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「グローセス・ラインヘッセン公爵令嬢。婚約を破棄してください」
私はその言葉を、その言葉を発した人を確認して、ひどい目眩で意識が飛びそうになりました。
漆黒の髪に夜明けの空の紫を想わせる瞳。穏やかに微笑むその麗人は、このアウスレーゼ王国では誰もが知っている、第一王子のリースリング様でしたから。
もし、殿下が私の婚約者でしたなら、この言葉にこれほど驚かなかったかもしれませんのに。
***
我らがアウスレーゼ王国には、三人の王子がいらっしゃいます。
第一王子のリースリング様。第二王子のミュラー様。第三王子のシルヴァン様。どなたも立太子はしておりません。
第一王子のリースリング様――今回私の頭を悩ますお方ですが、文武両道で眉目秀麗なとても優秀な王子でいらっしゃいます。特に有名な能力は先見、俗世的な言葉で言いますと、占いです。
幼少の頃より霊感に優れていたリースリング様は、興味を持って始めた占術が見事にあたるとのことで、王家で重宝されておりました。しかし突如、殿下は占術を控えて勉学と武芸に励むようになり、占術の能力は次第に忘れ去られてしまいました。
再度殿下がその力を周りに示したのは、二年前になります。
当時殿下が懇意にしていた従者に婚約者が出来た時のこと。従者に婚約者を紹介された殿下は、二人に死相が出ていることに気付き、躊躇いながらも二人に婚約をやめた方が良いと勧めました。
ところがお互い想い合っている彼らは死相など笑い飛ばして、婚約を続行しました。そして、結婚式の翌日。彼らは馬車の事故で二人して命を落としてしまったのです。
なぜこのように詳しいのかと言いますと、事故の後に殿下が、私ども年若い貴族に事の詳細を告げられたからです。従者の事故に負い目を感じていらっしゃる殿下は、婚約者同士が自らの未来がどうしても気になり、それを知る覚悟があるならば、彼らと同じように視る、と宣言されました。
殿下の婚約者占いは高い人気を誇り、占いを終えた彼らは、笑顔でそのまま結婚して幸せに暮らす者たちと、前例から泣く泣く婚約を破棄する者たちに分かれました。そしてリースリング第一王子殿下に付けられた二つ名が『愛の使者』、特に『愛の死者』。当初の従者の事件の印象、占術により別れた婚約者たちの恨みが強く、殿下は婚約者の愛を引き裂く死神として名を馳せていました。
――殿下が別れなさいと言ったならば、別れなければ不幸が襲う。
まさかそれが私に関わるなど思ってもいませんでした。
「グローセス? どうしたんだい?」
はっと物思いから戻れば、心配そうな顔を向ける私の婚約者がいました。
ああ、今は私の婚約者のケルナー様とのティータイムでした。
ケルナー・ゼクト公爵令息。明るめの茶髪に明るめ空色の瞳の彼は、優しげな顔ではありますが、リースリング様の端正さには及びません。八年前より同格の家同士として彼と婚約してから、穏やかな日が続き、いつかはこの方と新しい家庭を作っていくのだと疑ってもいませんでした。
思わずじっと見つめていたようで、ケルナー様は恥ずかしそうに身を捩りました。
「グローセス?」
「いえ、ケルナー様。ケルナー様と共にあれる私は幸せ者だと思いまして」
そうです。
こんな穏やかで優しい婚約者と結婚できる私は、政略結婚でも幸せなものだと思っていたのです。
でも、先日の舞踏会でリースリング様に言われた言葉が、私の中に影を落とします。
殿下のお言葉を、父のラインヘッセン公爵、またはケルナー様のお父様のゼクト公爵に伝えれば、即破談でしょう。それは占術が当たるからという話だけでなく、王家との政略も関わってくるからです。
