11 うやむやあやふや
次の日。仕事帰りっていうのに、本当になにやってんだかなぁ。なんて思いながら、私の隣に立つ男を見た。
おそらくこの男は忘れているであろうけどずっと前の誕生日に私が送ったネクタイを付けている。
ちなみに、私もいま数年ぶりくらいに「そういえば、それ私が浩介に送ったネクタイだったわ」なんて思いだすレベル。
昨日と同じ様な景色を二人で並んで見ながら、私は口を開いた。
「浩介。私たち別れよう」
そう言って、浩介を見た。
「美咲、今までごめん」
「何に対する謝罪?」
浩介は、少しだけ口をごにょとさせた後に「なんか、まぁいろいろ……」と小さく呟いた。
そんな浩介を見て、ほんとになぁ。なんて思った後に口を開く。
「昨日、解散してから何を考えてたのか、お互い発表しようか」
浩介は、隣でいつものやつ。なんて言ってちょっと笑った。
高校時代からずっとやってきた儀式。もの凄く大きな喧嘩をして謝りっこした後に。お互いどういうところを反省したかとか、一人でどんな事を考えていたかなどを言う発表会。
「昨日は、美咲の顔見て別れようって言ったらなんか、こう急に実感が湧いてきて……あ、俺マジで美咲と別れるんだ、って……」
「……うん」
「え、無理。って思ったけど、よくよく考えれば自分の撒いた種だよなって」
「よく分かってるじゃん」
そう言えば、浩介は小さく笑った。
そして、美咲は?なんて呟く。
「私は……あんたと解散した後にね」
「うん」
「あんたの浮気が発覚してから『美咲さんの事が好きです』とか告白してきた、下心ありありな男の子と話をしてた」
「……」
「その顔やめて、腹立つ」
「……ごめん」
今日は風が少し強くって、スヌードの内側に入りきっていない横髪が少し風に揺れる。
浩介は何も言わずに。ただ、まっすぐ前を見ていた。
浩介は一体、どんな気持ちでいるんだろう。なんて思ってももうどうしようもない事なんだけれど。
「あんたはもともと、私と別れる気マンマンで昨日来てたんだよね?」
「……うん、でも」
「でも、なんか私を見たら九年間の情でって感じ?」
「……うん」
浩介は、黙った。
私はポケットの中から、浩介と同じ銘柄のタバコの箱を出して。「ん」と言って一本浩介におすそ分けをしておく。
もう、タバコを吸うのはやめたいから。残り数本のタバコを今日中に消費しきってしまおうという作戦。
二人して黙って、タバコに火をつけて。煙を吐く。
私はこの瞬間が、どうしようもないくらい好きだった。
浩介の友人から、浩介は彼女もタバコに付き合ってくれるからいいよね。なんて言ってくれていたあの言葉が何故か誇らしかったのを今でも覚えている。
「私も、そうだった。半年間も平行された浮気クソ人間相手なのに。……なんか、別れたくないなぁって思った」
「……うん」
「浩介」
「……なに?」
「本音、言っていい?」
「……うん」
「半年間も浮気してたとか、夢だったらよかったのにって思ってた」
あの日、私の見たものは全部ゆめで。
目が覚めればいつもの通り浩介が寝てて。
ああ。なんだしょうもない夢みたな。なんて思いながら「浩介早く起きて」って言って。
そうであってほしいって、思ってた。そんな事思ったって何の意味もないけど。
「でも、あんたが浮気してたのは事実だし。私より浮気相手の方が好きなのも事実だし」
「……こう、いま、天秤にかけるってなると」
一緒くらいかもしれないけど……。なんてまたうやむやあやふやな物言いを浩介がはじめるから本当に笑えてしまう。
「別れよう」
私たちの住んでいた地元より、ずっとあたたかい風。顔全体を覆うマスクが欲しくなるようなそんな冷たい風じゃない。
なのに、どうしようもないくらい冷たく感じる風が私と浩介の髪を揺らし、タバコの煙を暗闇の中に溶かしていく。そういえば、今年はまだ雪を見てないね。
「九年間、ほんと長かったね……」
「……」
「正直言ったらさぁ、私。もしあんたが『やっぱりあの子より美咲の方が好きだ!』って言えば許しちゃうようなバカなんだよね」
「……」
「その顔やめて」
浩介は、何も言わなかった。
タバコの灰を落とした後、ちょっとまた吸い直して。そしてお行儀よくポケット灰皿の中にタバコをぶち込む。
「長かったね」
「……美咲、」
「楽しかった」
「……俺やっぱり」
「大好きだった」
そう言えば、また涙がこぼれだしてきた。
何が原因で泣いているのか、自分でもちょっと分からない。
悲しさ?虚しさ?それともやりきれなさ?
