プロローグ 前編
続けられたら、いいなぁ
人は出会いの連続だ。
良い出会い、悪い出会い
一期一会に竹馬之友となる出会いなど
生きていれば数多くの出会いに遇うだろう。
それは後年、「運命的だった」と思える出会いも、含まれている。
それを思い出したのは私が6才の頃、昼寝をしようと固めのソファーに寝転がった時だった。
それまでの私は悪い意味で達観した子供だった。
自分の家の立ち位置や、私自身の将来などは分からなかったけど
自分の親にあまり期待されていないと言う事位は理解できていた。
情が無いわけじゃ無さそうだが。
父も母も、私に対する優先度は私事以下だったように思う。
そんな雰囲気を察した私はまたひねくれた事に、ごねて甘えるよりも諦めることを選んだ。
後に生来の気質かと納得したものだ。
両親も兄弟も、決して私を蔑ろにはしなかった。私も大きな不満はなかった。
ただ、私の価値は、私が感じるよりも低いのだと、浅はかな聡明さが思い知らせてくれたのだった。
要に、早い内に私は周りに期待されるのを諦めたのだ。
受動的と言うか、流されやすいといと言うか。
そんな折りに、それは起こった。
喚起とか、想起とか、そんな感じだ。
にじみ出るように、頭の中に浸透するように、それでいて知っていたことを思い出すかのように。
様々な情景が、言葉が、感情が、駒落ちフィルムのシーンの切り替えが如く溢れて来たのだ。
昔の記憶、過去の記録。
それは、前世の記憶だった。
前世の私はそこそこの年齢だった。
平均よりもやや下の大学を出て、幾度かの転職をしつつスキルアップを経て食品会社の企画部に腰を落ち着けていた。
悪くない給料を貰い、過剰ではない時間労働し、そこそこの部下にも恵まれた、悪くない人生だ。
大学の後輩の紹介で知り合った女と結婚し、子供も三人恵まれた。
後暫く頑張れば、企画部の部長にもなれた時期に。
事は部署にとっては久しぶりの大型企画の為、私が海外の製造拠点に赴いていた際に起こった。
私が勤めていた食品会社の製造工場は、コストと物流の面から東南アジアでも少し情勢の不安定な国にあった。
お陰で人件費がかなり安かったので、フル稼働でアンダーラインの商品を生産させていたのだ。
私の出張も、生産枠の調整が主な理由だったわけだし。
そこは素直にインドにでも作れば良かったのにと今なら思うが、当時は連結した子会社と管理の関係でその国に作らざる負えなかったのだ。
結果として、私が視察中に暴動と、それに乗じたクーデターが起き、暴徒化した市民が私の居たホテルに火を放ち、私は煙に巻かれて意識を失ったと言うわけだ。
十中八九、死んでるだろう。
私が泊まっていたホテルは、外資系企業の役員が好んで利用する場所だった。
狙われた理由もそれだろう。
なんせ、外資系の企業による国内産業の切迫と搾取が暴動の理由だし、その外資系製造業の誘致を推し進めていた政府筋と一部特権階級への反発が、恐らくクーデターの理由だからな。
斯くして、政情の激化に巻き込まれた外国ビジネスマンが多く犠牲になったわけだ。
…残した家族に心残りはもちろん有る。
一応生命保険と、会社の危険手当てから保証まではしっかりとしている職場だったから金銭面での心配は無い。
ただなぁ
娘と息子の晴れ姿は見たかったなぁ…
とまぁ、過ぎたことをグチグチと悔やんでも仕方あるまい。
割りと前向きな私は、果たして理解した現状に困惑せざる負えなかった。
む、息子が居らんくなってる…!?
見ていただきましてありがとうございます。