第2章 新たな繋がり
隼人が渡辺との再会を果たしてから数日が経った。彼は再び過去に巻き込まれかねない状況に直面しながらも、どうにかしてその影響を排除しようと努めていた。しかし、神崎龍二の存在が脳裏をよぎるたび、安穏とはほど遠い日々を過ごしていた。
そんなある日の朝、隼人はいつも通りの時間に目を覚ました。窓から差し込む光が、彼の目をまぶしく照らす。ベッドから起き上がり、ぼんやりと外を眺めると、そこには絵里子と直人の姿があった。直人は母親の手を引っ張りながら、はしゃいでいた。
隼人は、ふとした瞬間にその光景が心に刺さったのを感じた。母親と子供が楽しげに会話する姿──それは、隼人が自分には一生縁のないものだと思っていた世界だった。彼は軽く頭を振り、その思いを振り払おうとした。
しかし、その日の午後、思いがけない出来事が彼を待っていた。
隼人がマンションの階段を降りようとすると、ドアの前で絵里子が困った表情をしていた。直人の靴紐がどうにも結べないらしく、彼女は何度も試みていたが、うまくいかないようだった。
隼人は無意識に足を止め、少し離れたところからその様子を見ていた。普段は関わるつもりなど毛頭ない隼人だったが、その時ばかりは彼女の困惑した顔が妙に気になり、声をかけることを決意した。
「手伝おうか?」
隼人が声をかけると、絵里子は驚いたように振り向いた。「あ……すみません、助かります」
彼女の声は、かすかに疲れが滲んでいた。隼人は無言のまま直人に近づき、しゃがみこんで靴紐を素早く結んでやった。直人はその手つきに興味津々で見入っていたが、何も言わなかった。
「ありがとう、助かりました」と、絵里子が柔らかく微笑んだ。
隼人は何か言おうとしたが、その言葉は出てこなかった。代わりに軽く頷くと、その場を去ろうとした。
「そういえば、あなた……同じ階に住んでますよね?以前からお世話になってるような気がします」
絵里子が声をかけたことで、隼人は足を止めた。彼女の言葉には、無理やりな好奇心というよりも、純粋な感謝が感じられた。それが、隼人にとっては意外だった。
「黒崎です」と、隼人は短く名乗った。
「黒崎さんですね。私は佐々木絵里子。よろしくお願いします」と、彼女が頭を下げた。
その瞬間、隼人は何かが自分の中で変わったのを感じた。長い間、誰かとこうして普通に挨拶を交わすことなどなかった。だが、その普通の行為が、なぜか彼には重く感じられた。
「それじゃあ」と言って、隼人はそのまま立ち去ろうとしたが、直人が急に彼の腕を引っ張った。
「また靴紐、結んでくれる?」直人が無邪気に尋ねた。
隼人は一瞬言葉を失い、絵里子が慌てて「直人、失礼でしょ?」と止めに入ったが、隼人は「いいよ」とだけ言って、再びしゃがみ込んだ。
「ありがとう、お兄ちゃん!」直人の明るい声が、隼人の胸に不思議な温かさを残していた。
その日は、何気ない一日のはずだった。しかし、絵里子や直人との触れ合いが、隼人にとって予想外の影響を与え始めていた。彼の孤独だった生活に、小さな変化が訪れたのだ。
その晩、隼人は暗い部屋で一人、冷たいビールの缶を開けながら考え込んでいた。自分の過去は逃れられない。だが、それでも人との繋がりが少しずつ心を侵食していく。
そして、思い出すのは渡辺の言葉だった。
「神崎が戻ってくる……」
彼が再び動き出すと、隼人の生活は一変する。絵里子や直人といった普通の人々を巻き込むつもりはない。だからこそ、自分自身がこれ以上関わらないようにすべきだと隼人は思った。
しかし、その翌日もまた、隼人は思いがけない状況に直面する。
次の日、隼人は朝のジョギングに出ていた。体を動かすことで、彼は過去の思い出や悩みから一時的に逃れることができた。汗が流れ、冷たい風が彼の顔を撫でる。それは、まるで過去を振り切るかのような感覚だった。
しかし、公園のベンチに差し掛かった時、彼の目に映ったのは、泣いている直人の姿だった。絵里子は見当たらず、直人は一人でベンチに座っていた。何かがあったのだろうか。隼人は迷ったが、次の瞬間には直人の元へ駆け寄っていた。
「どうした?」隼人は低い声で問いかけた。
直人は隼人の顔を見上げると、涙を拭いながら震えた声で答えた。「お母さんが……いなくなった」
隼人の心臓が一瞬、凍りついた。これはただの迷子か、あるいは──
「どこで最後に見た?」隼人は冷静さを保ちながら尋ねた。
「向こうの広場……でも、急にいなくなっちゃった……」直人は必死に隼人に説明しようとしたが、涙が止まらなかった。
隼人はすぐに行動に移った。広場へと向かい、周囲を見回す。しかし、絵里子の姿はどこにもなかった。
彼の心の奥底で、嫌な予感が募る。これはただの事故か、それとも──過去の組織が再び動き出した兆候なのか。隼人の中で、過去の殺し屋としての本能が目覚め始めた。