妹からの手紙
迷子になるとは思っていなかった。
シエナはぐるりと広い廊下を見回した。庭に面した廊下は柔らかな日差しがたっぷり入り込んで、とても明るい。もう少し日が高くなれば、暑さの方が気になるだろうが、まだ昼前のこの時間は気持ちがいい。
「参ったな。誰かに道を聞きたいけど、誰もいない」
上着の内ポケットから懐中時計を取り出した。蓋を開ければ、約束の時間が迫っている。
大公国に嫁いだ姉であるミアは長女らしく、きっちりとした性格をしていた。注意は長女の役割だと思っている節もあるので、説教は受けたくない。シエナは癖のある髪をぐしゃりとかき上げた。
何も案が思い浮かばないまま、ぼんやりと庭を眺めていれば、乱暴に扉が閉じる音がした。そちらに目を向ければ、怒り狂った様子の女性が何やら大きな声で叫んでいる。声をかけるのもはばかられたが、彼女を逃してしまえば、いつ聞く人を捕まえられるかわからない。
シエナは自分の姿をさっと確認した。フリルが多めの白いシャツは乱れておらず、ズボンにも汚れはない。腰に巻いた深い青色のサッシュも曲がってはいない。上着を気持ち整えると、笑顔を浮かべて彼女の方へと歩み寄った。
「そこのお嬢さん、申し訳ないが大公妃殿下がどこにいるか知らないかい?」
「え?」
突然声を掛けられて、彼女はぽかんとした顔になる。怒りだされても面倒なので、人当たりのいい笑顔を貼り付けてシエナは続けた。
「どうぞと言われてここまでやってきたのはいいが……ついうっかり迷子になってしまってね」
ここは広すぎる、と大きく手を広げて困ったように周囲を見回した。彼女の大きな目が忙しく瞬いた。
「大公妃殿下ならこの先のサロンにいらっしゃるわ」
「そうなんだ。ありがとう」
「ねえ、あなた、大公妃殿下の愛人?」
探るような目を向けられて、ふわりとほほ笑んだ。彼女はその笑顔に顔を赤らめる。
「面白いことを言う人だね。わたしは女だし、大公妃殿下は一番上の姉だ」
「はあ? 嘘でしょう?」
彼女は信じられないと言わんばかりに、目を大きく見開いた。遠慮のない目でシエナを上から下までつぶさに観察する。
「本当だよ。よく見て? わたしは大公妃殿下によく似ているだろう?」
「ふうん」
信じていないのか、目を細めて何やら思案している。碌なことを考えていないだろうな、とシエナは思いつつ、一歩前に出て彼女との距離を縮める。そして注意を引くように手を伸ばし、彼女の手を包み込んだ。彼女の目を見つめたまま、手を持ち上げ指先に唇を寄せる。
「何が信じられないのかな? あなたの疑問を教え――」
シエナが彼女にそう囁いた時。
「いい加減にしなさい。ここは大公国よ。勝手に口説いているんじゃない」
吹雪が呼び寄せられるのではないかと思うほどの冷ややかな言葉が叩きつけられた。シエナは彼女の手を握りしめたまま、振り返る。
「お久しぶりです、ミアお姉さま。お元気そうで何よりです」
「人の国に来てまで何をやっているの。しかも何よ、その恰好! 髪も短くして! 男のようじゃない」
「確かに男性用の服装ですが、きちんとした正装です。髪は服装に合わせてみました」
何か文句がありますか、と言わんばかりの笑顔で言い切った。ミアは妹に言いたいことは沢山あったが、彼女の事情はよく知っている。知っているから、無理に言葉を呑み込んだ。
「……あなたは何を目指しているの」
「夫好みの腰の細い美少年?」
シエナが首をこてんと傾げたのと、ミアのこめかみに青筋が立ったのは同時だった。
◆
ミアはシエナを連れて、サロンへと入った。サロンにはすでにシエナを迎える用意がされていた。ミアは侍女にお茶を淹れるように指示をしてから、長椅子に腰を下ろす。シエナも向かいの椅子に座る。
「わざわざわたしのところにやってきたのは女性を口説きたかったのかしら?」
「そういうつもりはないけど……。さっきの彼女、大公閣下の愛人でしょう?」
「そうよ。よくわかったわね」
