第3章 見えない影
隼人の心臓は、激しく鼓動を打っていた。普通ならばここで冷静さを保てる自信があったが、直人の泣き声がその冷静さを揺さぶっていた。彼は周囲を見渡し、すべての細部を記憶に焼き付ける。絵里子が広場で何をしていたのか、どの方向に向かったのか、何か異変があったのか——その全てが、隼人にとって重要な情報だった。
「おい、直人。お母さんが最後にいた場所をもう一度教えてくれ」
直人は涙を拭い、指を震えながら広場の隅を指差した。「あっち……お母さんは、そこで電話してた……」
「電話?」隼人はその言葉にピクリと反応した。絵里子が誰と話していたのかはわからないが、電話がかかってくる時間帯や状況が何か異常である可能性が高い。彼は、無意識に過去の殺し屋としての直感を呼び戻し始めた。
「分かった。ここで待っていろ、すぐに戻る」隼人は直人をベンチに座らせると、自分は絵里子が最後にいた場所へと向かった。
その場所に立った瞬間、隼人は鋭い視線で周囲を見渡す。何かしらの痕跡があるかもしれない。絵里子が何かに連れ去られたか、あるいは事故か——その全てを判断するために、彼は冷静に、慎重に動いた。
足元の砂に微かな靴跡があった。それは、絵里子のものと思われる女性の靴跡だが、その隣には明らかに大きな靴跡が重なっている。それは、誰かが絵里子に接近し、その後引きずるように動いていることを示していた。
「……連れ去られたか」隼人の瞳が一瞬、冷たく光った。
この状況で、最も可能性が高いのは、絵里子が何者かに狙われたということだ。隼人は組織が背後にいる可能性を感じ取り、すぐに自分の感覚を鋭く研ぎ澄ませた。
隼人はそのまま広場の外へと続く道をたどった。途中、彼の頭の中では渡辺との会話が何度も再生されていた。もし、これが組織の仕業だとすれば、彼が絵里子と直人を守るためには、自分自身の過去と再び向き合わなければならない。だが、彼にはその覚悟ができているのか、心の中で自問する。
ふと、彼の視界に黒いセダンが止まっているのが見えた。車のナンバープレートは隠されており、エンジンがまだ温かい状態だ。それは明らかに誰かがここで何かをしてすぐに立ち去った証拠だった。
隼人は自分の心臓が一瞬跳ね上がるのを感じた。この車が絵里子の失踪に関係している可能性が高い。しかし、彼は無理に車を追うことはせず、周囲の状況を慎重に観察した。何か小さな手がかりでも見つける必要があった。
その時、ふと地面に落ちている小さな物体が目に入った。それは、絵里子がよく持ち歩いていた携帯のストラップだった。隼人はそれを拾い上げ、握りしめた。間違いない——絵里子はここで何者かに連れ去られたのだ。
隼人は深く息を吸い込み、冷静に考えを巡らせた。今できることは限られている。だが、これ以上直人を不安にさせるわけにはいかない。彼は急いで広場に戻り、ベンチに座っている直人に向かって声をかけた。
「直人、少し待ってくれ。すぐにお母さんを見つける」
直人は不安げな顔をしていたが、隼人の冷静な声に安心したのか、うなずいた。
その夜、隼人は自宅の小さな机に座り、携帯をじっと見つめていた。頭の中では、渡辺や組織の存在がよぎり、彼自身の葛藤が渦巻いていた。彼は普通の生活を望んでいた。だが、絵里子のために、直人のために——自分が再びその世界に戻らなければならないのかもしれない。
「もしもし……」隼人はためらいながらも、渡辺に電話をかけた。
「やっぱり戻ってきたか、隼人」渡辺の声が冷たく響いた。「何があった?」
「絵里子が連れ去られた。お前らの仕業か?」
電話の向こうで一瞬、沈黙があった。渡辺はゆっくりと、しかし確信を持って答えた。「俺たちじゃねぇよ。ただ……神崎が動き始めたって話は聞いてる。奴が関係してるかもしれねぇな」
神崎——その名前を聞いた瞬間、隼人の心臓が締め付けられるように感じた。やはり、組織が関わっている可能性がある。もしそうなら、彼の平穏な生活はもう戻らない。
「奴の居場所を教えろ」と隼人は短く言った。
「はは、やっぱりお前も戦う気になったか。いいだろう、情報は渡してやる。ただし……お前も手を汚す覚悟をしておけよ」
電話が切れると、隼人は深く息を吐き、窓の外を見つめた。遠くの街灯がぼんやりと光っている。その光は、彼が望んでいた平穏な生活の象徴のようだった。しかし、その光は今、過去の闇に飲み込まれようとしている。
「もう戻れないのか……」隼人は呟き、過去の自分と再び向き合う覚悟を決めた。
彼は引き出しの奥から、かつて使っていた銃を取り出した。その冷たい金属の感触が、彼の手の中で再び馴染んでいく。