大きな契約と未来の息子
「なーんか、ジゼル君が店長に怒ってたけど」
休憩室でポリポリとクッキーをつまみ、ナターシャが言う。ホースマン不動産は今日も暇だ。
わたしは、砂糖を入れたカップの中身をかき混ぜながら、先日の森での出来事を話す。顛末を聞いた彼女は大笑いしていた。
「あっはは! それは災難だったわねえ」
「笑い事じゃないって! もう、思い出しただけで恥ずかしい……!」
今日は毎週恒例のアルさんの来店日。ホースマンさんに何かしら忠告してくれたのかもしれない。ジゼル君は、時間さえあれば馬の世話をしたいのだと言って、お茶会にはほとんど参加しない。
別に心配されるようなことは何もない。あれは、わたしが勝手に抱きついただけだ。アルさんの腕、服の上からじゃわからなかったけど、太くてがっしりとしていて……香水かな、なんだかいい匂いもした気が……
「うぅ」
お、思い出すんじゃなかった! 急いで紅茶を飲み干す。
「度胸がある男はいいわよぉ。家の中に虫が出た時、真っ先に逃げ出すような相手よりマシじゃない?」
「それはそう……って、何の話?」
「結婚生活の話に決まってるでしょ」
「っ、はあ?!」
どうしてこのタイミングでそういう話をするのかしら?! 人がせっかく邪念を振り払おうとしているのに。
「あ、店長。お疲れさまでーす」
「お疲れ様。ナターシャちゃん、ロゼッタちゃん」
のそのそとやってきたホースマンさんは、空いた席にどっかと座り、ため息を吐いた。お茶を淹れると、どことなく力のないお礼が返ってくる。
「金ヅルのために従業員を危ない目に遭わせるな、ってジゼルに叱られてしまったよ」
「か、金ヅル……」
「うわ辛辣」
否定しきれないのが個人経営店の辛いところだ。損をしているのは、何の成果もないのに、毎回のように多額のチップを置いていくアルさんの側だと思うけど。
「念のためにもう一度確認するけど、変なことはされていないんだよね?」
「もちろんです! 何も!」
勢いよく頷く。あって堪るものか、相手はお客さんだ。
「あの人、いつも保留にして帰っちゃいますけど、真剣に検討はされているみたいなんですよね。だからこちらとしても頑張りたいというか、せっかくうちを選んでくれたなら、力になりたいというか!」
ぐっと拳を握ると、なんだか呆れ顔のナターシャが手のひらで示してくる。
「……って、本人も言ってますし。あたしの女の勘も大丈夫って言ってますよ、店長」
「だよなあ」
「でっかい契約と未来の息子がいっぺんに手に入るんだから、見守ってあげましょ!」
「何を言ってるの、ナターシャ?」
「だよなあ……」
「ホースマンさんも?」
息子に叱られたのがショックだったのか、心ここにあらずの様子だ。ジゼル君の心配がきっかけである手前、責任を感じないではない。
「ねえー。あのお客さんと仕事以外の話ってしないわけ?」
「そりゃ軽い雑談くらいはするけど……ああ、本を借りる約束はしたかな」
「えー仲良しじゃない! いい感じ!」
ナターシャはすっかり盛り上がっている。
「仲良しって……静かな人だし、楽しませられているかは正直わからないわ」
「向こうだって、もし居心地が悪いなら、こんなに何度も通わないと思うわよ」
「うーん……」
居心地、か。
先日の帰りの馬車では、わたしが仕事どころではなくてほとんど会話できなかった。だけど逆に、アルさんとなら、沈黙だって不思議と苦じゃないと気付いてしまった。
それほど歳も違わなさそうなのに、落ち着いていて、とっても紳士的な人。ただのお客さんのはずが、そこに居てくれるだけでどれほど頼もしかったことか。
悶々とした考えは、来客を告げるベルが鳴って中断させられた。ナターシャは口もとを拭うと、いそいそと出ていく。
「あらいらっしゃいませ! 今日もわざわざありがとうございますぅ。……ロゼッター?」
「今いきますっ」
彼はもうカウンターの側に立って、わたしが来るのを待っていた。
これまで意識しなかった……意識しないように努めてきたけれど、アルさんは背も高くて手足が長い。まるで舞台役者さんみたいだと思う。
「こっこんにちは! 今日もよろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
お顔を、盗み見る。
緊張はする。でも、この人と話したり、笑顔を見せてもらえたりすると、なんだか心が安らぐような気も確かにするのだ。