涙、って人間が作り出した一番の感情揺さぶりアイテムだと思う。
浩介は急に顔を歪めて、親指の腹でぐっと私の涙をふき取る。
「美咲」
「……」
「やっぱり、俺……美咲がいないとダメかもしれない……」
あんたはほんと「ダメかもしれない」とか「天秤にかけたら一緒くらいかもしれない」なんて曖昧うやむやな表現ばっかり。
「半年間も浮気してたくせに、今さらちょっと迷うな」
「……でも」
「わたしたち、別れよう」
空を少し見上げた。涙が止まりそうな予感がして。
そういえば、冬の夜ってオリオン座が見えるんじゃなかったっけ。そんな事すら忘れたのは、あの生まれ育った雪国を離れて長いからか。
「私、最近ちょっと飲水量が増えてきてて。地球に悪いなぁって思ってるんだよ」
「……どういう意味」
最近ちょっと泣き過ぎた。
なんて笑って、涙をこぼしながら言えば、浩介は明らかな困り顔を浮かべる。
「だから、次はあんまり私の事泣かせない人を選ぶよ」
「……さっき言ってた『下心ありありな男の子』?」
「だったらどうすんの?」
「……いかないでほしい、って言う、かも……」
「はは。また『かも』? ほんと、はっきりしないなぁ」
涙をぐっと拭った後に、すんと一回鼻をすすっておく。
高校時代からの、どうでもいい思い出が走馬灯みたいに頭を巡って。脳内の細胞がまだ「もうちょっと考えてからの方がいいかも」なんていうメッセージを送ってくるから笑える。
「浩介」
「……」
「私に隠れて浮気してた事を後悔しろ。美咲と別れたの間違いだったかな~なんて後悔してろ。という思いをまとめまして。『私以外の女の子とどうぞ幸せになってください』という言葉を送ります」
昔、私と浩介の間で流行ったなぞかけ風のもの言い。
「整いました!」なんて宣言するくせに、まったく整っていない事ばっかりだった。今日もまた然り。
そう言えば、あのなぞかけをする芸人をまねていたのは、何年前の事だっけ?
「……美咲」
「なに泣いてんのさ」
「……あのさ」
「……うん」
「ほんと、悪かった」
私の手首をぐっと握った浩介がそう言う。
「俺、いま思い返してみれば」
「……うん」
「美咲だったら、なんて安心感があったのかな」
「だろうねぇ」
「半年間は、確かに裏切ってたけど、八年半は……」
「はは、今さらいい人ぶらなくていいって」
バカみたいに泣いてる浩介。
ほんとに、笑える。
「美咲の事、凄い傷つけてた」
ごめん。という言葉。
あんたさぁ……それ、別れたくないからの引き留め言葉としては遅すぎるし、別れた後の後悔の言葉にしては早すぎるし。
こうやって、離れようとすればいい人間みたいな言葉を吐いて。
これが、計算でやってるならまだいいよ。
でも、あんたはこういう事を無自覚のうちにやるからよくない。
「……だから美咲も、俺以外の人と幸せになってください」
「なにセンチメンタル浸ってんの? ほんと腹立つわ……あんたみたいなクズが、ちょっと感動的な言葉いったって何も響かないから」
「そういうわりには泣いてる」
「ほんと黙ってて」
最近買ったばかりのコート、絶対にクリーニングに出さなきゃ。なんて思いながら涙をぬぐう。
そして、ぎゅと目をつぶって、大きく一回鼻をすする。きっとトナカイもびっくりな真っ赤なお鼻っぷりだろう。
「……よし、一回最後に殴らせろ!」
浩介もさすがに「へ……」なんて困惑気味。
それでも、己の罪をようやく認識したのか。両手をぱっと上げ降参ポーズを。
ぎゅっと目をつぶっているのは、中・高ともにソフトボール部のエースであった私への恐怖からだろう。
ぱき、ぱきなんてわざとらしく指を鳴らす。
高校時代、一緒に指を鳴る人ってかっこいいかも。なんて言って練習してた賜物だよ。
そういえば、地元の皆にはバカにされてたよね。
都会に出て大学に進学すれば冷めるって。
高校時代の恋愛は、狭い世界の中でのものだから続くんだって。
バカにしてた皆もさ。
社会人になっても続いてたから凄い凄いって言いながら「ギネスブックに登録しよう」とか意味わかんない事言ってたよね。
こんなちっぽけな記録、ギネスに登録できるもんか。
それにしても困ったな。
涙のせいで力がでない。私は正義の味方のあのキャラじゃないんだけど。
おもいっきり殴ろうと思ってたのに。
結局は、ぺち。なんていう情けない音の後、ただ浩介の頬をすっと撫でるだけになってしまった。
浩介も恐る恐る目を開けて、私を見ている。
「バイバイ」
「もう、二度と会いたくない」
お願いだから私と付き合っていた時以上に、幸せにならないで。
そう言いたかったのに、言えなかった。