「あんな薄着した派手な女性、普通にいないからね」
シエナは先ほどの彼女の着ていた派手なドレスを思い出す。この国は暑さもあって、非常に薄い布でドレスは作られているのだが、それでも何枚も重ねて肌は透けないようにしている。ところが彼女は隠さなくてはならないところはきちんと隠れていたが、腕や腹などは薄着の一枚だけだった。その姿は夜の商売女と変わりない。
シエナの指摘にミアは疲れたように肩を落とした。
「新しい愛人よ。愛人には愛人としてのルールがあるのだけど、彼女だけまったく守ってくれなくて」
「なるほどね」
「大公閣下が何人愛人を持っても構わないけれども、流石にわたしに突っかかってくるとなると、放置しておけなくなるわ」
この大公国にミアが五番目の妻として嫁いできたときにはすでに大公は六十歳をいくつか超えていた。この世界の寿命が七十歳ぐらいなのを考えると、落ち着いてもいい年齢である。だが若い頃からの女好きは年を取るごとにひどくなっていた。
女性の幸せを考えた時、かなり条件の悪い夫であるが、この結婚は完全に政略である。そのためミアの幸せの基準は大公妃として尊重され、虐げられなければいいというもの。それを脅かす愛人はミアにとって排除対象だ。
「さっきの様子だと、顔のいい男でもあてがえばすぐに鞍替えする気がするよ」
「そうかしら? 大公閣下の愛人でいるメリットの方が大きいから、軽率な真似はしないと思うけど」
大公は愛人に対しても大盤振る舞いで、正妃であるミアと変わらないほど惜しみなくお金を使う。いくら使っても財政担当から文句を言われないことを考えると、この国はとても裕福なのだろう。政治的な役割を担っていないミアには想像しかつかないが、困窮はしていないはずだ。
「お金の面ではね。でもまだ二十代なら、女性としての喜びも欲しいはず」
「……悪かったわね。枯れていて」
「突っかからないでよ。ミア姉さまもわたしも政略結婚なんだから、この状態を受け入れるのは当然なんだから」
つい恨み言を吐きそうになるミアに、シエナはぴしゃりと告げた。ミアの結婚もひどいものだが、シエナの結婚はもっとひどい。彼女の夫は男しか興味を持てないという個性があり、そのためシエナは女性の美の象徴でもある髪を切り落とし、男装している。
ミアは気持ちを切り替えるように、大きく息を吐いた。
「それで、用件は何?」
「ユリアナが冷酷王に嫁いで一ヵ月過ぎたよね」
「そうね」
「そろそろ挨拶に行こうかと思うのだけど、ミア姉さまはどうするのかなと思って」
大公国はユリアナの嫁いだ大国のすぐ隣にある。とても良き隣人として昔から付き合いがあるため、前国王による侵略戦争を受けずにいられた。もちろん侵略されないように、武器や食料の提供など密かに行っているのもあって、友好国扱いだ。
今の国王との付き合いはあまりないようだが、前国王と大公は友人関係を築いていたのも大きいようだ。ユリアナとの婚儀の時は、国内だけで行われたため招待されていない。
「可能なら、わたしも会いに行きたいけど……」
「だったら、ミア姉さまの方から打診してもらえる?」
シエナは前のめり気味にミアにお願いした。ミアはそんな彼女を見て苦笑する。
「まったくちゃっかりしているんだから」
「だってわたしからは申し込めない。確かにうちは大陸一の商会かもしれないけど、貴族でも何でもないからね。変に刺激したら困る」
「わかったわ。ジャンナにも連絡した方がいいのかしら?」
ミアはすぐ下の妹の名前を口にした。ジャンナは祖国の隣国の辺境伯継嗣に嫁いでいる。
「ジャンナ姉さまはムリだって。今、辺境伯私設騎士団の躾中」
「躾?」
「そう。なんでもジャンナ姉さまよりも弱いみたい。鉄扇も伝授しているそうよ」
「騎士団に鉄扇」
ジャンナ愛用の鉄扇を思い出し、ミアはこめかみを揉んだ。ミアとジャンナは年齢が近いせいもあって、一緒に教育されてきた。ジャンナは淑女の鑑のような女性に成長したが、同時に何故か鉄扇使いにもなっている。
