としては珍しくない光景だ。道路の脇には、子供が描いたと思われる落書きがある。

だが。クロは、その十字路に足を踏み入れた瞬間、空気が物理的な厚みを持って皮膚に(まと)わりつくのを感じた。



「……この場所、"境目(さかいめ)"だな」


「え?」



琥珀には見えない。だがクロの感覚は、網膜の裏側に映る「景色のバグ」を正確に捉えていた。

空気が一瞬だけ、古いテレビのノイズのようにズレる。遠くを走る車のエンジン音が、コンマ数秒、本来届くべきタイミングから遅れて届く。電柱の影が、太陽の位置とは微妙に異なる角度で伸びている。自動販売機の光が、不自然に明滅している。

これは、空間の"()()"だ。


現世と、別の何かが重なり合う場所。


クロは地面を凝視した。アスファルトの上には、不自然なほど何もない。昨日雨が降ったにもかかわらず、泥の跳ね跡も、靴底が擦れた跡さえない。あまりにも綺麗すぎる。まるで、何かがここから"消された"かのように。



紫苑(しおん)は、この辺で何か特別な行動をしたか?」


「……いえ。ただ、ここで"また明日ね"って、手を振って……」



クロは思い出す、"また明日"という単語。紫苑が読んでいたという本に登場した話の一つだ。



「……怪異に"連れて行かれた"か」


「そ、そんな……!」



琥珀の顔から血の気が引いていく。



「神隠しだ」



クロの断言に、琥珀は言葉を失った。



「これは低級怪異の仕業なんかじゃない」


「どういう……意味ですか」



クロは周囲を見回す。電柱、自動販売機、民家、道路標識。どれも普通の物だ。だが、その配置が妙に気になる。



「紫苑自身が、"境界そのもの"に踏み込んだんだ」


「境界……?」


「そうだ。この場所は、現世と異界の"()()"になってる。普段は閉じてるが、特定の条件が揃うと開く。そして、その条件に合致した者だけが引きずり込まれる」



クロは推理を続ける。



「怪異には、大きく分けて二種類いる。一つは、"場所"に依存する怪異。廃墟や山、特定の土地に縛られて、そこを通りかかった人間を襲う。もう一つは、"条件"に依存する怪異。特定の儀式や、特定の状況・条件を満たした人間を媒介(ばいかい)に顕現する」


「紫苑を連れ去ったのは……?」


「後者だ。しかも、極めて高度な"認識操作"を行う怪異」



クロは地面に膝をつき、アスファルトに手を触れた。冷たい感触。そして、その下に流れる、微かな妖気。



「この場所自体に、怪異が住んでるわけじゃない。ここは、住宅街にある十字路の一つだ。だが、紫苑にとっては違った」


「……どういうことですか」


「紫苑は、"境界に迷い込んだ子供"の物語を読んだ。その物語を媒体(ばいたい)として、本人も気づかないうちに精神干渉を受けた。」



琥珀の顔が、理解と恐怖で歪む。



「一週間前からの違和感は、その証拠だ。紫苑の精神が、少しずつ"物語の世界"に引きずり込まれていった。街灯の数が違う、景色がズレている……それは、現実と物語の境界が曖昧になっていたからだ」



クロは立ち上がり、夕焼けを見上げた。



「そして昨日、ここで別れ際に"また明日"と言ってしまった。読んでいた話のタイトルと同じ言葉を…。その言葉が境界を開く最後の"鍵"だったんだろう。そして、境界が完全に開いてしまった」


「境界……」


「怪異が潜む世界だ。そして、紫苑はその向こう側へ……"隠された"」



クロの言葉が、重く琥珀の心に沈む。



「でも……でも、なんで紫苑が……!」



琥珀の叫びに、クロは静かに答えた。



「選ばれたんだよ。"物語を信じる心"を持つ者として。怪異は、そういう人間を好む。なぜなら、"知っている者"がいなければ、怪異は存在できないからだ」



これが、怪異の本質だ。

人々の認識、信仰、恐怖、物語。それらが怪異を形作り、力を与える。紫苑は、その"素質"があった。物語を愛し、怪異の存在を認知した者。それが、怪異にとっては格好の"(えさ)"だったのだ。



「じゃあ……紫苑は、もう……」



琥珀の声が震える。



「いや、まだ生きてる」



クロの断言に、琥珀は顔を上げた。



「どうして……わかるんですか」


「簡単だ。もし紫苑が殺されていたなら、怪異はこの場所から移動しているはずだ、次の獲物を探すためにな。だが、ここにはまだ境界のズレとわずかだが妖気が残っている。おそらく、紫苑は"()(しろ)"として選ばれたんだろう」


