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例えば、僕らが  作者:
9/13

9.僕らの決断:前篇

 翌日。

 いつも通り出勤した僕は、エレベーターの前で不意に立ち止まった。いつもはないはずの姿が、そこにあったからだ。

「石動?」

「あ、おはよー市橋くん」

 こちらを振り向き、ニコニコと笑う石動。その目尻は赤く、幾度もこすったような痕があった。昨日の件で、あれからずっと泣いていたのだろうということが否応なく分かってしまい、胸がキリリと痛む。

 ちょうどやってきたエレベーターに乗り込みながら、僕はまるで腫れ物に触れるかのように、石動へ尋ねてみた。

「今日は、陽菜子の仕事に付き添わないのか?」

「あの子、昨日まで夜通し仕事だったでしょ? だから今日はオフ」

 思いのほか、彼女から返ってきたのは普通の反応。そのことにホッとした……のも、ほんの束の間だった。

「わたしは……引き継ぎ、しなくちゃいけないから」

 次に発された引き継ぎ、という言葉には、どうしても拭い去れない寂しさや苦しさを感じてしまう。石動の気持ちが伝わりすぎるぐらい伝わってきて、また胸が痛んだ。

『ホントに時間が必要なのは、わたしの方、なのに』

 昨日彼女が発した、弱々しい言葉を思い出す。

 今日こうしてここに来るまでに、少しでも気持ちの整理をつけることができただろうか……。

 僕の微妙な表情に気付いたらしい石動が、ふにゃりと柔らかい笑みを浮かべる。それはやっぱり、いつもよりどこかぎこちなかった。

「さ、もうすぐ始業時間だよ。お互い、頑張ろうね」

 頑張ろうね、の前につく主語は、言うまでもなく『仕事』なのだろう。けれど今の僕には、それ以外の意味も含んでいるかのように聞こえてしまい、まるでこちらの内心を見透かされているようで思わずドキリとした。

「あぁ、頑張ろう」

 答えた声は、震えていなかっただろうか。

 チーン、という音が、石動が降りる階に着いたことを機械的に知らせる。

「じゃ、また」

 そう言って降りていく、石動の顔を窺い見る勇気はなかった。ただでさえ集中できない最中にいるのに、そこでさらに彼女の顔を見てしまったら、もう仕事どころじゃなくなってしまいそうだったから。

 石動を見送ると、間もなく自分が降りる階へとエレベーターが到着する。

「よしっ」

 小さく掛け声を上げ、僕はエレベーターを降りた。


「市橋、お前昨日さ……」

 案の定、オフィスに着くや否や顔を合わせた沢城が声を掛けてくる。那智に連行されていた場面を、あれだけばっちり目撃されたのだから、当然といえば当然かもしれない。

 普段忙しくてほとんど事務所に来ない那智があの時間にいたことも、あの時の僕たちが――主に那智が、ただならぬ雰囲気を発していたことも、彼の疑問を余計に煽る要因だったのだ。

 声や表情から、僕を心配してくれているのであろうことがありありと伝わってきて、その気持ちはただ嬉しいと思う。

 けれど……。

「別に、何もないよ」

 ――今はまだ、お前にも言えない。僕自身の心の整理が、まだ十分についていないから。

 心の声に乗せるようにして、拒絶の言葉を放つ。

 沢城は僕の言葉の意図を汲み取ってくれたのか、ただ「そうか」とだけ言った。それからいつも通りの笑みを浮かべて

「んじゃ、仕事すっかね」

 と明るい声を上げ、オフィス内の自分の席へと歩いていく。

 彼のやたらと広い背中を見つめながら、僕は大きな安堵と小さな罪悪を感じずにはいられなかった。

 心配をかけていることは、自分が一番よく分かっている。

 それでも、自分の中に未だ迷いがあるままでは、言葉にしようとしてもきっとうまくできないから。

 だから、もう少し待っていてほしいと思う――この感情は、単なる僕のわがままだろうか。

「おーい、市橋。いつまでそこに突っ立ってるつもりだ」

 先に来ていた上司の声に我に返った僕は、落ちていく気分を振り払うかのように、頭を振る。

 もう一度気合を入れ直すと、僕は上司に向けて返事をしながら、オフィス内の自分の席へと早足で向かった。


    ◆◆◆


 予期せぬ来客があったのは、仕事も一段落した夕方頃。一階ロビーのソファに座り、自販機で買った缶珈琲を飲みながら、沢城と他愛ない話をしていた時のことだった。

「あのぉ……」

 聞き覚えのある特徴的な声と語尾の伸ばし方に、ハッと顔を上げる。隣にいた沢城が、驚いたような声を出した。

「あれ、陽菜ちゃん」

 目の前に立っていた陽菜子――今日はオフだと言っていたから、プライベートと思しき服を着ている――は、曖昧にはにかみながら「こんばんは」と小さく会釈した。

「陽菜ちゃん、どしたの。今日はオフだって聞いたけど……」

 何となくここに来た理由は察していたけれど、沢城がいる手前でもあるので、できるだけ自然に見えるよう尋ねてみる。陽菜子は「あのですね……」と言いながら、落ち着きなくしきりに辺りを見渡していた。