この方とは幸せになれないのでしょうか。
どうやらこの時の私は、言葉の割に大変悲壮な顔をしていた様です。
「僕も、君と結婚できる僕は果報者だと思っているよ。でも、今の君はとても幸せそうに見えない。暗い表情で、いつも輝く銀髪も青い瞳も曇っている。僕のお姫様、何か心配事でもあるのかい?」
この場で言えというのでしょうか。貴方と私ではこのままいくと不幸になる様です、などと。
とても言えたことではなく口噤んでいると、ケルナー様が膝を叩いて立ち上がりました。
「そうだ! 何か心配ごとがあるのなら、以前話していた『愛の使者』に僕たちの未来を視てもらおうじゃないか! 大丈夫、僕は何があっても君を守ると誓っている。きっと素敵な未来が待っていると教えてくれるさ。そうすれば君の瑣末な心配事もなくなるよ」
息を呑みました。
もう一度、『愛の使者』のリースリング様に婚約者とのこれからを視てもらう。それはとても良い案に聞こえました。
本来は婚約者同士が直接出向いて占術を受けるもの。今回の様に第一王子殿下より婚約について声をかけられることなど、あの事件以外聞いたことがありませんでした。
そうです。もしかすると誤りかもしれません。または第一王子殿下の只の気まぐれかもしれません。
私はようやく明るい笑みで、私の婚約者に頷きました。
早速第一王子殿下に伺いを出した手紙は、すぐに許可の返信が来ました。
***
王城を訪れるのは初めてではありませんが、何度来てもその雰囲気に圧倒されます。
我が公爵家もそれなりの家格ではありますが、とてもこの王家の御座す王城の、荘厳さと絢爛さには敵うべくもありません。忙しく動く使用人も、兵も、皆動きに気品さがあり、慌ただしく見えません。
ふと、エスコートをしてくださるケルナー様を見上げますと、彼は憧れていたものを目の前にしたように、嬉しそうに目を細めていました。
「相変わらず、陛下の御座す城は素晴らしい」
「ええ」
「僕たち公爵家は王家に準ずる者として、国王陛下に忠誠を誓わねばならないと、王城に来るたびに身が引き締まるよ」
「そうですね」
ケルナー様は陛下に心酔されているお方です。王家の血の繋がりが多い公爵家で、例に漏れずケルナー様のゼクト公爵家は先代の国王陛下の王妃、つまり現国王陛下の母上であります国母を輩出した家です。王子殿下とは又従兄になりますね。
第一王子殿下に指定された、応接室に向かってゆっくりと進んでいきます。応接室に向かう一本の廊下は誰もおらずとても静かで、殿下がいらっしゃるだろう部屋の前にも兵さえ配置されておりません。
少し不思議に思っていると、不意にケルナー様が口を開きました。
「グローセスは、誰が国王にふさわしいと思う?」
「え?」
この国は出生順に関係なく、国王陛下が王太子を選ぶ仕組みです。まだ王太子が決められていないこの状況で、人がいないとはいえ派閥が蔓延るこの王城で、誰が国王にふさわしいかなど口にする事はとても危険です。
言い淀んでいると、睨みつけるように応接室の扉を見ていたケルナー様が、強い口調で言いました。
「適齢の王子が三人もいながら、陛下は未だ王太子をご指名なさらない。それは、現在、王太子にふさわしい者がいないという事」
ふるりと身が震えました。
いつもの優しげなケルナー様でなく、何か危ういものを孕んでいるように感じます。
もうやめましょう、という気持ちを込めて彼を見上げますが、こちらには一瞥もくれません。ついに第一王子殿下がお待ちになる応接室の前まで来てしまいました。
「陛下は立場故告げられない。ではそんな陛下の御心を、理解し、心安らかに居られるようにするのは、僕たちの使命」