「依り代……?」


「そうだ。怪異は、紫苑を"力の一部"として取り込んだ。だが、まだ完全には消化できていないから、この場所に今も留まっている。だから、まだ取り戻せる可能性がある」



クロは腰のナイフを握りしめた。



「だが、時間がない。怪異が紫苑を完全に取り込む前に、助け出さなければならない」


♢♢♢♢♢


本を媒介とし、自身の領域へと引きずり込む怪異にクロは覚えがあった。

さらう対象を()(ごの)みし、一定の知性がある怪異。



琥珀(こはく)、これは単なる神隠しじゃない。これは、『(かく)(がみ)』による計画的な拉致だ」


(かく)(がみ)……?」


「一級指定怪異——『(かく)(がみ)』。貧乏神や疫病神に代表される、人に危害を加える妖怪の類だ。神と名が付くが、信仰される神とは全く別物。(さら)った人間を糧にする存在だ」



日はもう沈んでおり、星々が顔を出し始めている。

一級。その階級の意味を、クロは痛いほど知っている。

二級や三級の怪異とは、次元が違う。



「さっきも言ったが、時間がない。俺が今から境界(きょうかい)へ入って探してくる。公安なんか待ってたら、いつ紫苑(しおん)という存在が消えてもおかしくないからな。」


「……私も、行きます」



琥珀の返事に、クロは眉をひそめた。



「何を言ってやがる。素人(しろうと)が行ったら足手まといになるだけだ」


「でも……!」


「いいか、琥珀。一級怪異の世界は、お前が想像する以上に危険だ。一瞬の判断ミスが、命取りになる。俺は、ガキのお守りをしながら戦うのは御免だ。それに、紫苑を助ける確率を下げることにもなる」



琥珀は唇を噛んだ。だが、その目には諦めの色はなかった。



「それでも……私は行きたいです。紫苑は、私の大切な友達です。いつも助けられてばかりなんです。じっと待っておくことなんて……できません!」



クロは琥珀の目を見つめた。そこには、恐怖よりも強い決意が宿っていた。



「……本気か」


「はい」



数秒の沈黙の後、クロは小さく息を吐いた。『(かく)(がみ)』が琥珀のことを狙っていないという確証がない以上、ここに置いていくのも危険かもしれない。その可能性を考えると、まだ自分のそばに置いておく方が安心だ。



「……わかった。だが、俺の指示には絶対に従え」


「はい!」



クロは腰のナイフを抜いた。漆黒(しっこく)の刃が、風でうなる。



「……『(かく)(がみ)』か、面倒なのを引いたな」



夜の(とばり)が、急速に街を飲み込んでいく。街灯が点灯し、その影がクロの足元を黒く塗りつぶした。

クロはナイフの柄を強く握りしめ、何もない空間——紫苑が消えたはずの虚空(こくう)を睨みつけた。


♢♢♢♢♢


周囲の空気を観察する。風の流れ、音の伝わり方、光の屈折。全てが、微妙に歪んでいる。

常人では気づけない微細な違和感。


(まず、境界の"入り口"を見つける必要がある)