「葉月さん、いますか」

 やっぱりそうか、と思う。よく見ると、陽菜子の目も今朝の石動と同じようにほんのり赤くなっていた。今日がオフで、本当に良かったと思う。

「石動は、確か引き継ぎ作業で……あ、もう少ししたら終わるかな。呼んでみようか」

「はい、お願いします」

 沢城が自分のポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作を始めた。それを耳に押し当てると、しばらくして電話に出たらしい相手に向けて話しかける。

「あ、石動? 今日事務所にいるよな? ……仕事は? 終わったか。うん、じゃあちょっとこっち来てくんない? 一階ロビーに来客いるから。うん……うん。わかった。できるだけ早く来てね。先方をお待たせしちゃまずいし。うん、うん。はーい、じゃあね」

 そう話すと、沢城は電話を切った。石動に来客の正体――陽菜子のことを言わなかったのは、きっと陽菜子の、そして僕の様子を見て何らかのことを察したからなのだろう。

 礼を言うと、「いや、別にいいよ」という何ともスマートな答えが返ってきた。陽菜子も同じように「ありがとうございます」と一礼したかと思うと、おもむろに僕の方を気弱な目で見てきた。

「どした?」

「あの……沢城さんにも、昨日のこと、ちゃんと説明しといたほうがいいかと思って」

 呼び出していただいた手前、何でもないなんて言って終わらせるのはおかしな話ですし。

「そっか……わかった」

 うなずくと、陽菜子はホッとしたような表情になる。

「ん、どうしたんだ? 何かあったのか?」

 ある程度のことを察しているようで何も知らない様子の沢城に、僕と陽菜子はこれまでのあらまし――昨日、石動と陽菜子の間にあったことについて、包み隠さず打ち明けた。僕が話す主なあらすじに、陽菜子が足りないもの……例えば陽菜子自身の気持ちなどについて、少しずつ付け加えて説明していく。

 全て話し終えると、沢城は腕を組みながら、合点がいったというように「なるほどな」と何度もうなずいた。

「それで、落ち込んでたわけか。陽菜ちゃんも、石動も……そして市橋、お前も」

 何気なく付け加えられた言葉に、ドキリとする。

 僕のことは――僕と那智のことは、沢城には何も話していない。今の話にも、それを匂わせるようなことを入れた覚えは何一つなかったのに。

 それでも沢城は、僕がした今の話でそこまで察したらしい。憎たらしいほど察しのいいやつだと呆れると同時に、隠していたことに対する罪悪感が少し薄らいだような気がして、なんとなく安心したのも事実だった。

「じゃあ今日陽菜ちゃんは、石動と話しに来たわけだ」

「はい……」

 沢城の問いかけに、力なく陽菜子はうなずく。

「昨日は『時間をください』って言ったっきり……葉月さんの前から、逃げちゃったから」

 廊下ですれ違った時の陽菜子を、そして喫煙室で会った時の石動を思い出す。悲しみや苦しみを隠せず、全ての感情をあるがまま表に出したような……一見無関係なはずのこちらの胸までも鷲掴みにするような、いっそ絶望的とも言っていいような表情。

 沢城は小さく溜息を吐き、「そっか」と呟く。

「ちゃんと、心の整理つけてきたんだ」

「はい」

「じゃあ、ありのままに話さなくちゃね」

 沢城がそう言ったとほぼ同時に、チーン、というエレベーターの音が聞こえた。ドアが開き、中からパタパタ、と駆け足のような音が聞こえてくる。

「すみません、お待たせしました。石動です」

 沢城の姿を見つけたらしく、こちらに駆け寄ってきた石動は、僕たち三人の姿に――おそらく正確に言えば、陽菜子の姿に――目を丸くする。

「陽菜子……?」

「葉月さん」

 動揺したような声を上げる石動に、いつもよりかしこまったような仕草で会釈する陽菜子。

「とりあえず、座ったら」

 僕と沢城が座っていたソファから立ち上がり、二人へと促す。陽菜子は緊張気味に、石動はやっぱり動揺を隠しきれない様子で、それぞれ空いたスペースへと腰かけた。

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