入室の許可が下りて扉を開けられた瞬間、目に入ってくるのはソファーに掛けたひとりの黒髪の男性。不思議と心を乱す様な夜明け色の眼に、先日と同じく視線が吸い込まれてしまいます。
ふ、と笑んだリースリング第一王子殿下は、立ち上がって腕を広げました。
「ようこそ、ケルナー・ゼクト殿、ならびにグローセス嬢。待ちくたびれてしまいましたよ」
待ちくたびれた、と言う言葉に肩を竦めてしまいます。先日にお会いした後、特に連絡もなかった事を責めているのではないか、とおどおどしながら殿下を窺いますが、特に目が合うわけでもありません。
さあ、と勧められた対のソファーに腰を下ろします。隣のケルナー様を見ると、彼はいつもより硬い顔つきでした。先程の激情は見えません。傍目から見れば緊張しているように見えるでしょう。
そういう私も、色んな意味で緊張して、顔が硬くなっているのが分かります。
「この忙しない王城に来てもらってすみません。今は反逆罪の対応でごたごたしていまして」
反逆罪、とは先日の舞踏会での第二王子殿下婚約破棄での事でしょう。第二王子殿下を脅迫したとして、件の男爵令嬢は第二王子殿下の婚約者であるモーゼル侯爵令嬢が手を下されたと聞き及んでいます。
私もその場におりましたので、大変衝撃的な事件でしたが、その後の第一王子殿下のお声掛けの方が印象的でした。
「さて、今日は婚約者との相性診断ということで宜しいですか?」
「はい」
ケルナー様が短く頷くと、殿下が視線をすっと彼の顔に向けました。お互い表情を変えることもなくしばらくすると、殿下の視線が私に移されました。
神秘的な色の目が合い、思わず息を飲んでしまいます。昼間の明るい間で改めて見る殿下は、やはりどこを見ても端正な顔立ちで、より柔和な雰囲気を纏っていました。占術とはいえじっと見つめられると、そわそわして落ち着かなくなります。
ようやく視線が離れると、私はようやく息を吐きました。
「……はい、ありがとうございました。人相で占いました結果は」
殿下が、笑みを深くします。
「このままでは不幸になります。いち早く婚約破棄された方が宜しいでしょう」
やはり、内容は同じ。
思わず俯き、膝上の手に力を入れて握っていました。
そこにすっと手が重ねられるのに気付いて隣を見ると、ケルナー様が殿下に視線を向けたまま頷き、口を開きます。
「それは、なぜでしょうか?」
「なぜ? 貴方は運命に理由を求めるのですか?」
確かに占術の結果に理由を求めるのはおかしなものです。とはいえ内容が内容ですから、もしそう判断する理由があれば聞きたいと思うのは私も同じです。
私も聞いてみようかと、口を開きますが、ケルナー様に遮られました。彼はまた、強い眼差しをして殿下を見ています。
「僕は知っているんですよ。第一王子殿下」
なにを知っているのでしょう?
急な彼の言動に混乱する私とは裏腹に、殿下は変わらず読めない穏やかな笑みを浮かべています。
「殿下が僕とグローセスの婚約を破棄させようとするのは、グローセスが目当てだからですね」
え?
殿下の婚約破棄の目当てが私?
「グローセスの存在は、いやラインヘッセン公爵令嬢の立場は誰よりも王妃に相応しい。王の立場を盤石にするには、彼女は喉から手が出るほど欲しい存在です」
ケルナー様の言葉に、はしたなくもぽかんと空いた口が塞がりません。
確かに我がラインヘッセン家は国有数の公爵家で、父は宰相を務めております。後ろ盾としては、この上ない家柄でしょう。
それよりも。先程のケルナー様の言葉は、第一王子殿下が王位を狙っているのだろうと、決め付けるような言い方です。
失言ではないかと血の気が引いた顔で殿下をみますと、彼は優雅に脚を組み直しました。
「否定はしません」
それは消極的な肯定でした。なんてことでしょう、第一王子殿下が王位を狙っていると認めるなんて!
