後宮の温室
目の前にあった扉を押し開き、入ってみれば、そこは温室だった。日の光がたっぷり差し込むガラス張りの天井は鳥かごのよう。見たことのない沢山の毒々しい花が咲き乱れている。
その中央には温室には不似合いの天蓋のある大きな寝台が置いてあった。
「つくづく残念なセンスね」
アレシアが指を差しては駄目だと言っていた先ほど見た気持ちの悪い花の他にも、オレンジ色の花びらに大きめの黒い粒々した柄の付いた花や、赤黒いのもある。花には違いないが、何とも言えない色味の花たちだ。
花に貴賤はない。
ユリアナはとっさに拒否している自分を心の中で窘めた。とはいえ、冬の厳しいユリアナの祖国では見たことのないどぎつい色たちに目がちかちかする。人の気持ちを穏やかにする効果はきっとないだろう。
しばらく温室全体を見ていたが、いつまでこうしていても何も起こらない。仕方がなく扉から離れ、寝台の方へと足を進めた。
ゆっくりと近づいて行けば、天蓋から流れ落ちるようなレースのカーテン越しに人の姿がうっすらと見える。誰かが休んでいるようだ。
ここから抜け出す道を知っていそうな人がいたことにほっとしながら、慎重に近づいた。
「こんにちは。起きていらっしゃる?」
声が小さすぎたのか、反応がない。もう一度、声をかけるがやはり返事はなかった。
ユリアナはしばらく悩んだ末、天蓋のカーテンにそっと触れる。少しだけカーテンを開けて覗きこめば、そこには一人の女性が眠っていた。
人形のように整った顔立ちの女性は紙のように真っ白な肌をしており、暗闇のような真っ黒な癖のない髪がゆったりと広がっていた。
ふっくらとした赤い唇はわずかに開いており、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
ユリアナは眠り続ける彼女を不躾に見つめ続けた。彼女の持つ色の組み合わせが鮮烈すぎて、どうしても目を離すことができない。
「誰かしら……」
思わず零れ落ちた言葉。ユリアナは彼女が誰であるかは知らないが、一人だけ思い当たる人物がいた。
後宮で唯一生き残った女性。
眠り続ける彼女の顔を見つめているうちに、フレデリックの愛する人が唯一生き残ったこの女性だと突然理解した。そこがわかればすべて合致する。
後宮と貴族の粛清は彼女の存在が関わっているのだろう。戦いに明け暮れ、安全だと思っていた後宮から目を離した隙に、愛した人を害される。原因となる女性たちがこの後宮にいたのだから、激情に流されすべて切り捨ててしまったのかもしれない。非常に気の短いフレデリックだ。あり得なくはない。
だが、薬か何かが原因で彼女は眠りについてしまった。フレデリックの悪評は大陸全土に広がり、後継問題も解決しない。そこで後継を作るための王妃として選ばれたのは国の力も弱いユリアナだ。万が一、彼女が目を覚ました時に、ユリアナとユリアナの産んだ子供であれば排除しやすい。
ユリアナはもう一度彼女の顔を見つめてから、レースのカーテンから手を離し、寝台から離れた。
「愛する人がいるのはいいことなのに」
ユリアナは愛されて嫁いできたわけではない。フレデリックに愛する女性がいたことは不思議でもないし、喜ばしいことだ。なのに、胸に圧迫されたような鈍い痛みがある。
「なんだろう……胸が苦しい」
不思議なことがあったからかもしれないと、無理にこじつけた。それでも胸の鈍い痛みは治まらず、苦しさはひどくなる一方。
少し休もうとユリアナはきょろりと辺りを見回し、温室の隅に置かれている長椅子を見つけた。
「しかし、何でここに連れてこられたのかしら?」
彼女を見て、自分が不思議な力によってここに導かれたとはっきりと感じた。だが、彼女はここに眠っており、何も語らない。そもそもあの深い眠りは生きていると言っていいのか、わからない。
