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今この瞬間に好きなもの

 最後に馬車が向かった先は、またしても見覚えのある場所だった。

 わたしが、とっておきだとアルさんに紹介した丘。


「本当にいいところだ」

「はい」


 草を踏みしめ、何とはなしに並んで歩く。遠くに見える海は、夕陽を浴びてきらきらと輝いていた。


「暮らすならこの土地がいいって、勧めてくれたからね。ここに家を建てようと思うんだ。きっと気に入ると思う」


 どうやら婚約者さんは、わたしと趣味が合うみたい。

 アルさんは普段よりも饒舌だった。嬉しそうに語る横顔を見たら、わがままを言えるはずもなかった。お客さんの幸せに繋がったなら、それでいい。


 今から幸せな物語に水を差さないといけないと思えば、さらに憂鬱な気分になった。でも、わたしにはその責任がある。


「あの、アルさん。謝らないといけないことがあるんです」


 また来店してくれるのを期待してしまう、この醜い感情が、どうか見透かされませんように。


「どうしたの?」


 気遣わしげに眉を下げられ、急に涙がこみ上げそうになった。これまでたくさん、わたしの好きなものの話を聞いてもらったけれど、今日ばかりは隠しておかなければ。

 見知らぬお相手との幸福な新生活を祈る。こんなに優しい人と一緒に暮らせたなら、きっとどんな家だって素敵な場所になるはずだ。


「ここ、少し前に買い手がついてしまったらしくて」

「え?」

「ごめんなさいっ、あんな風にご案内したのに」

「そんなはずは……」


 きょとんと瞳を瞬く。よく磨かれた鋼みたいな、鈍い輝きがとてもきれい。

 もっと早く言い出すべきだったのだ。婚約者さんにも悪いことをしてしまった。


「本当にごめんなさい! 検討している方がいらっしゃるなら把握しておくべきでした」

「……」

「……で、でも近くにまだ空いている土地があるんですよ! ここ以外にも素敵な景色の場所は知ってます! そうだっ、町からちょっと離れてしまいますけど――」


 手で制され、連ねていた言葉を飲み込む。アルさんはいつになく真剣な顔をしていた。


「ここを買った人の名前。わかる?」


 問い詰めるような口調ではないが、静かな声は緊張感に満ちていた。わたしは記憶を必死にたどる。


「え……ええと確か……あっ、カーライル様! そう、伯爵家の、アルフレッド・カーライルという方だと聞いてます」


 彼は顎に手を当て、少しの間、ぼうっと宙を見つめていた。「そうか」と呟き、ひとり納得したように頷く。

 万が一にも、侯爵様から買い戻すなどと言い出したらどうしよう? 契約は交わされているし、ナターシャ曰く、城が建つことまで既に決まっているはずだ。


「言われてみれば、そうだね。――ロゼッタさん」

「何……でしょうか?」


 何が、そう、なのだろう?

 身構えるわたしに向かって、眼前の青年は平然と言ってのけた。


「僕の名前はアルフレッド。アルフレッド・カーライルは、僕だ」

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