深夜を呑む
「めっちゃ面白いのできたわ、多分」
私はコーヒーを淹れながら、興奮気味に兄に言った。
兄は口だけでしょ、と到底叶いそうにもない夢でも聞いたときかのように一笑した。
少し前に、エッセイ風の文章を細々と書いていくのもいいがたまには物語を書いてみるのも楽しそうだと思い立ち、今日までひたすらにプロットというものを練っていた。
そのプロットが完成し、達成感の余韻で柄にもなく妄言を口走ってしまった。最後に少し謙遜しているところに私の芯の弱さを感じざる得ない。
迂闊に『面白い』というハードルを爆上げする一言を言ってしまった私にも落ち度はあるが、兄の何気ない嘲りはその後に飲んだコーヒーの後味を悪くさせた。
机に広げてあるノートには何日間かけて制作したプロットが書き殴ってある。それを改めて見た途端、胸に悔しさが込み上げてきた。
取り組んだ時間は無駄だったのだろうか。そう一瞬思ってしまった自分に何より悔しさを感じる。
今胸にあるこの不快感が頭に到達して苛立ちに変わってしまう前にどうにかした方がいい気がした。0時も過ぎていたが甘いものでも買いに行くことにしよう。
グレーのパーカーを羽織り、ポケットに入れっぱになっている二つ折り財布を取り出す。小銭が
少々入っている。三百円ぐらいだろうか。これだけでも足りそうだが、少し心許ない。札は入っていなかった。
私は財布に現金を入れておくのがあまり好きではない。財布に入れておくべき紙幣の行く先は様々だが、最近は漫画の単行本に挟み入れておくことが多い。
邪魔だと思ったら本棚の未読本コーナーにある単行本に挟む。たまに存在を忘れて呼んでいる最中に見つかることもある。
その度に、今見つけずにもっと長い時間放置していたらこの千円札は漫画のページと一体化したりしたのではと考える。なんか体内に残ってしまった手術道具的な感じで。
今回は仕舞ったことを覚えていたのでそそくさと千円札を回収する。不意に出かける時は忘れないのにコインランドリーに行く時はほぼ確定で忘れるのはどうしてなのだろうか。何度コインランドリーで頭を抱えたことか。
ガラス戸をガラガラ鳴らしながら深夜の住宅街に顔を出した。
十一月中旬の深夜は寒いだろうと若干厚着したものの、すぐに必要がないことに気がついた。この時期になれば吐く息がここにいるよとでも言うかのように白くなるものだが、何度も吐いても確認出来なかった。去年はもっと寒かったよな、ととうに忘れている昨年の寒さを思い出そうとした。しかし、浮かぶのは帰宅してファンヒーターで温まる光景だけだった。この光景を深掘りすると引き返したくなりそうだったので、暖色の雰囲気を醸し出す私室のイメージをシャットアウトした。温かさは人を居座らせようとする。
街灯と自販機の灯りのおかげでスマホのライトに出番が回ることはなく、手ぶらで明暗が交互に続く夜道を淡々と歩いた。アスファルトの地面を踏むと靴底がぶつかる音と砂利が擦れる音がする。昼間ではあり得ないが、不思議とこの時間帯だとその音が若干の反響を見せる。それがただでさえ感じる孤独感を強く感じさせる。いや、むしろ孤独感を昇華させ、独占感を与えてきているのかもしれない。ここ一帯は今、私が貸し切っていて何してもいい。そう思考を制御してくる。
毎度お世話になってるコインランドリーが見えてきた。この間は浮気してごめんよ、と深夜でも燦々と煌めく彼に愛しい眼差しを向ける。
なんやかんや、結構歩いた。一番近場のコンビニを気分で避けたのだが、次に近いコンビニが思いのほか遠い。学生時代はこんな距離で疲れたりしなかったと言うのに。
チェックポイントであるコインランドリーを過ぎたあたりから疲労感が露骨に現れた。背後から照らす黄色の点滅信号が私の残りの活動時間の少なさを表しているようだ。
ふと、ホームレスになったら真っ先にコインランドリーに行こうと思った。24時間やってるし、エアコンもついている。ずっと、滞在することは出来なくとも三日くらいはワンチャンあるのではないか。そのためにうまく店員を口説くコミュ力がなければ厳しそうだが。お手洗いは公園にあるものを使って、ご飯はパン屋からパンの耳を貰おうか。貰ったことないが。
深夜になると見たものですぐに妄想してしまう。深夜テンションというものの影響なのだろうか。深夜テンションを経験した自覚がないので、どういう感覚がそれを言うのか定かでない。
それは社会性や倫理観その他諸々を考慮しない妄想が湧き上がるこの状態のことを言うのか。
鼻で空気を吸い込むと、眉間より少し下が私の体で唯一、冬の冷たさを感じ取る。道路の端だと土の匂いが混じる。真ん中だと、より精錬された鋭い冬を感じれる。反響する足音が二、三人が踊っているように聞こえる。誰も見ていなし、踊ってみようか。習ったことなどないが、耳に届く足音が先導してくれそうだ。もし、この姿を誰かに見られてしまってもいい気がした。もし車に轢かれてしまってもいい気がした。転んで血だらけになってもいい気がした、吸う空気が消してくれそうだった。上唇を舐めると冷たかった。