02 先生
寒空の下で食べる肉まん、めっちゃ美味しい。
ここまであからさまな現実逃避も珍しいが、しょうがないだろう。
今日は風があまり吹いていないからか、川辺のベンチにひとり座っていてもあまり寒くない。
川の向こう側のビルの光や看板の明かりが綺麗に川に反射しているこの場所は、お手軽夜景(笑)スポットとして利用されているのか。私の視界の中だけでも二組のカップルが、川の柵に体をもたれさせながら楽しくお話をしている様子だった。
一方の私と言えば、無言で近所のコンビニで買った肉まんを頬張りながら「石畳の色がちょっと違うところ、テトリスみたい」なんていう訳の分からない事を考えている有様である。
そういえば、ここでよく浩介と一緒にタバコを吸っていた。
そんな事を考えれば、急に涙が溢れそうになってきたので「肉まんうまい……」なんて事を口にしておく事でそれ以上浩介の事を考えないようにする。
それでも、頭の中で勝手に再生されるのは「美咲、結婚の話はなかったことに」なんていう簡素過ぎるお別れメール。
今までの人生の中で、一番悲しいメールはいわゆる「お祈りメール」だと思っていたが本日記録更新。
ありえない。
せめて面と向かって言え。
せめて電話で言え。
……せめて、理由くらい言え。
なんて心の中のハードルがどんどん下がってくる。
ほかほかの肉まんも、ようやく食べ終わって。
くしゃと包み紙を丸めれば急にやってくる、虚しさと切なさと心苦しさと。
コーヒーショップを出た時は「今から肉まん食おう」という目的が頭の中に渦巻いていたからなんとかなった。
肉まんを買って、川辺に向かっている時は「今から肉まん食うぞー」なんて思っていたからなんとなった。
しかし、肉まんを食べ終えた今。目の前の景色を見つめるしかなくなった今。私はまた泣きだしそうになってしまう。
目の前を、犬の散歩をしている男性が通っていく。
犬はそこそこ寒いっていうのに、楽し気に石畳の上を歩いている。
いいな、私も今度は犬っころに生まれ変われば誰からも愛されるだろうか。なんて転生ワンチャンを考えていた時、ベンチに座る私の前でその男性は足を止めた。
「あれ、……大久保先生?」
先生、という懐かしい響きにぱっと顔を上げる。
「あれ……椿くん?」
そこには、大学時代バイトとして塾で働いていた時の教え子である椿悠馬君が、大きな瞳をよりぱっちりとさせて私を見つめていた。
「わぁ、先生だ先生! 久しぶりですね!」
ぱぁっと表情を明るくさせる椿くん。
ぴっと引かれた平行二重に、すっと通った鼻筋。がっと掴んでやりたくなるほど小さな輪郭は未だに健在。
そういえば昔「椿くんは格好いいというより可愛い感じだね」なんて言えば彼は「そんな事言われても嬉しくないです」なんてむすっとしていたっけ。
高校時代はずっと制服のまま塾に来ていたから、初めて見る私服姿。
ネイビーのチェスターコートに、白のニット。そしてすっと伸びた足を包む黒のズボン。
まぁ黒のハットに丸メガネなんかをおしゃれに決めてたら「椿くんがオサレサブカル大学生に……」なんて震えていたかもしれないが。
オサレ大学生ではなく、キャンパス内を一周すれば同じ格好をしている子が30人は見つかりそうな「普通にオシャレな大学生」に成長していて少し胸をなでおろす。
椿くんをじろじろ見つめる私に興味を示したのか、椿くんの飼い犬が私の足元に駆け寄ってくる。
私は今まで犬を飼った事がないので若干おびえながらも「よ、よ~しよ~し」なんて謎にムツコロウさんのモノマネを披露しながら犬の頭をなでる私。
「先生、なにしてるんですか?」
「あ、……え? ま、まぁ黄昏れてたみたいな……」
「こんな夜に?」
「……はい、まぁ……」
「リストラでもされたんですか?」
「いや、そうじゃないけどさ……」
同じくらい、重大かもしれない。なんて思いながら私は「あー、えっと、そのー」なんて言葉を濁していた。
「先生」
「……はい」
「あの、俺、なんでも……話、聞きますよ。先生には、受験期とかお世話になりましたし……」
頬をぽり、とかく椿君を見て、何故かぼろと涙があふれ出してきた。
何なのこの涙腺?どういうスイッチの入り方?私の疑問は椿くんの疑問でもあるようで。椿くんは「先生どうしたんですか!?」なんてアワアワ。
それでも泣き止まない私を見て、先生!先生ェーーーー!なんて大声で言うもんだから、周りから若干「ヤバい……教師と生徒の禁断愛か?」んなんて視線を感じる。
「あ、え、ごめ……泣き止むから……」
「いや、泣き止まなくていいんですよ!」
「……え、いや。ほんとごめん……」
「ああ、えっと、とりあえず先生どうしたんですか……」
ベンチの、私の横にあるスペースをじっと見つめた後、椿くんは「座っちゃえ!」なんて言ってどんと腰を下した。
犬はしっかり躾されているようで、椿くんが「ちょっと待っててなー」なんて言えば地面に伏せをする。
そして、ふはふは息をしながら真っ黒でまん丸な瞳を私に向けていた。
「あ、先生とりあえずお久しぶりです……」
「いえいえこちらこそ……」
二人して、ぺこと頭を下げ合う。
椿くんと最後に会ったのは、高校の卒業式の帰りに彼がぴょこっと塾に顔を出してくれた以来だ。
めでたい日だっていうのに、何故かむすっとしていた椿くんは私がお祝いとして用意していた塾特製蛍光ペンを「いらないですよ、そんなの」なんて口を尖らせながら言っていた。
普段はニコニコ笑ってたくせに、なに急に不機嫌になってんだか。
私は「先生さよなら!」なんて言い捨てるようにして塾を出ていった椿君の背を見ながら「あの子、実は私の授業不満に思ってたのかな」なんて思っていた。
「椿くん、大学はどう?」
「あ、ええ、先生のお陰で第一志望合格しましたし。まぁ、楽しいです」
先生のお陰って、なんてちょっと笑いそうになる。
先生1対生徒2のよくある個別塾。私の担当は文系科目で、理数系の椿くんからすればぶっちゃけ「そこそこの点数を取れたらいい教科」担当の先生だった。
椿くんが本当にお世話になったのは、理数系を教えてくれてたスパルタ江波先生じゃん。なんて言いかけた時、椿くんが口を開いた。
「先生。それよりどうしたんですか。泣くほどつらい事でも……」
「ああ……まぁ、ちょっと……」
「俺、聞きます」
「え、いや……悪いからいいよ」
そう言ってみるものの、椿くんはぐっとした表情で「聞きます!」なんて言う。
何がそんなに彼を駆り立てるのやら。彼は心理学部に進学したはずではないんだけど。なんて思いながらスマホを探す為にポケットに手を突っ込む。
タバコの箱は、椿くんに見えないようにぐっと押し込んでおいた。
「これ」
そう言って、先ほど来た浩介からの「美咲、結婚の話はなかったことに」なんていうメッセージを椿くんに見せる。
椿くんは、ちょっと見てはいけないようなものを見てしまったような顔で「ヘビィ……」なんて呟いた。