後編:真ん中一番後ろ左側
プチン、と小さな小さな、でも不思議と耳が拾ってしまう音が落ちた。
はらりと襟足をくすぐる気配に、ああゴムが切れたんだなとハルキは思う。手を伸ばせば案の定指先に触れる散らばった髪。
床に目をやると、埃っぽい教室の木目にへなへなしたシリコンゴムが息絶えているのが運良く目に入った。よいせと拾い上げると、隣のソラと目が合う。
彼女はハッとしてまん丸な目をつくった。まるでそれは目が合うなんて思っていなかったかのようだ。
「あ、あの、こ、これあげる」
替えのゴムはないから、今日一日このウザったい首のまま過ごさないといけない。
気持ちが少し憂鬱になってため息がこぼしたとき、小さな小さな、内緒話するよりもしかしたら小さな声がして、猫の顔がついたゴムが机の上にちょこんと乗った。
ベッコウ色で、親指の爪くらいの、のっぺら坊な猫。
今度はハルキが目を丸くした。
「でも」
「わたし、もう一個持ってるから、どうぞ」
そう言う声は消えそうで、早く返事をしないと存在さえも消えてしまいそうな気までして、ハルキは言いたいことをいくつか飲み込む。
パチパチと瞬いてから黒いゴムの部分を摘んだ。
「ありがと」
好きで伸ばしてはいるが、このうだるような暑さでは鬱陶しいことこの上ない。助かった。
ソラはうなずいて、俯いているみたいにそのまますぐ顔を逸らす。さらさらした髪から覗いている耳が赤くて、胸を押さえた格好でそっとこぼされたため息が震えていて。わずかに唇にのった笑みが、ささやかでやわらかく、見つめてしまう。
もしかして。
もしかしてこの子は、自分のことを好きなんじゃないかなとハルキは思った。
そう思った、が。
どうやらそうじゃないとハルキは思い直すことにした。
なぜなら、この日だけでも頻繁に、ソラは誰と話しても小さな声で言葉をつまらせ、話した後に真っ赤な顔を俯かせて、大仕事が終わったと言わんばかりに安堵の息をこぼすのだ。
なーんだ、そうか。ハルキは内心で唇をとがらせながら襟足の猫を指で弾く。そして、そんな自分にはたとして頭をガシガシした。いや、別に、だからどうってこともないし。
あ! ハルキ髪ゴム猫だ~! そう言いながらキャッキャとするクラスの女子にへらりと笑っていつもどおりに他愛もないお喋りだってなんのその。気にしてなんかいない。
弁当を食べるときと体育のとき、ソラはセミロングのさらさらした髪を結ぶ。
それが白とベージュのマーブル猫で、ハルキの襟足を結ぶそれと色違いなことはすぐに気づいた。もう一個あると言っていたのはそういうことか、と思ってなんだか落ち着かない気持ちにさせて、ハルキは茶色い髪を誤魔化すようにガシガシ混ぜる。
それなのに、3日経たないうちにマーブル猫は居なくなって、彼女の髪をたまに結ぶのはなんの飾りも付いていない黒いゴムになってしまった。
なんでだろう。シリコンとは違って、このゴムはそんなにすぐには切れないだろうに。ソラにだって、あの猫の方が似合っていたのに。
ハルキは素っ気無いゴムをちらちら見ながら頭をかいた。
今年担任になった教師は席替えをやらなくて有名なやつだった。
いちいち座席表を作るのが面倒だし覚え直すことも嫌だという。そのかわり班活動やら複数人で組ませるときは自由にしろと言ってくれるから、初めはブーイングの嵐だったがクラスメイトも渋々受け入れているのである。
つまるところ、この一年ハルキの隣はソラだ。
今までは教科書やら消しゴムを忘れたときに世話になるくらいであまり気にしていなかったが、猫のゴム以来ハルキは隣をよく観察するようになった。
「なんの本読んでるの?」
朝、先に席についているソラは、決まって本を読んでいる。
知ったからどうというわけでもないのに、ハルキはついつい声をかけた。
目がまん丸になって、頬が真っ赤になる。あまり驚かせるのは悪いとは思いつつ、慌てるけれど嫌な顔はまったくしないソラがまっすぐとこちらに答えようとしてくれるのが、なんだかうれしくて。
ハルキは懲りずに尋ねて自分の席に腰かけた。
「え、えっと、謎解き系?」
「なんで疑問系」
あわあわしながら、小さな声が返ってきてハルキはふはっと笑ってしまった。