「鉄扇……確かマナーの先生が教えたのよね」
「マナーの一環で鉄扇を仕込むなんて、すごく不思議」
シエナはそう他人事のように笑う。ミアは祖国でのあれこれを懐かしく思い出し、ため息をついた。
「連絡してみるから、しばらく時間をちょうだい」
とりあえず手紙を出してみようということになった。
◆
数日後。
シエナはミアに再び呼び出され、前と同じサロンに通された。ミアは難しい顔をして手紙を読んでいる。
「返事、ずいぶんと早かったね」
「そうなのよ。今朝届いたわ」
ミアの厳しい表情に、シエナは目を見張った。ミアはどんなことがあっても、どこか余裕がある態度を取ることが多い。その余裕があまり見られないことにシエナは不安を覚えた。
「どうしたの? ユリアナに何かあったの?」
「何かあったわけではないの。ユリアナから手紙が届いたのだけども、何を言っているのか、さっぱりわからなくて」
「え? ミア姉さまの手紙の返信だよね?」
「そうなるのかしら? 今は忙しいから無理、ということが正式文書で届いたのだけど、その手紙と一緒にユリアナの手紙が入っていて」
ミアはシエナにユリアナからの手紙を渡した。シエナはさっとその手紙に目を通す。
「聖水が欲しい? どういうこと?」
「そう思うわよね、普通。挨拶もそこそこに、悪を倒すために聖水が欲しいとお願いされても」
「聖水なんて教会に行けばいくらでも手に入るのに、どうしてだろう?」
「教会にも行けないなんて……もしかしてどこかに閉じ込められているのかしら」
聖水は教会に行けばいくらでも分けてもらえるものだ。それをわざわざ遠くにいる姉にお願いする状態。嫌な想像しか出てこない。ミアは深く考えないユリアナが一人寂しく塔に押し込めらえている様を想像した。
いつも明るい妹姫が笑いもせずに床に伏し、嘆き悲しむ。
そこまで想像して、ミアの胸がずきずきと痛んだ。シエナはミアが何を想像したのかあたりを付けると、ため息をついた。
「あのユリアナが大人しく閉じ込められているわけないじゃない」
「でも結婚相手は冷酷王ですもの。もしかしたら――」
動けないほどの状態になっているかもしれない。
言葉にするのが恐ろしくて飲み込めば、シエナが頭が痛そうにこめかみを揉んだ。
「ミア姉さま、最近何の本を読んだの?」
「……古城に住む妖精姫と高潔な騎士」
「ああ、最近人気の恋愛小説ね」
シエナも世間の話題になっていることから目を通している。正当なる王位継承者である王女が後妻の手によって打ち捨てられた古城に閉じ込められている話だ。高潔な騎士が苦難を乗り越えて彼女を見つけ出し、力を尽くして彼女の奪われた地位を取り戻す話だ。もちろん最後は二人は心を通い合わせてハッピーエンドとなる。暇を持て余した女性が好きそうな恋愛話である。
「とても素敵だったわ。騎士がとにかくかっこよくて……」
うっとりとした様子で語り出すミアに、シエナは苦笑した。
「その話をユリアナに当てはめるのは無理があるよ」
「黙って俯いていれば、ユリアナだって可憐な姫君に違いないわ」
ミアは力強く言い切った。どうしてもユリアナを悲劇の王女にしたいようだ。
しっかり者の長女であるミアの唯一の欠点はなんでもかんでも現実を物語に当てはめようとするところだ。貴族の争いや王族の継承権争いから無縁の国で育った彼女にしたら、こうした宮廷で繰り広げられる恋愛小説はとてもいい参考書なのだろう。愛憎渦巻く公国に正妻として嫁いだ姉には確かに必要な情報だ。
だからといって、すべてが当てはまるわけではない。特にユリアナは王女であっても、王女らしさはないのだ。しかも相手は冷酷王と名高い高潔の対極にいるような武人。ヒーローというよりも悪の権化だ。
既に趣味の妄想の世界を広げ始めたミアにどう言ったらいいのか。否定をしてしまうとミアが意固地になるかもしれないので、言葉選びが難しい。悩みつつ、シエナは大皿からクッキーを一枚摘まんだ。