ユリアナには何が起こっているのかわからなかったが、ミンターが何か知っているようであった。難しい顔をして考え込んでいたが、情報を持たないユリアナがいくら考えても結論は出ないし、ここから出ていくこともできない。ある程度納得したところで、考えることをやめた。
「ま、そのうち迎えに来るでしょう」
ユリアナは靴を脱ぎ捨てると、足を長椅子の上に乗せて座った。歩き回ったせいで、足はずきずきと痛むし、お腹も空いた。予想外に彼の愛する人を見つけてしまって頭が混乱している。何よりも体が疲れていた。もう考えたくないし、動きたくもない。
足を抱え、丸くなる。空腹すぎて胃に痛みを感じるが、それ以上に疲れていた。目を瞑ればすぐに意識は途切れた。
◆
「……ろ」
「うん……もうちょっとだけ……」
ユリアナはしつこいぐらいに揺らしてくる誰かの手を払った。まだまだ眠っていたい。反対側に転がりもう一度丸くなる。
「おい! 起きろ!」
突然、大きな声で叫ばれた。ユリアナはその声を聞いてぱっと目を開ける。目の前には怒りを滲ませた鋭い目をしたフレデリックの顔があった。
「え、陛下?」
「寝ぼけているのか」
何でフレデリックがいるのか。
ぼんやりした頭ではよく考えられない。とりあえず起きようとしたが、がっちりとフレデリックに押さえつけられていた。
「起きるので、どいてもらえませんか?」
ピリピリした雰囲気に、ややいつもよりも丁寧な口調でお願いする。だがフレデリックはユリアナの希望を叶えることなく、ぐっと顔を近づけてきた。突然のことに、驚きすぎて眠気が飛んだ。
フレデリックは戸惑うユリアナに構うことなく、骨ばった大きな手で頭や頬、肩を撫でていく。その手はいやらしいものではなくて、確認しているようだ。
「どこか、おかしなところはないか?」
「特にありませんけど……」
「そうか」
普段と変わらないユリアナの様子に、フレデリックは全身から力を抜いた。そして覆いかぶさるようにして、ユリアナの肩口に額を付ける。
体の大きな男性にこのように寄りかかられて、驚いてしまう。どうしていいのかわからないまま、躊躇いがちに彼の背中に腕を回した。大きな背中がほんの少しだけ震える。
「――迎えに来てくださったのですか?」
「ん、ああ、そうだ。ミンターが顔色をなくして飛び込んできた。もっと早く来てやりたかったが、ここにたどり着くのに時間がかかってしまった」
ミンターと聞いて、ユリアナは二人の存在をようやく思い出した。
「アレシアも無事ですか?」
「ああ」
「よかった。どういうわけか、元の庭に戻れなくて、アレシアともはぐれてしまって」
やや言い訳がましかったが、意図してこちらにやってきたわけではないと主張する。フレデリックは大きく息を吐いてから、顔を上げた。まっすぐに彼に見つめられて、ユリアナはどきりとする。
「わかっている」
「では、二人が処罰を受けるようなことにはならないと思っていいですか?」
頷いたので、今度こそ心からほっとした。
「ゆっくりと話を聞きたいところだが、ここから出る方が先だ」
フレデリックは体を起こすと、ユリアナの腕を引っ張り、そのまま抱き上げる。
「ちょっと待って! 靴!」
「靴なんてどうでもいい」
フレデリックはユリアナの言葉を聞くことなく、大股で歩き始めた。どんどんと扉の方へと近づいていく。扉をくぐる時、ユリアナはもう一度温室全体を見やった。
夜が近いのか、空が赤から紫へと変化しつつある。この温室に入った時にはまだ青空が見えていたからかなりの時間、ここで寝ていたようだ。
「夜になるとまずい。急ぐぞ」
フレデリックはユリアナを抱き直すと、さらに足を速めた。
温室の扉が閉じる前、中央にある天蓋のカーテンが少しだけ揺れたような気がした。