話すのは苦手だろうにハルキを無視することはなく、どうでもいいような質問にも一生懸命になって答える。
もしかしたら、本当はもっといろんな人と話したり関わったりしたいのかもしれないなあと、ハルキはゆるやかな時間が流れる会話を何度か行き来させながら勝手に思う。
だから、どうかなと口を開いた。
「もしよければだけどさあ、俺とたくさん話してみない?」
あまり人に興味がない自分が、驚きの発言である。
友達がたくさんいるとよく言われるが、ハルキにしてみたら深く付き合っているわけでもないのに気にかけてくれる人が多くて人間ができてる人が多いなあとしみじみする。
一番仲の良い友達なんて思い浮かぶはずもなく、可もなく不可もなしに毎日のらりくらりと過ごしているだけ。高校に入ってやりたいことがあるわけでもない。当たり障りなく毎日テキトー。
それなのに、隣の席になったソラは、あまりに一生懸命だったから。
思わず、近づいてしまったのだ。
目をまん丸にしたソラに野球の試合を引き合いに出したが、彼女が野球をしているところなんてどう頑張っても想像できず、我ながらかなり変な例えをしたなあと思う。
きっともしグローブを持たせたとしてもキャッチボールさえできるかアヤシイなと思ったが、ソラならそれでも顔を真っ赤にして頑張るのだろう。
少し前まで自分も必死になってボールを追っていたわけだが、離れてからなにかに夢中になることなんてなかった。
だからなのか、言葉を発することにさえ全神経を集中させているようなソラが、なんだか眩しく見えるのだ。
あの猫のゴムを渡そうとしたとき、どれだけの勇気と覚悟が彼女に必要だったのだろう。ハルキはすっかり襟足になじんだ猫を指の腹で撫でた。
それからというもの、自分でもウザいくらいにハルキはソラをかまいたおした。
朝、挨拶するところからスタートし、宿題やら予習の話題はほどほどに昨日テレビでおもしろかったこと、SNSで話題の猫動画、担任の口癖、ソラが読んでいる本などなど、なんでも話題にした。
初めはつっかえつっかえ、そのまま息がとまってしまうのではとハルキをハラハラさせていたソラだったが、あまりにハルキが話しかけるので次第に息が続くようになってきた。
「あのね、本を持ってきたんだけど」
律儀に両手でハルキへ差し出してくれた一冊の本。
昨日、おすすめしてなんて言ったから真面目な彼女は用意してくれたのだ。背幅が5ミリくらいの薄い本。
「すげー、本当に俺向きで薄い。どんなの?」
受け取って後ろにひっくり返すと、ソラがそわそわと体を揺らす。
「ええと、変わっている男の人が、変わっている女の人に出会って、毎日不思議なことをしながらちょっとずつ仲良くなっていく話かな」
「ちょっとファンタジー? ふーん、読んでみる」
「うん」
きっと選ぶのもすごく気を遣ってくれたんだろうなあと、本棚の前で悩むソラが想像できてハルキは指先でページを撫でた。寝ないように頑張ろう。
折ったりしないよう大事に鞄へしまうと、ソラが頬を赤くして唇を綻ばせた。
「ありがと」
ひと言こぼすにも顔をこわばらせていたソラが、やわらかく微笑んでいる。
それがとてもとてもくすぐったくて、ハルキは目をそらしたまま小さくお礼を言うことしかできなかった。
男女関係なく、ハルキのところで暇つぶしをしていくクラスメイトや他クラスの友達からもソラとの関係が気になるらしくなにがあったのか訊かれることが増えた。
ハルキは特に多くは言わず、自分が仲良くしたかっただけと答えると、相手は不思議そうだったり訳知り顔だったりいろいろだったが、勝手になにかを思ってうなずいていく。そんな彼らを、ハルキはソラの会話練習に混ぜることを忘れなかった。
おかげですっかり寒くなったころには、ソラはクラスで身を縮こまらせていることはない。
普通に挨拶を交わし、世間話をし、くすくすと笑い合う。
ハルキとの練習の成果がびっくりするくらい上手に出ていて、うれしい反面、ハルキはどういうわけか複雑な心境だった。
そうこうしているうちに年が明け、冬休みも終わって、男がそわそわしてしまう季節になってきた。
