悪い予感しかしない夜会
朝食を終えたアーサーは、自室にこもり、エステルに手紙を書いた。話したいことがあると書き送ると、昼前に『我が家で昼餐でもご一緒にどうですか?』と返事があったので、公爵家に出かけることになった。部屋で準備をしているとメイドがやってきた。
「若様、奥様がお呼びです」
「母上が?」
アーサーは驚いた。母に呼び出された経験なんてほとんどなかったからだ。アーサーの母は社交好きで毎日のように貴族の夫人たちとどこかにでかけている。今の時間に、邸にいること自体珍しいことだった。階段を下りて二階にある母の部屋に向かった。ノックをすると「入りなさい」と許可が出た。扉をくぐると、長椅子に座ったアーサーの母メリッサと視線が合った。焚きものの香りが漂う甘ったるい部屋でメリッサは扇子で口元を覆いながら言った。
「ここにお座りなさい」
言われるままにはす向かいの席に座るとメリッサは目つきを鋭くさせて口を開いた。
「なぜ直接報告に来ないのですか!」
「は?」
「お前がシェーンベルグ公爵令嬢と婚約したという話を先ほどあの人から聞きました。なぜ真っ先にわたしに報告しないのです!」
どうやらメリッサは、新聞を読んで息子の婚約を知ったようだ。それで驚いてアドルフに確認したということのようだ。
「申し訳ありません。すでに父が耳に入れていると思っていましたので」
正直、婚約を直接メリッサに報告するということは少しも考えていなかった。なぜなら、メリッサはアーサーに無関心で、留学から帰国した際、帰参の報告のために顔を出したときも、「そう」の一言で片づけられたからだ。きっと息子の婚約にも関心がないだろうと思っていた。
「まあ、この際、そのことは大目にみましょう。それより、よくやりました。お前がシェーンベルグ家の令嬢と婚約なんて思ってもみないことでした」
興奮しているのか母の頬はうっすらと上気している。
「あのアマーリエの娘と縁続きになれるなんて、観劇仲間に話したら、さぞ羨望の的になることでしょう」
アマーリエとはたしか、エステルの母の名だ。そういえばメリッサの一番の趣味は観劇だった。メリッサがここまで感情を露わにする姿をアーサーは初めて目にした。
「それで、令嬢とは今度いつお会いする予定なのですか?」
「……今からシェーンベルグ公爵邸に伺うところです」
「そう。それはタイミングのよいこと」
メリッサは扇子を閉じると、おもむろに立ち上がり、部屋の奥にある箪笥の中から何かを取り出して持ってきた。それは布張りされた小さな箱だった。
「これを持っていきなさい」
メリッサは箱の蓋を開けた。中には翡翠の指輪が収められていた。
「わたしが祖母から受け継いだ品です。めぼしい宝飾品のほとんどは娘たちに譲ることになっていますが、これだけは思い入れがあるので取っておいたのです」
「ですが……」
アーサーは戸惑った。どうやらメリッサはアーサーがエステルの一時的な婚約者であることを知らないようだ。
「いいからさっさと持って行きなさい! 不要と言われても必ず受け取ってもらうのですよ!」
アーサーはこの家の女性陣に逆らうことはできなかった。しかたなく小箱を受け取ってポケットにしまうと、早々にメリッサの部屋から退散した。
***
馬車に揺られて着いたのは、ジーニアス侯爵家よりも格式高い立派な邸だった。メイドの案内で邸の奥へと通される。三階の角にある扉の前で、メイドはドアをノックした。
「お嬢様、アーサー様が来られました」
「入ってもらってちょうだい」
扉が開かれ、アーサーと顔を合わせたエステルは、座っていた椅子から立ち上がり、開口一番こう言った。
「まあ、ちょうどよかったです。今日、お父様は忙しいので、アーサー様とゆっくりお話しできますわ」
エステルはご機嫌だった。笑顔で部屋の奥へとアーサーを招く。あまりに呑気な対応にアーサーは愕然となった。
「……あなたはひょっとして今朝の新聞をご覧になっていないのですか?」
「新聞? もちろん読みましたわ。わたくしたちの婚約を知らせる記事のことをおっしゃっているのですよね?」
「当たり前です! 正式に婚約が発表される前にあんな記事が出てしまうなんて! いったいどこから出た情報か突き止めなくては!」
通常、貴族同士の婚約は国王の許可が必要なのだ。許しをもらう前にあんな記事が出たら侯爵家の信用問題にかかわる。するとエステルがけろりとした顔で言った。
「心配ありません。国王陛下はすべてご存じです」
「は?」
「わたくしが陛下にお知らせしたのです。馬鹿な弟が迷惑をかけているお詫びに、あとはわたくしの好きにするようにとのことでした」
「え……待ってください。どういうことですか?」
「わたくし、陛下とは親しくさせてもらっているんです。新聞にあの記事をリークしたのもわたくしです」
アーサーは混乱した。
「なぜ、そんな真似を……?」
「今夜の夜会に、アーサー様と一緒に出席したいからです」
「……すみません。意味がわかりません」
アーサーは頭痛をこらえるように額に手を押し当てた。
「それは今日の夜会にご一緒していただければわかりますわ」
エステルはいたずらっぽく笑うと、一枚の封筒をアーサーに差し出した。中身を取り出してアーサーはぎょっとした。それはシェーンベルグ公爵家主催の夜会の招待状だった。
「もしかして、これに出ろと?」
「はい。――アーサー様がいないと困るのです。お願いします」
ひたと見つめる金の瞳をアーサーはうろんな気持ちで見返した。
「お嫌ですか?」
正直、嫌だった。悪い予感しかしない。絶対に何か裏がある。
「すみませんが、一度、家に帰ります。間に合うかわかりませんが、夜会の準備をしなくてはいけませんので」
そう言って逃げようとするアーサーの腕をエステルはひしと掴んだ。
「心配はご無用です。出入りの商人を呼んであります。さあ、あちらの部屋で、今夜の衣装を選びましょう」
アーサーはたじろいだ。なんとかこの場から逃げようと方法を模索する。
「……いえ、そこまでしていただくわけには……」
「わたくしたちは婚約者です。どうか遠慮はなさらないでください」
「……遠慮しているわけでは……」
エステルは満面の笑みを浮かべながら言った。
「わたくしから逃げられるなんて思わないでくださいね」
エステルの笑顔はたいそう美しいのに、アーサーの目には姉たち以上に狂暴に見えた。
こうしてアーサーの夜会への参加が決まったのだった。