しかし、第一王子殿下が王位を考えていらっしゃると知れて、私はほっとしました。ケルナー様の問いには答えませんでしたが、私は目の前の第一王子殿下こそが次期国王に相応しいと思っています。殿下が身につけられた知識、立ち回りなどは内政や外交で既に発揮され、国内外共に評判が良く。その出で立ちは常に柔和で、微笑みを絶やさず冷静。我が父も認めるところです。
そんな殿下が私を狙う? そんなことがあり得るでしょうか。
殿下から目が離せないでいると、重ねられた手が強く握られて、引かれます。慌てて立ち上がり、バランスを崩したところをケルナー様が離すまいと私の腰を引きます。
驚きながら彼を見れば、怒りが、目に灯っていました。
「やるものか! 僕の婚約者のグローセスも! 認められていない次の王位も! 殿下には何もかも!」
私の鼓膜を振るわさんばかりの大声が響き渡ります。
同時に応接室の両側より素早く兵が入ってきます。王城の兵の証を付けた彼らは、殿下の身を案じて入ってきたのでしょう。
そう考えた次の瞬間。兵たちは手元の槍を一斉に構えました。――殿下に向けて。
私はあまりのことに悲鳴をもらしました。ケルナー様が抱く手に、力が込められます。
「ケルナー様……これは、一体」
「大丈夫だよ、グローセス」
何が大丈夫なのでしょう。
刃に囲まれた殿下を震えながら見ると、変わらず穏やかな微笑みをたたえて座っています。ふと、目が合いました。彼は目をすっと細めて、形良い唇を注意して見ないとわからないぐらいに僅かに動かしました。
だいじょうぶ。読み取れた言葉は、先程ケルナー様が口にしたものよりもすっと私の心に入ってきて落ち着かせます。
「どういうつもりでしょうか、ゼクト公爵令息」
動揺など見られない声で、しかしどこかひんやりとしている声で、殿下が尋ねます。
「僕は陛下の名代です。陛下が望まれても憚られることをしたまで。リースリング第一王子殿下、僕はとても残念です。貴方は生まれながらにして第一王子という立場でありながら、陛下のお心に沿う王太子になれなかった。だからと言って奪ってまで公爵家の後ろ盾を得て王太子になろうなど……愚かなことです」
ケルナー様は、自分が正しいと疑っていない、正義の目をしていました。この立場では、私がヒロインで、殿下が悪役のようです。
私はそんな彼に恍惚とした目を向ける、わけもなく、急速に彼への気持ちが冷めていきました。この部屋に着く前から彼が話していたことからしても、確かに陛下を敬愛するところがあるとは思っていましたが、勝手に陛下のお心を思い込むなど。ましてそれを元に王族である第一王子殿下に刃を向けるなど。
違う震えになった私の身体を、彼はさらに抱きしめました。
「王太子の指名は、なんらかの原因で王子が継承権を失った場合、他の血の繋がりがある者も対象になるのですよ。ですので、殿下。まず貴方には表舞台から去ってもらいます」
冗談でしょう、この方。
私が思うと同時に、殿下が笑い声をあげました。それは、愉快そうに。
「又従兄弟殿。そんな程度ですから、貴方は国王にはなれないのですよ」
殿下がすっと手を挙げると、周囲の兵が槍を下げます。え、と思っている暇もなく、急に緩まった腕から再度手を引かれ、私が殿下に引かれたのだと気付いた時には、槍に囲まれた中心にいるのはケルナー様でした。
呆然とした彼は、ひどく滑稽でした。
「残念ですが、こちらの兵は私の信頼の置ける近衛兵です。貴方が買収した兵は既に収監していますのでご安心ください。ああもちろん、同じく依頼されて弟に毒を盛った者もですよ。それにしても、ちゃんと頼みごとをした兵の顔は把握しておかないといけませんね。私があえてこの応接室まで兵を置かなかったのも、私のをひとりきりにするという自分の依頼がうまくいっていると思ってしまいましたか?」
ケルナー様は青くなりながら立ち尽くしています。
まだ、優しく諭すようで厳しい殿下の言葉は止まりません。
「そんな甘い策しか練られない貴方が、国王になる、ましてや陛下のお心など慮ることなどできないのですよ」
ピシャリと言い切った殿下は、兵たちに連行を指示します。
失意のどん底といったケルナー様は、連れていかれる際に、私を縋るような目で見てきました。それは、捨てられる猫のような悲しみを含んだ目です。
思わず身を竦めると、殿下が笑顔で言いました。
「大丈夫ですよ、又従兄弟殿。貴方の父上であるゼクト公爵がいらっしゃる同じ牢に入れてもらいますから、寂しくなんてありませんよ。親子水入らずの時を過ごしてください」
目を見開いて殿下を見るのは、私だけでなく、ケルナー様も同じ。殿下は不思議そうに、やや愉快そうに、首を傾げました。
「おや、私は『現在王城が反逆罪でごたごたしている』と言ったでしょう。そうですね、今回は反逆罪と言っても国家転覆罪で、被告もゼクト公爵という大物ですが。――この現状で、貴方の企みが漏れないわけがないでしょう?」
私が見たケルナー様の最後のお顔は、驚くほど白いものでした。