クロは目を閉じ、周囲の妖気に意識を集中させた。怪異探偵として培った感覚を研ぎ澄ませ、空間の"ほころび"を探る。

1秒、2秒、3秒……。

そして、クロの目が開いた。



「……あった」



クロが指差したのは、電柱の影だった。だが、ただの影ではない。その影は、光源とは無関係に、不自然な形で伸びている。まるで、鳥居(とりい)のような形に。



「あの影の中に、境界の入り口がある」


「影……の中に?」



琥珀(こはく)には信じられない様子だが、クロは確信していた。



「『(かく)(がみ)』は、"隠すこと"が本質だ。影の中、鏡の中、水の中……そういう、"見えにくい場所"に境界を作る」



クロは電柱に近づき、影の縁に手を伸ばした。その瞬間、空気が冷たくなる。



「……間違いない。ここだ」



クロはナイフを抜き、影に向けて構えた。



「これから、俺たちはこの影の中に入る。そして、紫苑(しおん)を連れ戻す」



琥珀は震える手を握りしめ、決意を込めて頷いた。



「琥珀、いいか。向こうの世界では、絶対に俺から離れるな。一度離れたら、二度と戻ってこれなくなると思え」


「……はい」


「それと、向こうで何を見ても、取り乱すな。叫ぶな。走るな。全て、隠し神の罠だ。冷静さを失った瞬間、お前も相手の(えさ)だ」



琥珀の顔が緊張で強張る。



「大丈夫……です」


「……じゃあ、行くぞ」



クロは琥珀の手首を掴んだ。



「離すなよ」


「はい」



クロ達は影に向かって一歩踏み出した。


その瞬間、世界が歪んだ。



♦♦♦♦♦



視界が、一瞬だけ真っ暗になった。

まるで、巨大な何かに飲み込まれたかのような感覚。耳鳴りが響き、平衡感覚が失われる。琥珀(こはく)は思わずクロの腕を強く掴んだ。

そして、次に足が地面に触れた時。

着地した足元は、アスファルトではなく、どこまでも続く赤い石畳だった。



「……何、ここ……」



琥珀が震える声で漏らす。


空には二つの太陽が地平線にへばりつき、全ての影は全方位へと無秩序に伸びていた。一つの太陽は血のように赤く、もう一つは病的なほど白い。そして、その二つの光が混ざり合い、世界全体が奇妙な紫色に染まっている。

家々は飴のように歪み、窓は溶けて地面に垂れ下がっている。屋根は波打ち、壁は呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。まるで、建物全てが生きているかのようだ。

道端の自販機からは真っ赤な液体が絶え間なく溢れている。それは地面に広がり、石畳の隙間に染み込んでいく。液体の表面には、人の顔のようなものが浮かんでは消えていく。



「うっ……」



琥珀が吐き気を堪えるように口を押さえた。



「大丈夫か」


「……はい。なんとか」



だが、琥珀の顔は青ざめていた。無理もない。この世界は、人間の精神を侵食するように作られている。



「琥珀、いいか。この世界の景色は、全部"嘘"だ。お前の目に映ってるものは、『(かく)(がみ)』が見せてる幻覚だ。恐れるな。こういう連中は恐怖で精神を(むしば)んでくる。そうして心の隙間に入り込む」



琥珀は深呼吸をし、頷いた。



「……わかり、ました」



クロは周囲を見回した。そして、視線の先に、それを見つけた。

道の遥か先。幾重(いくえ)にも重なり合う巨大な鳥居の門が、そびえ立っていた。数え切れないほどの鳥居が、まるで無限に続くかのように連なっている。

そして、その鳥居の門の下に人影が見えた。



「……あれが、紫苑(しおん)か」



膝をつき、虚ろな目で空を見上げている少女。 彼女を囲むように、地面から、壁から、無数の「白い腕」が(うごめ)いていた。それは細長く、(ふし)くれ()ち、まるで(いつく)しむように、あるいは縛り上げるように、彼女の体を撫で回している。



「紫苑……!」


「悪趣味な野郎だ。…さっさと助けてずらかるぞ」



クロは歩き始めた。赤い石畳を踏みしめ、鳥居へと向かう。

琥珀は、クロから離れないよう、その後ろを必死についていく。

歩きながら、クロは周囲を警戒していた。歪んだ家々、溶けた窓、膨らむ壁。それら全てが、何かを隠している可能性がある。


そして、クロの予感は的中した。


歪んだ家の影から、何かが這い出してきた。

それは、人の形をしていた。だが、顔がない。手足は真っ白で異常に長く、関節が逆に曲がっている。そして、その体からは、黒い霧が立ち上っている。



「……来たか」



クロはナイフを構えた。



「琥珀、俺の後ろにいろ」


「はい……!」



琥珀はクロの背中に隠れた。

顔のない人型の影が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その動きは不自然で、まるで操り人形のようだ。

クロは冷静に状況を分析する。


(これは、『(かく)(がみ)』本体じゃない。侵入者を排除するための、低級の使い魔だ。だが、油断はできない。一体だけではないはず)


案の定、歪んだ家々の影から、次々と顔のない人型の影が這い出してきた。

1体、2体、3体……全部で10体。



「……厄介だな」



クロは琥珀を背中に庇いながら、ナイフを構え直す。



「琥珀、絶対に俺から離れるな。いいな」


「は、はい……!」



琥珀の声は恐怖で震えていた。だが、必死に耐えている。

使い魔たちが、じわじわと包囲網を狭めてくる。

クロは深呼吸をし、戦闘の準備を整えた。



「……行くぞ」



ーーーーーーーーーーーー

Wright/__です。

本作品を読んでいただき、ありがとうございます。


次回の更新は、少し期間が空きます。

なるべく早く投稿できるように頑張ります。

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