#2 路地裏の怪異
呼びかけられても応えてはいけない
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昼下がり、太陽の光がアスファルトを照らす、ごく平凡な一日。クロは、いつもの黒いフードを目深に被り、事務所から出て繁華街とは反対方向へと足を向けていた。特に目的はなかったが、探偵稼業が暇な時は、こうして街を歩き、常人には見えない微細な「歪み」を探すのが習慣だった。
細い路地裏の入口に差し掛かったとき、空気がわずかに冷え込んだのを感じた。
「……いるな」
クロは足を止め、鋭い眼差しを路地の奥に向けた。路地の闇から、声が響く。
『おいで、おいで』
それは、人懐こい、幼い子供のような声だった。だが、そこに感情はない。ただ、空間の奥から空洞が音を発しているかのような不気味さだ。
『あそぼ、あそぼ』
三級指定怪異『変禍』。その存在を知らない者は少なくない。路地裏などの人気の少ない場所に潜み、子供の声で人を誘う。この誘いに乗って返事をしたり、路地に入ってしまったりすると、「境界(あの世とこの世の境目)」に引きずり込まれ、変禍が飽きるまで同じ道をぐるぐると迷わされることになる。
「くだらねえ」
クロは無視を決め込んだ。三級怪異は、公安に知らせればすぐに担当者が来て処理してくれる。面倒な戦闘をわざわざ行う必要はない。
クロはそのまま路地を通り過ぎ、近くの公衆電話から玖壱に一報を入れようと、大通りに向かって歩き出した。
♢♢♢♢♢
大通りまであと数十メートルというところで、クロは足を止めた。
前方から、杖をついた小柄なお婆さんが、ゆっくりと歩いてくる。そのお婆さんの目線の先は、まさに『変禍』が潜む路地裏だった。生活道路なのだろう、お婆さんは迷いなく、その闇に足を踏み入れようとしている。
「おい、待て」
クロは思わず低い声を出したが、間に合わない。お婆さんは、既に路地の入り口に立っていた。
『こっち、こっち。おいで、おいで』
『変禍』の甘く無邪気な声がお婆さんを誘う。お婆さんは、どこか遠い目をして、路地の闇を見つめた。
「あら、可愛い声だねぇ。どこの子だい?」
返事をしてしまった。
クロは即座に状況を整理する。このお婆さんは今、現世と『変禍』が作り出した「迷いの境界」の狭間に片足を突っ込んでいる。すぐに止めなければ、彼女は永遠に同じ路地を彷徨う可能性だってある。
クロは駆け寄り、お婆さんの前に立ち塞がった。
「婆さん、この道工事中だったから迂回した方がいいぜ」
クロの突然の行動に、お婆さんはきょとんとした。
「あら、そうかい。この道は近道なんだがねぇ」
クロの直感は、この状況で最も重要なのは『変禍』の「遊び」を成立させないことだと判断した。変禍が人を路地に引きずり込むメカニズムは、声を掛けられた人間が自発的に「遊び」に参加しようとすること、つまり「応答」をきっかけに境界を歪ませる。
『じゃま。じゃま』
今度は、子供の声にわずかな苛立ちが混じった。
クロは、お婆さんの腕を掴み、路地から引き離した。
「早く、向こうの道から回った方がいい。今日は厄日だ、早く行きな」
お婆さんはクロの目つきの悪さに気圧されたのか、「そ、そうかい」と慌てて別の通りへと向かっていった。
一般人が目の前で巻き込まれるのは後味が悪い。クロは、静かに路地裏に向き直った。
♢♢♢♢♢
『なんで、なんで』
声は、路地の奥、建物の壁の向こう側から聞こえる。しかし、クロの持つ洞察力は、その声が「音」として物理的に伝わってきているのではないことを見破った。これは、対象者の認知そのものに干渉する妖術だ。
クロは、漆黒のナイフを抜き、路地の入り口に立った。
「てめえの遊びは、ここで終わりだ」
『変禍』の核となる力は、「道に迷わせる」こと。つまり、空間認知を歪ませる幻術と、出口を塞ぐ結界の合わせ技だ。この路地に入った瞬間、クロもこの妖術の術中にはまるだろう。だが、三級怪異の術。核さえ壊せば、全体が崩壊するはずだ。