「ユリアナの見た目が儚げなのは間違いないわね。お母さまの血をわたしたちは継いでいるし」
四姉妹は全員母親である王妃によく似ている。華奢な体つき、肌は抜けるように白く、髪もプラチナブロンド。性格を知らなければ、深窓の姫君で通るのは間違いない。
「でも、残念ながら閉じ込められているのなら、ユリアナがやらかした確率の方が高いと思う。あの子、色々なものを探し出す天才だし」
ちらりとミアの様子を窺う。ミアは納得のいかないと言った様子で唇を結んでいる。
「覚えている? ユリアナがお父さまのへそくりを見つけてお母さまに渡してしまったこととか、お兄さまの書き損じた恋文を見つけて、お義姉さまに朗読してしまったこととか。他にも沢山ある。嫁ぎ先でやらかしていない保証はない」
「………………そうだったわね」
たっぷりとした沈黙の後、渋々ミアはユリアナがやらかした可能性を認めた。シエナは姉が現実に戻ってきたことに満面の笑みを浮かべる。
「よかった。ミア姉さまが冷静になった」
「わたしはいつだって冷静よ。ちょっと暴走してしまっただけ」
「うん。そうだね」
ミアの言い訳がましい言葉を流し、シエナは手紙をテーブルの上に広げた。ミアもその手紙を覗き込む。
「じゃあ、整理しよう。手紙には聖水を手に入れたいと書いてある」
「そうね」
「理由は悪を滅ぼすためらしい」
「悪って何かしら?」
ミアが首を傾げれば、シエナも唸る。ユリアナの手紙は言いたいことだけが書いてあって、そういうことになった事情とかあちらの様子とか全く書いていない。そのため手紙からはユリアナの言う「悪」がなんであるかわからないし、何が起こっているのかも想像すらつかない。
「冷酷王の周辺の悪ということじゃない?」
「そうなると、悪徳貴族とか、腐敗した王族かしら」
「うーん、それなら聖水ではなくて毒が欲しくなると思うけど」
「流石に直接的に毒とは書けないでしょう」
呆れたようにミアが否定した。ユリアナの手紙も検閲されているはずで、そのような物騒な文言は削除されるはずだ。
「裏読みして毒を送ってみる? うちの商会ならすごく珍しい毒も手に入るけど」
「それ、バレたらこちらにも飛び火するから止めて頂戴」
「それもそうか。商会に圧力をかけられても困る」
あはは、と笑う妹を見て、ミアは目を据わらせた。
「余計なことを考えずに希望通りに聖水を送ったらいいのよ」
「聖水、どれぐらいの量が必要なのかな」
「聖水の素を送ったらいいじゃない」
ミアは悩むシエナを不思議そうに見た。聖水と言えば、真っ先に思い浮かぶのは「聖水の素」だ。祖国の教会に行けばいつでも手に入る便利なもので、いざという時のために各家庭に常備してある。使い方は体がだるい時とか、疲れがたまっている時に祈りを込めて水に溶かすだけ。
心の強さが聖水の素を変化させるらしい。なんでも強い思いが一番ということだ。
「聖水の素でもいいけど……わたし、全部使ってしまっていて手持ちがないんだよね」
「教会に置いてないの?」
「あれ、うちの国の教会しか売っていないよ」
「そうなの?! 嫁入り道具だからてっきりどこの国にもあるのかと思っていたわ」
ミアは新しく知った事実に驚きの声を上げた。
「教会の聖なる家庭用セットはうちの国の特別なんだって。わたしも嫁いでから知ったの」
「教会の聖なる家庭用セット」は「聖水の素」「有難い壺」「悪を祓う短剣」の三種類が一つになったものだ。
祖国では冬になると雪が深くなり、教会に出かけるのが難しくなる。そんな祖国の状況を鑑みて、教会に出向けなくても神の恩恵が受けられるように聖職者たちによって作り出されたものだ。
どのような立場の人間でも手元に置いておけるように、聖職者たちの全身全霊の祈りがこもっているにもかかわらず非常に安い。祖国では嫁ぎ先で苦労しないようにと、女性の嫁入り道具の一つになっている。
二人は顔を見合わせた。
「あの子、もしかして聖水の素を知らないのかしら?」
「まさか、流石に……」