ハルキは毎日変わらない日々を過ごしながら、そう、別に意識なんてしていないで過ごしている。だから帰りに駅の売り場がピンク色に装飾されても、毎年大変だなと思うだけ。目で追ってしまうのは、派手な色が目立つからだ。
と思ってこの日も、なんの気はなしに視線を向けながら駅を通り抜けた。いや、通り抜けようとした。ハルキの足がぴたりと止まる。
――ソラが、いた。
かわいらしい雰囲気で女性ばかりが埋め尽くしているその売り場に、あの俯きがちで恥ずかしがり屋なソラが。
彼女は俯いていなくて、ちょっと長い前髪を払って、マフラーに埋れながらまっすぐと陳列された品々を見つめていた。
それが、なぜか、ハルキの息をつまらせた。
しばらく目が離せず、足も地面に縫い付けられたみたいに動かない。胃なんてぎゅうっと縮んで石になったみたいだ。
それでも、ハルキの足は歩くことを忘れたままだ。
いや、ほら、もしかしたら、義理チョコかもしれないし。お父さんとか兄弟とか家族の分かもしれないし。女子同士で交換とかしてるから好きなやつがいるとも限らないし。
ぐるぐると回る思考は、あの売り場の真剣なソラの顔を何度も何度も見せてくる。
そしてハルキはハッとして頭を振る。
別にソラが誰にチョコをあげようが関係ないのに。大人しい彼女でもこういうイベントにのることもあるんだなと意外だっただけだ。
引っ込み思案のソラは、もう話すのに慣れているとはいえチョコをあげるときに心臓が止まってしまうのかもしれないと思って心配だ。だからこんなにも気にしてしまうのだ。
思ったり、思ったことを振り払ったりしているうちに毎日眺めるスマホは2月14日を表示する。
落ち着かない朝。下駄箱は、靴を入れる直前まで、見ないようになんてしてないし、普通は靴を入れる直前にしか見ないものだろう。
ゴツいスニーカーを入れ……ようとしてそこがいつもどおりなにも入っていないただの箱でスニーカーは入れやすく、上の段から上履きを素早く抜き取って床に放った。
いや、そりゃあ靴を入れるところに食べ物なんて入れる神経、理解できないし。ないのが普通だし。
おはよー! とかけられる声にへらへらしながら手を振って、ハルキあげる! と渡されるチョコをいくつかもらって、カバンに詰めながら教室に入ると、隣の席はすでに人影があって、いつもと同じようになにかの本を読んでいる。
そう、ソラの方がハルキよりも登校は早い。それもたぶん1、2分どころではなく10分以上は。
たぶん、たぶんだけど、人は10分あればわりとなんでもできるとハルキは思っている。
たとえば、そう、隣の席になにか置くとか。
「はよー」
言いながらガタンと椅子を引くと、隣の肩が揺れてちらりとソラの顔がこちらを向く。
「お、おはよう」
ぺこりと下げられた頭は、そのまままた本の世界に戻っていった。
ハルキはいつもどおりゆっくりとした動作でカバンを横にかけて椅子に座ると、何気なく、そう、学生の本分は勉強だからなにも変なところはなく、机の中に手を伸ばす。
置きっぱなしの教科書が指に触れる。
教科書と、ノートと、たぶんこれも教科書。
――昨日と、変わりは、ない。
ハルキは机に手を入れたまま机に突っ伏した。
それから授業の合間の休み時間や、昼休みなんかになにかあるかもしれない。なんて思っていないし、普通に、いつもどおりに、ハルキはこの一日を過ごした。
放課後になるにつれ隣のソラは顔色が悪くて、それもまた心配だった。
あの日チョコは買ったのだろうか。買うのをやめた? それとも、もう渡したのか。
この様子だとそうだったとしてもうまくいっていないとは思う。思ってホッとして、ホッとしたことに落ち込んだ。なんなんだそこで安心する神経は。人として最低じゃないか。
「大丈夫?」
誤魔化すように声をかけると、しおしおした蒼い顔で笑みを浮かべたソラはうなずく。
「ほんのちょっと、お腹が痛いだけだから、大丈夫」
なんて、ちっとも大丈夫じゃないことを言う。
胃薬とか保健室とか、それとも家まで送るとか、言いたいことがいっぱいあって呼び止めたけれど、ソラは鞄を抱えてバイバイと手を振って行ってしまった。
ハルキは頭をぐしゃぐしゃと混ぜる。
変にかまいすぎただろうか。それとも体調がずいぶん悪いのか、大丈夫だろうか。
