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第1章 逃れられない過去

黒崎隼人は、煙草の煙が立ち昇る部屋の片隅に腰を下ろし、目を閉じていた。薄暗い光が窓の外から差し込むこの部屋は、まるで彼の心そのもののように重く静かだった。数年前まで、彼は冷酷な殺し屋として生きていた。標的を選ばず、命じられたままに消し去ることが日常だった。しかし、その日々は終わった。少なくとも、彼はそう信じたかった。


「今はただの普通の男だ」と自分に言い聞かせる。だが、その言葉の裏には過去の亡霊がいつも潜んでいる。かつての組織、かつての仲間、そして殺した者たちの顔が、夜毎彼の夢に現れる。


冷蔵庫から出した缶ビールのプルタブを引くと、炭酸が静かに響いた。隼人は無表情のまま、それを飲み干す。静寂の中、耳に残るのは彼自身の呼吸と、遠くで響く車のエンジン音だけだった。


そんな時、ドアの外から聞こえてくる小さな声が、彼を現実に引き戻した。


「お母さん、早く!公園に行きたい!」


窓を開けて外を見下ろすと、階下に小さな子供と若い女性が立っていた。母親らしきその女性は、やや困ったような表情を浮かべながらも、子供に優しく微笑んでいた。その様子は、隼人の胸に一瞬の安らぎをもたらす。


「行こうか、直人。気をつけてね」


その名前が耳に残る。直人――その子供の名だった。隼人は窓を閉め、再び部屋の暗さに沈んだ。しかし、彼の心にはかすかに灯った感情が残されていた。見知らぬ母子との出会いが、彼の孤独な日々に何かを変えるきっかけになるのだろうか。彼自身、まだ気づいていなかった。


日々が過ぎるにつれ、隼人はその親子の存在を意識せざるを得なくなった。階下に住む佐々木絵里子と、その息子・直人。彼らは、隼人が思い描く「普通の生活」を象徴する存在だった。


しかし、普通の生活など、隼人にはあまりにも遠い。彼がこれまで歩んできた道は、血と裏切りで彩られたものだったからだ。


隼人は、絵里子と直人が部屋を出る音を聞きながら、再び椅子に深く腰を沈めた。彼らの姿が彼の生活にちらつくようになってから、妙な違和感が隼人の中に芽生え始めていた。これまで、他者の存在は自分にとって関わるべきではないものだと思っていたのに、彼らが近くにいることで、かつて失った感情が再び呼び起こされているのかもしれない。


しかし、そんな感情に浸る余裕など、隼人にはない。過去の自分を振り返るたび、無数の命を奪ってきた手が重く感じられる。これまで、後悔や罪悪感を抱くことを知らなかった。だが、平穏な生活を求めて一人で過ごすようになってから、その感覚が彼を日々蝕んでいた。


そんなある夜、隼人は部屋に戻り、ベッドに横たわった。疲労感が全身を包み込むが、眠気はまったく訪れない。いつも通りの不眠症だ。彼は頭を抱えて、暗闇の中で無言のまま目を閉じる。


──その瞬間、携帯が不気味な音を立てて振動し始めた。こんな時間にかかってくる電話は、決して良いものではない。隼人はしばらく無視しようとしたが、音が止まる気配がない。やがて、ため息をついてディスプレイを確認すると、画面には見覚えのある番号が浮かび上がっていた。


「渡辺……」


嫌な予感が走る。隼人は受話器を取ると、相手の声が冷たく響いた。


「久しぶりだな、隼人」


渡辺豪──かつての仲間であり、同じ組織で長年一緒に活動していた男だ。彼は隼人よりも粗暴で、感情に任せて殺しを楽しむタイプだった。隼人が組織を抜けた後も、渡辺はしばらくは接触してこなかったが、その声からは、何か重大なことが迫っていることを感じさせた。


「何の用だ?」隼人は感情を押し殺して尋ねた。


「お前に会いたい奴がいるんだよ。組織が再建されてな。お前も手伝ってくれねぇか?」


隼人は唇をかみしめた。組織はもう潰れたはずだった。隼人自身が裏切り、すべてを終わらせたつもりだった。しかし、その希望はあっけなく打ち砕かれる。


「俺はもう関係ない。お前らとは関わらないって決めた」


「それができりゃ苦労しねえよ」と渡辺の声が笑いを帯びた。「お前が何をしたか、まだ知らない奴も多いが、組織はお前を許しちゃいない。今さら普通の生活なんてできると思ってるのか?」


隼人は言葉に詰まり、無言で携帯を握りしめた。自分が再び戦うことになるなど、想像もしたくない。だが、渡辺が言うことが事実であれば、彼の平穏な生活は終わりを告げたのだ。


「……俺に何をさせたいんだ?」


「詳しい話は会ってからだ。お前もよく知ってる場所があるだろう。そこで待ってる」


渡辺はそれ以上言葉を残さず電話を切った。隼人はしばらくその場に立ち尽くし、頭を抱えるようにして考え込んだ。かつての自分と決別し、絵里子や直人との平穏な日々を取り戻そうとしていた矢先、過去がまた彼を引き戻そうとしている。


静かな部屋の中、隼人は何かが壊れ始めているのを感じた。


次の朝、隼人は無意識のうちに渡辺が言っていた場所へと足を運んでいた。そこは、かつて組織が密かに集会を開いていた場所の一つ、薄汚れたバーだった。


ドアを開けると、薄暗い照明の下で渡辺が一人、カウンターに座っていた。隼人が近づくと、渡辺は笑みを浮かべて振り返った。


「よく来たな、隼人」


渡辺の笑みは冷たく、そこにはかつての仲間意識の欠片もなかった。


「話を聞こう」と、隼人は静かに座った。


「組織が再建される。だが、お前も知ってる通り、神崎はお前の裏切りをまだ忘れちゃいねえ。あの男が戻ってきたら、お前の居場所なんかどこにもなくなる」


隼人の眉がピクリと動いた。神崎龍二──かつての上司であり、隼人にとって唯一の恐怖心を抱かせる存在だった。


「神崎が……戻ってくる?」


渡辺はゆっくりと頷いた。「そうだ。奴はお前を探してる。お前が組織を裏切った理由を、奴は知りたがってるんだ」


隼人の胸に、かすかな不安が走った。神崎が動き出したとなれば、隼人の平穏な生活は完全に崩れ去る。組織に背を向けたことで手に入れたと思っていた自由は、実際には束の間のものだったのかもしれない。


渡辺は続けた。「奴に見つかる前に、俺と手を組めよ。お前が俺に協力すれば、神崎を黙らせる方法もある。そうすりゃ、お前は二度と追われることもなくなる」


「協力だと?」隼人は険しい目つきで渡辺を睨んだ。「俺に再び手を汚せと言ってるのか?」


渡辺はニヤリと笑い、「お前がその気ならな」と低い声で言った。


隼人は一瞬、迷いが生じた。だが、心の中ではすでに決めていた。再び過去に戻るつもりはない。彼はゆっくりと立ち上がり、渡辺をじっと見つめた。


「俺はもう殺し屋じゃない。誰とも組まない」


それだけを言い残して、隼人は店を出た。背後で渡辺の冷笑が響いたが、隼人は振り返らなかった。

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