隣町の同業者
今日のアルさんの内覧先は、そこそこ遠く、隣町にある住宅街の物件になる。いつもとは比べ物にならないほど安く、小さい。といっても、庭付きの一軒家で、普通の暮らしには充分すぎる。アルさんの水準が異常なだけで。
ちなみに、わざと見劣りする物件と比較させることで決心してもらうのは、優柔不断なお客さん相手にもよく使う手法だ。
「築年数こそ経ってますが、暖炉とか、直したばかりで使い勝手は良いですよ」
悪いところもきちんと伝えるのが、わたしのモットーである。
アルさんは物珍しそうに、床下の収納を開けてみたり、小さな浴槽を覗き込んだりしていた。一般的な家には備えられているものだけど……?
「お庭の見える大きな窓があると、季節のお花も楽しめそうですね。……こういう庭でワンちゃんを飼うの、憧れるなぁ」
「犬が好きなの?」
驚いた。まさか、アルさんの側から質問されるとは思ってもみなかったから。
彼も窓辺にきて、すぐ隣に立つ。わたしを見下ろし軽く首を傾げると、さらさらとした黒髪に光が零れた。
「そ――そうですね、なんだか無性に、大きい犬を思いっきりモフモフしたいなーって時……ありません?」
「もふもふ」
「ふふっ」
意味を図りかねたみたいに何度かまばたきする。成人男性の口から愛らしい言葉が出てきて、その落差に思わず笑ってしまった。
「アルさんは、犬、お好きですか?」
「嫌いじゃないよ。友達……同僚に頼まれて、代わりに世話したこともある」
「いいですね!」
「うん。たぶん大きいやつ、かな」
「わあ、うらやましいな」
鈍色の瞳はわたしを見つめたままだ。長いまつ毛が、ゆっくりと上下する。
「……いつも、さ」
「はい?」
「付き合ってもらって。迷惑じゃない?」
穏やかな声音で問われる。一応、気にしていたのか!
「あー……正直、ここで決める気もないんだろうなとは、思ってますけど」
真面目に見学してくれるものの、具体的な新生活を思い描けているようには見えない。でも。
「お客さんが納得してくれることが、いちばん大切ですから。わたし達には繰り返しの業務でも、お客さんにとっては一つ一つが大事な出会いなので」
「……」
「だから、迷惑なんかじゃないですよ」
「ありがとう」
拳を握って笑顔を見せると、アルさんもどこかほっとしたように微笑んでくれる。
「せっかくなので、家の周りを見てみませんか?」
「ぜひ」
一緒に建物の外に出る。……今日はヘビはいないよね?
「裏手に井戸があるんです。薪割り場はご近所で共有みたいですね。お水汲みとか薪割りって、されますか?」
「子供の頃に少し。……どうして?」
「え! その、アルさんってお金持ちっぽいなー、なんて……」
ぽい、ではなく、完全にお金持ちなのだが。
ふ、と呼気のような笑いを漏らすのが聞こえた。
「僕だって家事はできる」
気分を害した風はない。やわらかな空気に、つい心を許してしまいそうになる。
「というか、そんな風に思われてたんだね」
「そりゃもちろ……って、すみませんまた失礼なことを?!」
「ううん」
のんきに「チップがいけなかったかな?」などと呟いている。
これ以上、ペースを乱されては堪らない。
「あ――ああっ、お隣の庭にガーベラが咲いてますね! かわいい」
「本当だ。好き?」
「はい!」
アルさんの前だと、自分のポンコツ度合いが増す気がする。それもこれも、ナターシャ達が変なことばかり言うせいだ。
わたわたと案内を続けようとすると、隣の庭先に、恐らく同業者だろう男性と、女性が一人。女性のほうはかなり若い。学生さんかな?
隣町の物件だとたまにある。見学の時間帯が被るのも珍しくはない。
「どうです? いま契約してしまうのがお得ですよ! 立地もいいですし、きれいな庭付きの家にこんな値段で住めるんですから!」
「いえ、その、でも……」
「迷ってるうちに他のお客さんに取られてしまいますよ。絶対に後悔しますって!」
明らかに及び腰の女性に対し、契約を迫る。
こういう営業がわたしは大嫌いだった。下手をしたら、ヘビよりも。まったく……不動産屋の風上にも置けない!
「あの、すみません」
生け垣越しに声をかける。
「そちらのお家、まだ納屋を修繕していないはずですよね? 案内はしないようにと、大家さんから連絡があったと思うんですけど」
「は? なんだ、あんた?」
「あと、この辺りは治安は悪くありませんけど、夜は人通りが少ないので、女性の一人歩きは不安だと思いますよ。ここよりも二つ隣の区画にある、ええと待ってくださいね確か――」
「ロゼッタさん」
ポン、と肩に手を置かれる。
「そのくらいに」
見れば、同業者の男性は真っ赤になって震えている。
「クソッ、あと少しで売り付けられたってのに最悪だ! もういい、好きにしろ!」
書類を地面に叩きつけ、肩をいからせて去ってしまう。
取り残された女性は、わたしと目が合うなりポロポロと泣き出した。
「あッ、ありがとうございました! わた、わたし、初めての一人暮らしで、何もわからなくて……っ」
「こちらこそごめんなさい。黙って見ていられなくて」
こんな子に家をまるごと買わせようとしていたのか! 考えるとまた腹が立ってきた。
「――とりあえず」
ぱん、と手を叩いたのはアルさん。視線が集まったのを確認してから、ふわりと首を傾げる。
「お店に戻ろう。ロゼッタさんなら、いいところを紹介できるんじゃないかな」
「もちろん!」
「いいね。じゃあ、行こうか」
いつも静かなアルさんが場を自然に仕切る。少し妙な心地だけど、冷静でいてくれるのは助かるな、と思う。
新しいお客さんを馬車に乗せて帰ると、ホースマンさんはすごく喜んでくれた。おかげで、無茶をしたことはあまり叱られずに済んだ。
彼女の新しい生活の舞台は、人のいい老夫婦が営む下宿に決まった。何度も何度もお礼を言う姿が嬉しそうだったから、きっと悪い仕事ではなかったんだろう。