明日、休みだったら余計に心配だ。
チョコをもらえるどうこうよりソラの体調だ。あの真っ青な顔で誰かにチョコを渡しにいったのだろうか。いや、それは心配だし嫌だ。どうか彼女がまっすぐ家に帰っていますように。
そして来年は、もらえるように、一年頑張ろう。
と思ってハルキはぐっと頭の中でも言葉に詰まる。
もらえるようになんて、なんなんだその上から目線。マジかキメェ。だいたい、ソラに彼氏がいたら……――彼? ソラに? か、彼氏がいるのだろうか。
ガタン! と起き上がると思いの外大きな音が立ってしまった。
今まで考えもしなかったことが不思議すぎる。こうしちゃいられない。いてもいなくても、一年先なんてなにがあるのかわからないのだから。
ハルキは鞄を掴んで教室を出た。今日がダメだったとしても。作戦を練らなくては。
そういえば、ゴムをもらったままだった。
お礼は言った気がするが、もらいっぱなしもよくない。クラスメイトからお菓子のお裾分けをもらったのとは訳が違うのだ。
ハルキそう思いながら帰り道を急いだ。
先に出て行ったソラに追いつけないかと廊下を走ったが、通りかかった学年主任に見つかって注意を受けている間に時間が経って逃してしまう。急がば回れだった。
スマホで検索しながら頭を悩まし、もうピンク色の売り場がなくなった駅まで来ると、改札とは反対側の自動ドアをくぐる。
いつもピアスを買う雑貨屋とは別の、女の子たちが何人かで楽しげに連なりそうな店に入って、立ち止まったことのないアクセサリーを前にした。
ピアスが目の前にたくさん並んで、その下にネックレスやら髪留めが色とりどりに列をなしている。
これは、お礼だ。ただの。そう、もらったものを返すのはハルキにとってナシだから、彼女が使える新しいものを渡すだけ。
ベッコウも似合うだろうが、ピンク……いやこんな濃いやつじゃなくてもっと淡い、キラキラしすぎていない、でもあざといのとも違って。なんでこんなに種類があるんだ。
ハルキはその場から動けなくなった。
悩んでは手に取ったヘアゴムを元に戻し、違う店を見て、やっぱり家で検索し直して。
ハルキがようやくひとつのゴムを選べたのは、月が変わってから数日経っていた。これは、お返し。でも、お返しだけではダメだ。
だからハルキはラッピング用の包みを買っておいて、前日にキッチンに立つ。
家族からは汚さないでねと釘を刺されたが、家庭科でやったこともあるし、便利な動画サイトで選んだ動画を何度も見たし。大丈夫だろう。
腕まくりしたハルキは今晩格闘し、そして寝て起きたら、頑張らないといけない。そう、本番は明日だ。こんな生地をこねたり焼いたりすることは序の口なのである。
友チョコをくれた子たちにも返すから量は多めにした。その中から形や色がよいやつを拾ってソラ用に包む。
そこにクリーム色のリボンの飾りがついたヘアゴムを添えて、柄付きの袋にまとめて入れた。
緊張で寝つきが悪いなんていつぶりだろうなんて思うが、ソラがよろこんでくれるだろうかと思うとますますハルキは落ち着かなくて、ごろりと寝返りを打つ。
もうソラがどもることも少ない。
クラスメイトが話しかけることも多くなった。そうすると、もしかしたら、来年ソラがチョコを渡したいと思う相手ができてしまうかもしれない。それは、困る。とても困る。
明くる朝、ソラはいつもと同じでハルキの右隣で本を読んでいた。
ハルキはおはようと言って椅子を引き、鞄は横に――かけないで机の上に置いて、手のひら大の包みを取り出す。
周りの目なんて気にもしないで、おはようと挨拶を返してくれたソラへ、はいと差し出した。
「これ」
反射で出ただろう手を逃さないように。ぐいと押し付けるみたいに渡す。
まん丸な目。
ハルキは、小さく小さく、春のソラみたいに消えそうな声で、ホワイトデーだからと呟く。そしてゆっくりと大きく息を吐きだした。
「……あのさ、来年あげたいなって思ってもらえるように頑張るので、よろしくお願いします」
絞り出すようにそれだけは言うと、小さく、はっと息を呑む音が聞こえた。
意図は、伝わっただろうか。
最近ではあまり見なくなった真っ赤な顔でソラがうなずくまでを、ハルキは息を止めたまま見つめた。