第5章 決断の刻
隼人の周囲に漂う空気は、まるで重く冷たい霧のように感じられた。倉庫の中に足を踏み入れた瞬間、彼の心には過去の記憶が鮮明に蘇る。かつての戦闘、血の匂い、冷酷に命を奪ってきた自分。だが、今の隼人には別の目的があった。絵里子と直人を守る――その一心だった。
隼人は手早く辺りを見回し、神崎の仕掛けた罠を感じ取っていた。彼がいかに冷酷で計算高い人物であるか、隼人はよく知っている。目立った動きはしないが、神崎の部下たちが倉庫内に潜んでいることを察知していた。
「もう逃げられないぞ、隼人」
神崎の冷たい声が、闇の中から響いた。声の方向を見やると、暗がりの中からその姿が浮かび上がった。変わらぬ冷徹な表情、そして手には拳銃が握られている。
「逃げるつもりはない」
隼人は神崎の言葉に動じず、静かに言い返した。目の前にいるのは、かつての自分を導いた師でもあり、今や命を狙う敵でもある男だ。かつての自分なら、こうした場面で何も迷わず、ただ効率的に相手を倒すことしか考えなかっただろう。しかし、今の隼人は違った。もう、ただ命を奪うだけの機械ではなかった。
「お前が俺に従わなければ、あの女と子供もどうなるか分からんぞ」
神崎の声には嘲笑が混じっていた。隼人の顔に浮かぶ微かな感情の変化を楽しんでいるかのようだった。
「絵里子はどこだ?」
隼人の声は低く、怒りを抑えたものだった。だが、その声には一切の揺るぎがなかった。彼は拳を固めながら、心の中で決意を新たにしていた。もう誰にも自分の家族を傷つけさせはしない。
神崎は薄く笑い、ゆっくりと歩み寄ると、隼人の目をじっと見据えた。「お前が従うかどうかで、彼女の運命が決まるんだよ。戻ってこい、隼人。お前は俺のもとでしか生きられないんだ」
その言葉は、かつての隼人が抱いていた孤独と無力感を再び呼び起こすようなものだった。彼は過去に、自分の存在意義を組織の中にしか見いだせなかった。だが、今は違う。絵里子と直人が隼人に新たな意味を与えてくれた。
「俺はもう、お前たちの道には戻らない」
隼人の言葉は決然としていた。彼の心には、絵里子と過ごした日々、そして新たに築こうとしている未来が浮かんでいた。神崎のような人間の言葉に引き戻されることはない。
神崎はその言葉に嘲笑を浮かべ、隼人の前で拳銃を構えた。「ならば、力で示してみろ。お前が本当に変わったのかどうか」
その瞬間、背後から複数の足音が聞こえ、神崎の部下たちが次々と現れた。隼人は冷静に彼らの動きを見極め、かつての暗殺者としての本能が働き始めた。数の上では圧倒的に不利だが、隼人は無駄な動きをせず、一人ずつ部下たちを無力化していった。
戦いの中、隼人の頭には常に絵里子の姿が浮かんでいた。彼女を守るため、そして直人のために、隼人は自分の持てるすべての力を使って戦った。
数分が過ぎた頃、部下たちは次々と倒れていき、倉庫内には静寂が戻った。隼人の呼吸が荒くなる中、神崎はただ静かに彼を見ていた。
「やはり、まだお前はその力を捨てられないのだな」
神崎は冷たく言い放った。その言葉に、隼人は拳を固めた。確かに、彼はかつての自分を完全に捨て去ることはできていない。だが、それでも、今は違う。
「俺は過去の自分を乗り越えるために戦っている。お前とは違う」
その言葉に、神崎は薄い笑みを浮かべながらも、わずかに眉をひそめた。彼は拳銃を構えたまま、静かに隼人を見つめていた。
「それで、絵里子はどこだ?」
隼人は再び問いかけた。彼の声には今度こそ、怒りがはっきりと込められていた。神崎との対峙は避けられない。だが、今の隼人には守るべきものがある。冷酷な殺し屋ではない、新しい自分を証明するための戦いだった。
「ついてこい」
神崎は冷たく言い、背を向けて奥へと歩き出した。隼人はその後ろ姿を見つめ、拳を固めたまま彼に従った。すべては、絵里子を取り戻すために。