クロは、路地のわずか数メートル先にある、壁の染みや、コンクリートの亀裂をじっと見つめた。
『こわい?こわい? おいで、おいで』
「……うるせえ」
クロは、路地が歪み始めた起点の痕跡を追っていた。『変禍』の妖力が最も凝縮し、結界の核となっている場所。それは、路地に入ってすぐ、右手の建物の配電盤の陰。常人なら目にも留めない、電磁波と妖気が混ざり合う、薄汚れた一点。
「そこだ」
クロは助走もつけず、一気に路地に飛び込んだ。
入った瞬間、視界がぐにゃりと歪む。路地裏の景色が、まるで水彩絵の具のように混ざり合い、出口があったはずの場所が、新しい壁に変わる。
『やった、やった』
幻術にかけられたクロは、一瞬の戸惑いで前進も後退もできず、同じ場所をさまよっているように感じた。しかし、クロの行動は止まらない。
彼の直感が指示した方向は、歪む幻影とは無関係の、物理的な一点だった。
「かくれんぼは終わりだ」
クロは、ナイフを配電盤の陰に、躊躇なく突き刺した。刃のない漆黒の呪具が、コンクリートの壁を無視して、空間の歪みの核を貫く。
『きゃあああぁぁ……!!』
子供の声が、絶叫に変わる。そして、世界が揺れた。
クロを包んでいた幻術が破れ、視界の歪みが消える。路地は元通りの、薄汚れた路地裏に戻っていた。
配電盤の陰からは、透明な霧のようなものが蒸発するように消え去っていく。三級怪異『変禍』の消滅だ。
クロはナイフを引き抜き、元の姿に戻った路地裏を眺める。
「全く、面倒な」
彼はフードを深く被り直し、路地裏から出た。これで、一般人がこの道を通っても、もう迷わされることはないだろう。
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その日の夜。
公安怪異対策課のオフィスにて。
玖壱は、クロから電話で受けた報告を元に、一枚の事件報告書を作成していた。
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事件報告書
事件名 S9-33号 三級怪異『変禍』討伐・鎮圧事案
発生場所 K市 外縁部 路地裏
怪異名 変禍
等級 三級指定怪異
特記事項 一般人一名が巻き込まれる寸前、協力者によって救出。
怪異は『核の破壊による討滅』を以て対処完了。
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玖壱は、報告書の詳細欄に筆を進める。
協力者(通称:クロ)の証言と、現場残存妖力の分析によると、『変禍』は単純な幻術ではなく、対象の空間認知に干渉し、呼びかけへの『応答』を利用して現世と異界の境界を一時的に歪ませる術を使用する。これがこの怪異の特異性であり、「道に迷う」ことを物理的に具現化させる。
鎮圧手段:
協力者は、自身の洞察力と直感によって、歪んだ空間の結界を構築している『核』の位置を正確に特定。配電盤の陰という、電磁波と妖気が交錯する場所に隠された怪異の核を、呪具を用いて破壊した。これにより、境界の歪みが解除され、怪異は現世に顕現する力を失い、鎮圧に至った。
結論:
『変禍』は、人を彷徨わせることを目的とした、極めて悪質な三級怪異であるが、その防御構造は単一の核に依存している。また、呼びかけに応じてしまったとしても相手の領域に踏み込んでいなければ、第三者の介入などによって回避できる可能性がある。
遭遇した際は、今回のような迅速な対応(核の発見と破壊)が有効である。
玖壱は報告書を読み返し、キツネ面の下で満足げに頷いた。
「なかなか効率の良いやり方をするやないか。手際がええのは、うちと一緒やな、クロ」
そして、報告書を隊長宛のトレーに乗せ、立ち上がった。
「さて、経理課に伝えて報酬の振り込みをせなあかんな。偉い探偵様やで、まったく」
Wright/__です。
本作品を読んでいただき、ありがとうございます。
路地裏の怪異よりも執筆中にPCの電源が落ちた時のほうが怖かったです。




