呪いが解けた後
フレデリックの執務室にはフレデリックとユリアナ、それからマクレガーの三人だ。専門家たちから今夜もしかしたら呪いが解除されるかもしれないと言われ、護衛などはすべて部屋の外だ。
呪いの時間が来るまでは仕事をするようで、執務机の上には書類が広げられている。マクレガーも同じようにてきぱきと書類処理を行っていた。
ユリアナは一人やることなく、長椅子に座りお茶を飲んでいた。
「暇そうだな」
「暇よ。何かすることはないかしら?」
フレデリックがちらりとユリアナを見て、そんなことを言う。ユリアナはむっと唇を尖らせた。公務をしないお飾り王妃に仕事などあるわけがない。
「それなら聖水でも作っていればいいじゃないか」
「でももういらないかもしれないでしょう?」
無駄になるなら作りたくないと言外に滲ませれば、フレデリックはマクレガーに何かの指示をする。マクレガーは席から立つと、壁際に用意してあったワゴンから何やら持ってくる。
「こちらの壺に聖水を作っておいてください」
「……これってシエナお姉さまが送ってきてくれた壺?」
「そうです。ついでに短剣もありますよ」
どうやら縁起がいいかもしれない、ということで一緒に用意しておいたようだ。壺も短剣も雑な扱いをされていることから、効果があるとは思われていない。
「まあ、いいけど」
やることがなくて暇なのは本当のことだったので、渋々と言った様子でユリアナは聖水の素を手に取った。いつものように聖水の素に気持ちを込める。
「こんなのが効いたのよね」
しみじみとした様子でユリアナは呟いた。
フレデリックが聖水を飲み始めてからは徐々に呪いは小さくなっていった。姿が幼子から徐々に成長していく様を見る目はすっかり母親だ。そして夜に効果を確認しては、彼のために聖水を作る。二人の距離が近づいていった。
昨夜、体はいつもと変わらずきらめいたが、変化はほとんど見られなかった。今夜、呪いが完全に解ければ、聖水作りも最後になる。
この数日間を懐かしく思いつつも、本当に呪いは解けるのだろうかという不安がこみあげてきた。ユリアナは壺に祈りを込めた聖水の素を入れ、水差しから水を流し込む。
「どうしよう。すごく緊張するわ」
「お前が緊張してどうする」
呆れたようにフレデリックに返されたが、それに反発する余裕はない。ただただ期待と不安の入り混じる目をフレデリックに向ける。
「今夜解けなければ、また聖水を飲めばいいだけだ」
「そうかもしれないけど」
ユリアナはこの複雑な気持ちを説明できなくて、黙り込む。フレデリックは嘆息すると、立ち上がった。
不安に表情を曇らせるユリアナの側に立つと、雑な感じで頭を撫でた。もう少し優しく撫でてほしいと文句を言いながらも、何故か撫でられたことで気持ちがほんの少しだけ楽になる。
「陛下、そろそろです」
マクレガーが時計に目を落として、時間を告げる。
「ああ、わかった」
フレデリックはユリアナから少し距離を取ると、じっと目を閉じた。ユリアナは瞬きも忘れて、フレデリックを食い入るように見つめる。
呪いの時間がゆっくりと過ぎていく。フレデリックの体には何の変化も起きない。昨夜まで見られた仄かな発光もなく、体も小さくならない。
「解けた、のか?」
フレデリックは目を開けると、自分の両手を握ったり開いたりした。マクレガーはほっと息を吐いた。
「呪いの発動は見られませんでした。気分はどうですか?」
「特に何の変化もない。呪いが発動すると何かが絡みつくような感覚になるのだが、それもない」
本当に呪いが解けたことを知って、ユリアナは顔を紅潮させた。
「本当に解けたの?」
「ああ、そのようだ」
「聖水の素、すごいわ! お姉さまにちゃんとお礼を言わなくちゃ」
呪いの時間になっても発動しないことを知って、嬉しさに笑顔になる。フレデリックはそんな彼女を見て口の端をわずかに上に持ち上げた。ユリアナのような見てわかる喜びではないが、呪いが解けて嬉しそうだ。
「ユリアナ、嬉しいのはわかるが気をつけろよ」
「大丈夫、ちゃんとわかっているわ」
ユリアナはフレデリックの注意を軽く流した。フレデリックは喜びに浸っていて真剣に考えていないユリアナを見て、彼女の頭を乱暴に掴んだ。
「きゃあ、痛いじゃない!」
「痛くしたんだ。いいか、俺の呪いが解けたということは――」
フレデリックが何かを言おうとした瞬間。
ユリアナの視界がぶれた。
「あら?」
ぐらりと揺れる視界と、ふわふわした足元にユリアナは慌てて踏ん張った。キーンと金属音が弾かれたような不愉快な音が頭の中に響く。ぎゅっと目をつぶり、何とかやり過ごそうとした。
眩暈にも似た症状が治まると、周囲が目に入った。ユリアナは一人になっていた。
「陛下の執務室、ではないわね。ここ、離宮の庭だわ」
目の前に広がるのは間違いなく離宮の庭だった。その独特な植物たちが植わっているのはあの離宮しかないのだ。
ユリアナは見ていて少しもときめかない花たちを見て、鼻にしわを寄せた。
「相変わらず悪趣味な庭ね」
大小沢山の花たちはすべて開花し、その素晴らしく目の痛い色彩を主張していた。濃い紫の花びらに鮮やかな黄色い点がちりばめられたものや鮮やかな赤の花びらが中央に行くにしたがって黒くなるようなものもある。色合いは美しい青であるが、中央からは紺色の長いひれのようなものが沢山垂れ下がっているものなど、形がグロテスクなものもある。
前回この離宮に迷い込んだ時よりもはるかに悪化していた。きっと離宮の主が目を覚ましたのだろう。そうとしか思えないほどの様相だ。
「あーあ。ちゃんと聞いておけばよかった」
もう一度ぐるりと見まわして離宮の庭園には自分しかいないことを確認した。ユリアナの動きに花たちが風もない中ざわめいた。
フレデリックもマクレガーも呪いが解けた後のことを心配していた。それを真剣に取り合わなかったのはユリアナだ。呪いが解けた瞬間に何かがあるとは思っていなかったし、何よりも一人で離宮に来ることになるとは想像してもいなかった。
しばらく自分の迂闊さを嘆いていた。ある程度気持ちを吐き出したところで、ユリアナは顔を上げた。
「よし、行こう」
行く場所など、一つしかない。
ユリアナは庭に咲き誇る花たちの中から白い花びらに血が飛び散ったようなぷっくりと赤い雫を持つ花を探した。一つ見つかれば、自然とそれだけが目につく。
この毒々しい花々の中でとても凛としていて高貴さすら感じた。
ユリアナはドレスに取り付けたポケットに聖水の素と武器があることを確かめてから、離宮の奥へと足を踏み出した。