「でも、ユリアナが聖水を作っているところを見たことがないわ」
そう言われて、シエナも思い出そうとした。ユリアナは年が離れているため、長い時間一緒に過ごしたことがなかった。思い出せるのは末姫であるユリアナが誰かに世話されていた場面だ。放っておくと、面倒になることが多いので、何人かが交代で常について回っていた。
「あり得るかも。あの子の護衛騎士、マメな男だった」
「ユリアナは素直な子だから、何も考えずに与えられたものを飲んでいそう」
簡単に想像できて、ため息しか出ない。話しているうちに、シエナは別のことにも気が付いた。
「持たされていない可能性の方が高いかもしれない」
「そんなことある? お父さまはともかく、お母さまが渡しているはずよ」
「でも、輿入れが決まってすぐに祖国を出たようだから」
二人は妹の不幸な結婚にため息をついた。四姉妹とも、癖の強い相手に嫁がされ、幸せからほど遠い結婚ばかりだ。恐らくユリアナが一番貧乏くじを引いている。
「急ぎのようだから、わたしの持っている家庭用セットを送ってあげましょう」
「そうしよう。今から取り寄せても時間がかかってしまうからね。念のため、使い方も教えてあげた方がいいかな?」
「そうね。ユリアナは単身で嫁いでいったから、知っている人がいないと思うの」
「神秘的に見せた方がいいよね。他国には秘密だと聞いたことがある」
教会で三点セットを売っているのは秘密だ。総本山に知られたら罰を受ける可能性があるためだとシエナは聞いたことがあった。
二人は幾つか相談し合うと、ミアが嫁入り道具として持ってきていた三点セットをユリアナに送る準備をした。
~おまけ~
「教会の聖なる家庭用セットが欲しい?」
王太子は商会に嫁いだ妹からの手紙を受け取り、眉根を寄せた。手紙には簡単にミアの嫁入り道具であった家庭用セットをユリアナに譲った経緯が書いてある。どういう状態なんだと不思議な気持ちになったが、すぐにその理由を思い出した。
「そうか、ユリアナに持たせていなかったな」
嫁入り道具すらも持たせられずに送り出した、不運な末の妹。
王太子は強く言い聞かせて送り出してしまったことを、苦々しく思い出す。その呟きともいえる言葉を拾った側近が机から顔をあげる。
「ユリアナ姫は本当に慌ただしく嫁いでいってしまいましたからねぇ」
「聖水の素も十箱ほど欲しいそうだ」
「十箱!?」
「それだけの量を教会はすぐに用意できるんだろうか」
王太子は想像以上の量を要求されて、渋面になる。
壺や短剣は契約している職人に作ってもらってから祈りを込める。そのため、聖職者の手間はさほどではない。だが聖水の素はすべて聖職者が作り出すものだ。
歪みのない丸い水晶を作り出すのは、敬虔なる筋肉質な聖職者だからこそできる技。
水晶を適当な大きさに削り出し、刃物を入れるたびに祝詞を唱え祈りを込める。そして綺麗な球になるように最後は祝詞を呪文のように唱えながら、ひたすら磨くのだ。これは聖職者の修行の一つとされている。聖職者たちの真摯な祈りで空気はピンと張りつめ、とても厳かな気分になる。
「しかし、何に使うんでしょうね? そんなにも調子が悪いのでしょうか」
側近が首をひねる。聖水の素は多い人でも一か月に一度か二度、使う程度。それが箱で注文されてしまえば心配にもなる。
「はっ! まさか、ユリアナ様、毒でも盛られているのでは……!」
「流石にそれはないんじゃないのか」
やや不安に思いつつも、王太子はしっかりと否定する。
「では、おめでた?」
「おめでた……」
「子と母体のために、聖水を飲み続ける家もありますから」
「なるほど。それはあり得るかもしれないな」
王太子は妻が妊娠した時には特にそういうことをしなかったので思いつかなかったが、簡単に医者にかかれない平民にしたら安全な方法になる。
王太子は立ち上がった。
「教会に行って、頼んでくる」
妹の出産祝いを何にしようかと考えながら、彼は教会へと向かった。
~おしまい~